主の御名によって来られる方

ルカ19:32-38

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19:32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。
19:33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。
19:34 弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。
19:35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
19:37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
19:38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

 ユダヤの人々は過越祭をエルサレムで祝いましたので、過越祭が近づくと大勢の人がエルサレムへと向かいました。イエスと弟子たちも、そうした人々と共にエルサレムに向かいました。きょうの箇所は、イエスがエルサレムに入った時のことを描いていますが、イエスはどんな仕方でエルサレムに入り、人々はイエスをどのように迎えたのでしょうか。そして、そのことは、現代の私たちにどんな意味があるのでしょうか。そのようなことをご一緒に学びましょう。

 一、ろばの子に乗って

 イエスは「ろばの子」に乗ってエルサレムに入りました。エルサレムは、イスラエルの王ダビデが建てた町で、そこは「王の都」と呼ばれました。主イエスは、ダビデの王座を継ぐ者として、いや、ダビデ以上の王、神の国の王としてご自分の都に入城したのです。ふつう、王は馬に乗るのですが、イエスは民衆の乗り物である「ろば」に乗りました。それは、ゼカリヤ9:9-11にある預言の成就でした。ゼカリヤ9:9にこう書かれています。

シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。

 ゼカリヤ書には、世界を救う、すべての人の王が来られ、この王は「ろばの子」に乗るほどに柔和な王であると預言されています。背の高い馬に乗ると、人々を上から見下ろすようになるのですが、ろばに乗れば、人々と肩を並べ、人々の歩く早さで進みむことができます。イエスは、このときだけでなく、いつも、文字通り、人々と肩を並べ、人々と共に歩み続けた「柔和」な王で、ゼカリヤが預言したとおりのお方でした。

 ゼカリヤ書はまた、この王は「平和の王」だとも言っています。ゼカリヤ9:10にこう書かれています。

わたしは戦車をエフライムから、
軍馬をエルサレムから絶やす。
戦いの弓も断たれる。
この方は諸国の民に平和を告げ、
その支配は海から海へ、
大川から地の果てに至る。

 馬は戦争に使います。イエスは馬ではなく、ろばの子に乗ることによって、ご自分が平和の王であることを示されました。

 この王が与える平和は、どんな平和でしょうか。それは、神と人との平和です。イエスは、神と人との仲立ちとなり、罪を犯して神に敵対していた人類に、まず、神との和解、平和をもたらしてくださいました。この神との平和によって本当の平和、平安を味わうことができます。イエスを知るまでは、一時的な「気休め」はあっても、どんな時も私たちを支える、平和、平安を持っていませんでした。イエスがくださる平和だけが本当の平和です。

 また、イエスは、この世界に恒久的な平和を与えてくださいます。人間の力だけで作り出した平和は、ほんの僅かな間だけしか続きません。人類は第一次、第二次のふたつの世界対戦を経て、国々が争い続けていたら自滅するしかないことを思い知らされました。そして、平和のための枠組みが作られましたが、戦争から75年過ぎて、そうしたものは、すべて崩れていきました。日本は、戦後、「戦争放棄」を憲法に定め、平和国家として生まれ変わりました。ところが、そのような憲法は時代にそぐわないから変えてしまおうという議論が盛んに行われ、かつての誤った道に進もうとしています。こうしたことは日本だけでなく、多くの国々でも同じです。世界は危うい時代を迎えています。しかし、私たちは、平和の王であるイエスがもう一度この世界に来られ、戦車も、軍馬も、弓も矢も、現代で言えば、軍艦も、戦闘機も、ミサイルもいらない世界をもたらしてくださるのを待ち望んでいます。

 では、イエスはどのようにして、この平和、平安を勝ち取ってくださったのでしょうか。続くゼカリヤ9:11は、こう言っています。

あなたについても、
あなたとの契約の血によって、
わたしはあなたの捕われ人を、
水のない穴から解き放つ。

 ゼカリヤ9:11の「契約の血」は、イエスが十字架の上で流された血のことです。イエスは、柔和なお方で、民衆の背の高さまで降りてこられ、人々と肩を並べて歩いてくださいましたが、そればかりでなく、ご自分をさらに低くし、人々のしもべとなり、人々の罪を背負って、十字架にかかられました。それは人を罪と死という、底なしの穴から救い出すためでした。ゼカリヤ書は「わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ」と預言していますが、これは、イエスが、私たちを霊的な暗黒から、たましいの渇きから、罪の束縛から救い出してくださることを言っています。

 国を外敵から守り、経済的に繁栄させた王は多くいたでしょう。しかし、人々に霊的な救いを与えることのできた王は、イエスの他ありません。ユダヤの人々は、ローマ帝国に苦しめられていて、ユダヤを独立させてくれる王を待ち望んでいました。イエスがその王ではないかと期待していました。確かにイエスは王です。しかし、イエスはローマ帝国からの解放ではなく、罪と死の帝国からの救いを与えてくださる王でした。しかも、それをご自分の命をかけて成し遂げてくださいました。十字架は、人の目には敗北に見えましたが、イエスはご自分の死によって死を滅ぼし、復活によってその勝利を明らかにしてくださったのです。イエスこそ、十字架に至るまでご自分を低くした「柔和な王」、その血によって、神との平和の契約を打ち立ててくださった「平和の君」です。聖書の預言の通りです。

 二、イエスを迎えた人々

 次に、人々が、イエスをどのように迎えたかを見ましょう。

 イエスがふたりの弟子に命じて、ろばの子を引いてこさせ、ろばの子に乗ると、人々は、イエスが進む道に自分たちの上着を敷き、また、手に手にしゅろの葉を持って「祝福あれ。主の御名によって来られる王に」(ルカ19:38)と賛美を歌いました。人々は、聖書が預言していた王としてイエスを迎え入れたのです。

 このことから二つのことを学ぶことができます。その一つは、王であるイエスを「従順な心」で迎えることです。イエスが乗ったろばの子はひもでつながれていました。ふたりの弟子たちがそれをほどいて連れて行こうとすると、持ち主が「なぜ、このろばの子をほどくのか」と弟子たちに言いました。弟子たちは、この時、イエスに教えられたように、「主がお入用なのです」と言うと、持ち主は、ろばの子をほどいて弟子たちに渡しました。何に使うのか、どうするのかという質問は何一つありませんでした。この人は「主がお入用なのです」という言葉ひとつで、イエスが求めるものを差し出しています。神の国の民は、その王に仕えるのに、従順でなければなりません。柔和な王が求めるのは、その民の従順さです。そして、進んで主のご用のために差し出すなら、それは何倍もの祝福になって返ってくるのです。ろばが人や荷物を乗せるようになるには、訓練が必要です。おそらく、このろばの子はまだ人を乗せたことがなかったことでしょう。イエスは、人を乗せることを、このろばの子に教えました。エルサレムに向かう道を歩くうちに、ろばの子は、すっかり訓練されました。訓練されたろばを返してもらった持ち主は、その従順に対する報いを受けたのです。

 二つ目は「賛美の心」です。ルカの福音書は、弟子たちが「喜んで大声に神を賛美し始めた」と言っています。フットボールでも、ベースボールでも、ひいきのチームが試合に勝つと、ファンは「大声で」その勝利をたたえます。そんな時に下を向いてぼそぼそと口ごもる人は誰もいません。私たちの主であり王である救い主イエス・キリストをたたえるのも同じです。いや、それ以上でなければならないでしょう。今は、「コロナ」のため大きな声が出せなくなっていますが、心では大いにイエスを賛美したいものです。

 三、イエスの訪れ

 最後に、イエスの「エルサレム入城」が、今日の私たちに何を教えているかを考えてみましょう。

 このとき、人々が歌った賛美は、詩篇118篇から取られたものです。詩篇118:25-26では、

ああ、主よ。どうぞ救ってください。
ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
主の御名によって来る人に、祝福があるように。
私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
とあります。「どうぞ救ってください」という言葉が「ホサナ」となり、人々は「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ」と歌ったわけです。

 詩篇118篇は過越祭の時に歌われる賛美ですが、教会では、聖餐のときに、「いと高きところに、ホサナ。主の御名によって来るお方に祝福あれ」と、同じ賛美を歌うようになりました。過越祭には子羊が屠られましたが、教会の聖餐では、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」となって、私たちのために屠られたことを覚えます。そして、そのイエスが、パンと杯の形で訪れ、ここにおられることを信じます。飲んだり食べたりしたものがからだの中に入るように、聖餐を受けるとき、イエスが私たちの内面に、また生活の中に入ってこられると信じます。聖餐では、私たち自身を王の都とし、そこに訪れてくださる王なるイエスを迎え入れるのです。

 聖餐がない御言葉の礼拝であっても、イエスは、御言葉と聖霊によって、恵みと祝福をもって、そこに訪れてくださいます。この礼拝に、また、私たちの日々の生活に訪れてくださいます。そして、やがての時には、世界を新しくするために、栄光と力をもって、この地を訪れてくださいます。ですから、教会は、エルサレム入城の時の賛美を、今も、イエスがもう一度世に来られるときまで、「いと高きところに、ホサナ。主の御名によって来るお方に祝福あれ」と歌い続けるのです。

 イエスはたんなる人生の教師ではありません。王であり、主であるお方です。人類の歴史を通して預言されてきた「来るべきお方」です。しかも、私たちと共に歩んでくださる「柔和な王」、また、私たちのために血を流し、それによって神との平和をくださる「平和の君」です。きょうの箇所は、私たちに、イエスをそのようなお方として迎え入れるよう教えています。

 イエスはこの後、エルサレムに近づいたとき、都を見て、そのために泣いて言われました。

「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19:41-44)

 イエスの恵みの訪れを受け入れなかったエルサレムは、それからちょうど40年後、紀元70年に、ローマの将軍でのちに皇帝になったティトゥスに滅ぼされてしまいました。イエスは、それを予告して、「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」と言われました。なんと悲しい言葉でしょう。そんな言葉を聞かなくてもよいように、今、このとき、イエスの恵みの訪れを、素直な心で、喜んで受け入れましょう。そして、イエスの救いのわざを、大いに喜び、賛美しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、イエスが柔和な王、平和の君としてエルサレムを訪れたように、今も、恵みとあわれみ、救いを携えて、私たちを訪れてくださることを感謝します。イエスこそ、主の御名によって来られたお方、もう一度来られるお方です。週ごとの礼拝で、また日毎の生活で、イエスを私たちの王、また主として迎え、喜びをもって、主を賛美して歩む私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/4/2020