発見の喜び

ルカ2:15-20

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2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
2:17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
2:18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
2:19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
2:20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

 一、アドベントの喜び

 アドベントキャンドルは、基本的には「紫」です。それは、教会の典礼色から来ています。教会の典礼色は紫、赤、白、そして緑の四つの色で成り立っています。紫は「悔い改め」、赤は「死」と「聖霊」、白は「栄光」、そして緑は「命」を表します。たとえば、レントの期間は「紫」、受難週は「赤」、イースターは「白」、ペンテコステは「赤」、三位一体主日は「白」、その後は「緑」使います。それぞれの色の布で礼拝堂を飾り、礼拝者にそれぞれのシーズンの到来を告げ知らせるのです。

 アドベントの「紫」は、救い主の降誕を、悔い改めをもって迎えることを教えています。しかし、こんにちでは、心静かに自分を省みながら救い主を待つアドベントの期間が忘れられてしまいました。商店ではハロウィーンが終わるとすぐにクリスマスのグッズが並べられ、サンクスギヴィングが終わると、町ではクリスマスパレードやクリスマスコンサートが立て続けに催されます。「アドベント」が無く、いきなり「クリスマス」になってしまうのです。日本人の間では、クリスマスは酒を飲んで騒ぐ「忘年会」の一つと思われています。アドベントの「紫」は、酒を飲んで顔を赤くしている人々に、騒ぐ心を静めて「しらふ」(sober)になることを教えています。「紫」は血の気を抑えた素面(しらふ)を表しており、浮かれた心を静めるようにと教えているのです。「世の思い棄てて御恵みを思え」(新生讃美歌154)と賛美歌にあるとおりです。

 ところが、アドベント第三週の「羊飼いのキャンドル」だけは色が違います。これは、「薔薇色」といって、紫を薄めた色になっています。というのは、「羊飼いのキャンドル」が「喜び」を表すからです。救い主を待ち望むこと、静まって神の前に出ることが、決して難行苦行ではなく、じつに私たちの心を満たす喜びだからです。

 「クリスマス」は “Christ” と “Mass” が繋がってできた言葉です。「キリストへの礼拝」、それが「クリスマス」です。クリスマスの喜びは、パーティやギフト、コンサートやイベントから来るものではなく、キリストから来るものであり、キリストを礼拝することの中にあるのです。クリスチャンなら、この喜びを知っているはずです。ほんとうの喜びを知らない人々は、「笑い」や「楽しみ」が「喜び」であると思い込んでいます。しかし、「笑い」も「楽しみ」も一時的なものにすぎません。それが過ぎ去ったあとに虚しいものが残るだけです。人々はその虚しさを満たすために、忘年会の次は新年会、新年会の次はヴァレンタインデーと、イベントからイベントへと「はしご」をして回るのです。ヘンリ・ナウエンは「私たちは、多くのことに忙しくし、感覚に人工的な刺激を与え、一時的に興奮するという、ちっぽけなことを追い求めているのです」と言っていますが、その通りだと思います。このシーズンに、わたしたちクリスチャンは、自らがキリストから来る喜びを味わい、キリストを礼拝する喜びを人々と分かち合いたいと願っています。

 二、聞く喜び

 では、どうしたら、この喜びを自分のものにし、それを人々と分かち合うことができるのでしょうか。そのことを、きょうの箇所の「羊飼い」から学びましょう。

 第一に学びたいことは、この喜びが天使によって告げられたものだということです。ルカ2:10-11にこうあります。「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。』」

 古代では、王子誕生のアナウンスメントは「良い知らせ」また「福音」と呼ばれ、それと同時に恩赦や税の免除が行われたり、金品が配られたりしました。王の王、主の主である神の御子イエスの誕生に際して、神は、天使に王子誕生のアナウンスメントを行わせ、羊飼いに、この「大きな喜び」の知らせを聞かせてくださったのです。

 羊は町の中では飼えません。ですから、羊飼いは町から離れ、羊と一緒に野山で生活します。その生活は、町での生活とは違ってきわめて単調なものだったと思います。朝とともに草を求め、水を探して野山を歩き、日が暮れれば、羊を囲いの中に入れ、羊飼いも羊と一緒に眠る。そうしたことを繰り返す日々でした。最初のクリスマスの日も、いつもと変わらない一日となるはずでした。ところが、その日は、いつもと違いました。天使のアナウンスメント、つまり、神からのメッセージが、その日を変えたのです。

 羊飼いの「喜び」は彼ら自身から出たものではありません。外から来たものでした。いや、上から来たものです。多くの人は、人は天からのもの、神から来るもので満たされるということを知りません。幸福は、自分たちの回りから来ると信じています。ですから、この世で成功して地位を築き、財産を蓄え、多くの人との人間関係を保つことがすべてであり、そのために、あらゆる努力をし、惜しみなく時間を費やします。そして、神を見上げ、天からのギフトを待ち望むためには時間を割こうとしないのです。

 わたしたちはこの世に生きています。他の人との関わりの中で生活しています。食べもの、着るもの、住まうところ、教育や健康、人間関係がどうでも良いわけではありません。しかし、それらもまた神から、上から来ることを忘れてはなりません。イエスはこう言われました。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:31-33)また、ヤコブ1:17には「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る」と書かれています。

 多くの人々は、「『信仰』と言っても、それは結局のところ、自分で自分を励ますことであり、自分の力で自分を救うことなのだ」と考えています。「希望」や「平安」、また「喜び」も自分の気持の持ち方を変えて、自分で作り出すものだと言うのです。もし、そうであるなら、何も、イエス・キリストを信じる必要はありません。自分の信念を強めてくれるものであれば、どの宗教でも、どの教えでも、また、「いわしの頭」でもいいということになります。

 しかし、わたしたちは「人には自分を救う力がない」ということを知り、確信しています。自分で自分を救おうとするのは、自分で靴の紐をつかんで空中に浮き上がろうとするようなものです。救いは神から来ます。信仰は、自分にではなく、神に信頼することです。救いを告げる「喜びの知らせ」は天からやってきます。信仰とは、自分の悟りや信念にではなく、神の言葉に聞き従うことです。羊飼いたちは、神の御子のお生まれという「喜びの知らせ」を聞き、救い主を見出しました。わたしたちも、同じ「喜びの知らせ」を聞いています。この天からのメッセージに聞き、それを受け入れるとき、わたしたちの人生は天の力で変えられていくのです。

 三、見る喜び

 天使は羊飼いに、救い主の誕生を告げ知らせるだけでなく、「しるし」をも与えました。それは「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある」生まれたばかりの赤ん坊でした(ルカ2:12)。天使のメッセージを聞いた羊飼いは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」(ルカ2:15)と言って、早速、大急ぎで、ベツレヘムの町に向かっていきました。

 人口調査のため、ベツレヘムには大勢の人がいたでしょうが、天使の言葉通りの赤ちゃんを見つけ出すのは、さして時間のかかることではありませんでした。家畜と共に飼い葉おけに寝かせられている、その日生まれた赤ちゃんが何人もいるはずがないからです。赤ん坊となって生まれた救い主を見出したとき、羊飼いは、天使が現れたことや、天使が告げたことが夢や幻ではないことを、はっきりと確信し、喜びに満たされました。ルカ2:20に「羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」とある通りです。

 「しるし」というのは「見る」ものです。羊飼いは天使の言葉を聞くだけでなく、その言葉を証拠立てる「しるし」を見て、神の言葉を確信しました。信仰は「聞く」ことから始まります(ローマ10:17)。神の言葉に聞くこと、聞き続けることほど、大切なことはありません。しかし、信仰は「見る」ものでもあるのです。聖書で「見る」という言葉は、「理解する」という意味で使われています。神の言葉を耳にするだけで終わらず、その言葉の意味していることを理解し、確信することです。

 「飼い葉おけに寝かせられている赤ちゃん」が救い主の「しるし」であるというのは、いかにも、小さくみすぼらしく思われます。天使は栄光のうちに現れたのに、天使を従えるべき神の御子が、手の平に乗るほどの小さな小さな姿で、家畜小屋の飼い葉おけにおられるというのは、なんとも、神の御子にふさわしくない「しるし」です。御子は天使に勝る栄光に輝いておられても良かったのです。

 しかし、羊飼いは、この「しるし」に躓きませんでした。羊飼いは、この貧しい姿の救い主に、神の大きな救いの御業を見たのです。羊飼いは、このとき、キリストの十字架のことも、復活のことも知りませんでした。しかし、神が、この赤ん坊によって世界を救ってくださることを、見て、信じて、理解したのです。そもそも、「しるし」というものは、小さいものにすぎません。アリゾナに「グランドキャニオンまで2マイル」というサインがあったとして、そのサインは、たかだか長さ6フィート、高さ4フィートくらいのアルミ板でしょう。けれども、それを信じて車を走らせると、227マイルに渡る赤い岩の巨大な断層を見ることができます。「しるし」が示す内容は、いつでも、「しるし」よりも、はるかに大きなものなのです。信仰とは、小さな「しるし」(サイン)を見て、信じて、理解して、それが示す神の、じつに大きな救いの御業に与ることに他ならないのです。

 羊飼いは神からのメッセージを聞きました。聞いただけでなく、聞いたことを実行し、語られたことが確かなことを「見て」、理解し、確信しました。羊飼いは「喜びの知らせ」を無駄にしませんでした。それによって、救い主、キリストを見る喜び、救い主を礼拝する喜びに満たされたのです。わたしたちも、この喜びの知らせに耳を傾けましょう。それを人々に伝えましょう。人は、自分で自分を救うことはできません。外からのもの、上からのもの、神の言葉が必要なのです。そして、聞いた言葉に従って、救い主キリストを探し当てましょう。まだ、キリストを知らない人を、キリストをたずね求める場へ誘いましょう。人々とともに、キリストが力と栄光と愛とに満ちた救い主であることを見出す喜びに満たされたいと思います。

 (祈り)

 救い主をお送りくださった神さま。あなたは御子のお生まれを、この世の力ある者、知恵ある者ではなく、羊飼いのような貧しい人々に知らせてくださいました。羊飼いはキリストを見出す喜びと共に、自分たちが神に見出された喜びにも満たさたことと思います。わたしたちにも、同じ喜びを与えてください。救い主イエスのお名前で祈ります。

12/16/2018