ほんとうの感謝

ルカ18:9-14

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18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 今年もサンクスギヴィングデーがやってまいりました。サンクスギヴィングデーが終わるとアドベント、待降節が始まります。そして、新しい年、主の年2005年が始まります。子どもの頃は「もういくつ寝るとお正月」という歌のように、お正月が待ち遠しくてしかたがありませんでしたが、年齢を重ねるとともに、一年があっという間に過ぎてしまいまって、お正月が早く来て欲しくないような気持ちになりますね。「光陰矢の如し」とはうまく言ったものだと思います。しかし、一年がどんなに早く過ぎ去ったとしても、詩篇103に「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあるように、神がくださった恵みまでも、過去のものとして過ぎ去らせてしまってはいけないと思います。ある人は「今年は、悪いことばかりで最悪の年だ。神は、私に、何の良いこともしてくださらなかった。」と思うかもしれません。しかし、聖歌で「数えてみよ、主の恵み」と歌われているように、主がしてくださったことをひとつひとつ振り返ってみると、思う以上の多くの恵みを見つけることができることでしょう。また、ある人は「すべてが感謝でした。」と言うかもしれません。確かに神にあってはすべてが感謝なのですから、「すべてを感謝できる」というのは素晴らしいことです。しかし、それが、たんにキリスト教的な表現として「感謝でした。」と言うだけで、何がどんなふうに感謝なことだったのか、神が一体、私に何をしてくださり、私はそのことによって何を学んだのだかを、ひとつひとつ振り返って心に留めることがなければ、それは、ほんとうの感謝にならないのではないでしょうか。

 今、私は、「ほんとうの感謝」と言いましたが、「ほんとうの感謝」があるのなら、「にせの感謝」もあるのでしょうか。そうです。今朝の聖書の箇所に、「にせの感謝」が出てきます。ここは、イエスが語ったたとえ話のひとつで、ここには、二人の登場人物が出てきます。ひとりはパリサイ人、もうひとりは取税人です。パリサイ人と取税人は、まるで正反対の立場にある人でした。「パリサイ人」というのは、ユダヤの宗教の伝統を厳格に守っている人たちで、その多くは学者であったり、ユダヤの国会の議員であったり、また、民衆の指導者でした。ここに登場する「パリサイ人」も、さぞかし、立派な肩書きを持ち、地位も名誉もあった人だったでしょう。一方の「取税人」というのは、当時ローマ帝国の属国になっていたユダヤの国で、ローマの役人に雇われて、ローマのために、同じユダヤ人から重い税金を取り立てていた人々のことです。取税人たちは「敵国であるローマに魂を売った」として、他のユダヤ人から反感を買っていました。それに、取税人のほとんどは不正を働いて私腹を肥やしていましたから、まるで人間の屑のように、軽蔑されていました。取税人の多くは、金の力で、回りの人々を見返してやろうとしたのですが、しかし金によって心の平安を得ることはできませんから、その心には絶えず罪の責めと、不安と、孤独とがあったことでしょう。それは、ルカの福音書のこの次の章に出てくる取税人ザアカイのことでも分かりますね。ここに登場する「取税人」もザアカイと同じような心の状態だったと思います。このパリサイ人と取税人の二人が同時に神殿に行きました。そしてそれぞれに祈りをささげました。パリサイ人は何をどう祈り、取税人は何をどう祈ったのでしょうか。二人の祈りを比べ、そこから「ほんとうの感謝」とは何なのかをということを学んでみたいと思います。

 一、パリサイ人の祈り

 まず、パリサイ人は何を、どう祈ったでしょうか。彼の祈りの姿勢から見ましょう。11節に「パリサイ人は、立って」祈ったとあります。神殿の庭には、椅子などありませんから、みんな立って祈るのです。取税人も立って祈っています。13節に、取税人が、「目を天に向けようともせず」祈ったとありますが、パリサイ人のほうは、きっと、胸をそらし、天を仰いで祈ったのでしょうね。そして、両手をまっすぐに上げて祈ったことでしょう。聖書に「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(テモテ第一2:8)とあるように、立って、天を仰ぎ、手を伸ばして祈るのは、当時の祈りの姿勢で、決して不自然なものではありませんでした。しかし、パリサイ人のこの姿勢には、彼の高慢な思いが表れているように思えます。パリサイ人はこう祈っています。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」(11節)パリサイ人は、「神よ。…感謝します。」と祈っています。彼は「感謝」という言葉を使っていますが、これはほんとうの感謝でしょうか。彼は、自分よりも劣っていると思える人々とくらべ、自分がいかに立派であるかを、誇っているにすぎません。パリサイ人は「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではない」と言いましたが、ほんとうに、彼は、誰にも親切にし、完全に正しいことをしていたのでしょうか。詩篇24:4-5に「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」とあります。パリサイ人は、他の人とくらべて、あんなことはしていない、こんなこともしていないと言い、堂々とその手を神に向かってさし伸ばしていますが、はたしてその手はほんとうに清く、その心もきよいものだったのでしょうか。神は、私たちのしたこと、しなかったことの外面だけでなく、どんな動機でそのことをしたのか、どんな理由でそのことをしなかったのかを問われます。私たちの心の内をごらんになります。そういう意味で、地上には、どんな罪も犯さない人は、ひとりもありません。パリサイ人は神の前での自分の姿、自分の心を深く見ることをしないで、表面を人と比べて、自分の正しさを誇ったのです。

 パリサイ人の祈りは、高慢な祈りでした。また、それは、神に向かっての祈りではなく、人に向かう祈り、人を非難する祈りでした。パリサイ人は「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」と祈りましたね。パリサイ人はチラチラと、取税人を見ながら、取税人を非難していました。パリサイ人は神に祈っているというよりは、祈りを使って取税人を非難していたのです。これは、クリスチャンが時として陥りやすい罪です。たとえば、夫婦喧嘩の時に、ご主人が奥さんのために祈るのだと言って「このどうしょうもない女の罪を赦してあげてください。」などと祈り、奥さんもご主人のために「この頑固で罪深い亭主が悔い改めますように。」などと祈るとしたら、それは、祈りの中で相手をけなしているだけであって、お互いのために祈っていることにはなりません。実際そういう事をしてだめになった夫婦があったということも聞きました。夫婦の間だけでなく、私たちはお互いに、「神さま。私の罪を示してください。私のいたらなさを示してください。」と祈るべきですね。神への祈りのことばが他の人への非難のことばになるのは、恐ろしいことです。

 パリサイ人の祈りは、また、偽善の祈りでした。11節に「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。」(11節)とあります。ここに書かれているパリサイ人の祈りは、口に出して祈った祈りではなく、パリサイ人の心の中での祈りだったのです。当時、祈る時には声を出して祈りましたから、ここには、彼が口にしていたことばとは別の、彼の本心で示されていると言うことができます。ユダヤでは、神を礼拝する時には、まず悔い改めの祈りをささげましたから、おそらく、パリサイ人も「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」(詩篇51:1-2)などという祈りを、口ではささげていたことでしょう。しかし、彼は口では謙虚に祈りながら、心の中では「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(12節)と、自分の「立派で、敬虔な」生活を誇っていたのです。パリサイ人が、心で、自分を誇っているのなら、人前でもそのように振る舞い、口に出してそう言えばいいのですが、心では自分を誇りながら、口では謙遜な祈りをささげ、心に醜いものを持ちながら、口ではきれいなことを言っていたのです。この心とことばとのちぐはぐさを、聖書は「偽善」と呼んでおり、神はこの偽善をもっとも嫌いました。イザヤ29:13に「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。」とあり、人々の偽善と不信仰が鋭く指摘されています。不信仰が、心とことばの不一致であるなら、信仰とは、心とことばが一致することであると言うことができます。ローマ10:10に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とあります。口先で「神さま。イエスさま。」と祈っていても、その心に神への悔い改めや主イエスに対する信仰がなければ、そこには救いはありません。心がことばと一致する時、また、ことばに心がこもるとき、そこに信仰が生まれ、救いが起こるのです。

 「口で告白して救われる」とありますが、この「告白する」という言葉には「同じことを言う」という意味があります。何と同じことを言うのかと言いますと、まず、神のことばと同じことを言うのです。神のことばが「すべての人は罪を犯した。」と言う時、私たちも「私も罪を犯しました。」と言い、神のことばが「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」と言う時、私たちも「主イエスは私の罪のために十字架に死に、私を神の前に正しい者とするために、復活しました。」と言うのです。神のことばと同じことを言う、これが「告白」です。告白は、また、心にあるものと同じことを話すことです。心にあるものを覆い隠さず、神の前に正直に語ることです。心に不安があれば「私には不安があります。」と、神に祈れば良いのです。思い煩いがあれば「私には思い煩いがあります。」と祈り、怒りやねたみを抱くことがあったなら、それも正直に神の前に言い表わせばいいのです。このパリサイ人のように、神の前に自分の信仰深さを誇るようなことをしなかったとしても、自分のほんとうの姿を隠して「おりこうさん」のクリスチャンとして神の前に出なければならないと考えているとしたら、私たちも、このパリサイ人のように、口では「感謝します。」と言っていても、ほんとうには、神に何も感謝していないということになってしまいます。真実な神に、ことばとこころの一致した真実な信仰を祈り求めましょう。

 二、取税人の祈り

 次に、取税人の祈りを見ましょう。取税人の祈りの姿勢は、パリサイ人とは違っています。パリサイ人は胸をそらせて天を仰いでいましたが、取税人はうつむいて祈りました。パリサイ人は手を天に向かって指し伸ばしましたが、取税人はその手を胸にあて、自分の胸をかきむしるようにして祈りました。パリサイ人は目を天に向け祈りましたが、その目は神を見つめてはいませんでした。しかし、取税人の目は天に向けられてはいませんでしたが、神を見つめていました。神を見つめていたからこそ、取税人は、自分の罪を知り、自分の惨めさを見ることができたのです。そればかりでなく、悔い改める者に向けられる神のあわれみをも、その信仰の目で見ることができたのです。

 次に、取税人は、自分を「罪人」と呼びました。パリサイ人は心の中では、「私はゆする者ではございません。不正な者でもございません。また姦淫する者でもございません。私は週二回の断食を守り、収入の十分の一を神にささげております。私は、真面目で、正しく、道徳的、宗教的で神への義務を立派に果している人間でございます。」と、自分の正しさ、立派さを、神の前に長々と並べたてました。しかし、取税人は、たった一言、「こんな罪人の私をあわれんでください。」としか祈っていません。取税人にも神に対して言い分があり、言い訳けもあったでしょう。この人は好き好んで取税人になったのでなく、家族を養うためにやむをえずしていたのかもしれません。同じ取税人仲間でも、彼はまだ良心的だったかもしれません。自分の財産で貧しい人たちに施しをしたかもしれません。しかし、取税人は、パリサイ人のように長々と自分のことを申し開きをしていません。自分を「罪人」と呼んで悔い改めの祈りをささげています。

 聖書は人間の罪を教えていますから、教会では、すべてのことを、私たちが罪人であるというところから出発します。ところが、時代と共に人々が聖書の教えから離れていくと、教会でも人間の罪について教えなくなり、「すべての人が罪人であると教えるのは、人間をいやしめることだ。」と考えるようになってきました。「もっと人間の素晴らしさ、尊さを教えるべきだ。」と言われるようになり、「罪」が教えられなくなり、したがって、罪からの救いも語られなくなってきたのです。しかし、聖書が人間を罪人だと言うのは、人間をいやしめて言っているのではなく、人間が神のかたちに造られた素晴らしい存在であり、ひとりひとりは、この地球全体よりも価値あるものだからです。もし、人間が、単細胞の生物だったら、ほんの数日の命しか与えられていない昆虫のようなものであったら、本能のままに生きる動物だったら、人間に罪は入ってこなかったでしょう。人間が、神のみこころを理解し、神に従うことも逆らうこともできるほどの存在であるからこそ、罪人となったのです。人間に罪があるということを教えるのは、決して、人間を低く見ることではなく、人間の素晴らしさ、尊さ、その価値を認めればこそなのです。

 聖書が教えるように、人間が罪人であることを、心の底から認め、悔い改めを体験していないと、クリスチャンもまた、教会の中で、パリサイ人のように、自分と人とを比べたり、人と人とを表面のことで比べたりするようになります。「週二度の断食」も、「十分の一のささげもの」も大切なことです。それらを謙虚に守るなら祝福が約束されています。しかし、それが、他の人を量る道具になっているとしたら、大きな間違いです。「週二回以上教会に来ていないから、あの人の信仰は駄目なのだ。」「十分な献金ができない人は教会ではものを言う資格がない。」などと、口に出しては言わなくても、心でそう思って人をさばいているなら、その人は、まだ自分の罪も、神のあわれみもわかってはいないと思います。人間の価値をそのように表面で判断するところから、差別が生じ、教会の中でも、社会的な地位や、肩書が横行するようになってしまうのです。教会でこつこつと聖書を学んできた人たち、わずかな収入の中からでも忠実にささげて教会を支えてきた人々、また、たとえ上手にできなくても、精一杯の奉仕をしてきた人々が軽んじられるようになるのです。そのようなことは、教会ではあってはならないことで、そのようなことが起こるとしたら、教会でほんとうの罪の悔い改めが教えられ、実践されていないからです。

 新約聖書では、使徒パウロがおそらく、もっとも優れた人物でしょう。彼は、生粋のユダヤ人であるという由緒正しい家柄に生まれ、エルサレムでガマリエルという大先生のもとで学んだ、立派な学歴を持ち、当時の世界のいたるところに、有力な教会を建てあげた人物です。パウロは新約聖書の大半を書きあらわしました。パウロのことばによって、聖オーガスチンは回心し、ルターは宗教改革を起こし、数知れない人々が救いの体験をしています。二千年の間、優れた学者たちが、パウロの書いた新約聖書を研究してきましたが、まだ研究しつくせないほど、それは深い内容を持っています。パウロほど大きな働きをした人は他にはないでしょう。彼には、「使徒パウロ」、「聖パウロ」という他に、考えられる限りのタイトルを与えてもよいほどです。しかし、パウロは一切の人間的なものを拒否して言いました。「私は罪人のかしらである。」(テモテ第一1:15)パウロでさえ、そうであるのなら、まして私たちは、「罪人」としてしか神の前に出ることはできないのではないでしょうか。私たちがクリスチャンと呼ばれるようになったのは、「私は罪人です。」と告白して、私の罪のために主イエスが十字架で死なれたことを信じたからではなかったのでしょうか。もし、私たちが罪人でないのなら、主の十字架はいらなくなってしまします。来週は、聖餐がありますが、聖餐に示された主イエスの命のささげものに対して、私たちの週二回の断食や十分の一のささげものが何の功績になるのでしょうか。本来なら、神にすべての時間をささげ、すべての財産をささげても、なお足りないのです。私たちは聖餐のたびごとに、イエスの十字架でしか救われることのない罪人として神の前に出るのです。そして、みんながそのようにして神の前に出る時、罪ゆるされた罪人として、互いをゆるし合うことができるのです。教会が表面の仲良しグループではなく、ほんもののゆるしの共同体になっていくのです。

 取税人のように「こんな罪人の私」と言って、神の前に出ようではありせんか。その時、神の恵みが私たちに届きます。イエスは言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ここで、「義と認められた。」とあるのには、神が彼の過去の罪をゆるしただけでなく、神が彼を、その悔い改めにもとづいて、これから歩むべき正しい生活へと導いてくださったという意味がこめられています。「義と認める」というのは、単に、過去の罪を帳消しにするとか、大目に見るとかいうことではありません。その人に新しい心を与え、新しい人生を与えることです。取税人マタイや取税人ザアカイがその良い例です。マタイは収税所での役職を捨ててキリストの使徒となり、新約聖書の最初の福音書を書きました。ザアカイはいままでの不正をすべて償いました。この取税人も、自分の罪を認めて悔い改めた時、人を新しくする神からの恵みと力を受けたのです。自分の正しさを主張し続けたパリサイ人は、神殿に来て長々と祈っても、彼の心も、生活も何も変わらないまま家に帰りました。しかし、取税人は、彼の心と生活を変える大きな神の力をいただいたのです。取税人の心には、「こんな罪人の私」をゆるし、作り変えてくださった神に対するほんものの感謝が満ちあふれていたに違いありません。

 詩篇103は「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言ったあと、「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」と約束しています。罪のゆるしは、神のすべての恵みの出発点です。神の前に自分を低くして歩み、絶えず罪のゆるしを体験し、そこから来る神の恵みを感謝する、そのようなサンクスギヴィングの週でありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま。私たちは、あなたから、罪のゆるしやみことばの糧、健康や日々の必要など、目に見えるものも、見えないものも、なんと多くのものを与えられていることでしょうか。これらは、みなあなたからの恵みであり、賜物でありますのに、私たちは、あたかもそれらを自分の力で勝ち取ったかのように考えてしまい、それを「有り難い」こととして感謝することを忘れてしまっています。そして、「感謝」と称しながら、自分を誇ることをしている罪深い者たちです。私たちを、あなたの前に謙虚な者とし、罪のゆるしを求め、その中に生きるものとしてください。そして、そこから来るほんとうの感謝をあなたにささげるものとしてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/21/2004