地獄からの嘆願

ルカ16:27-31

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16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 昨年、「先生、地獄について話してください」というリクエストをいただきました。聖書は、天国のことを教え、天国に行く道を示す書物ですから、地獄のことについては多くを語っていません。ですから、そのリクエストに答えるのはとても難しいのですが、まずは、基本的なことを学んでおきたいと思います。

 一、仏教の「地獄」

 まず、「地獄」という言葉ですが、これは、もともとは仏教の言葉です。それで、まず、地獄についての仏教の教えから話しを始めましょう。仏教で地獄のことをいちばん詳しく語っているのは『往生要集』という985年頃の書物です。それによると、人は死んだあと、6つの世界のどこかへ行きます。これを「六道」と言い、良い方から言うと、「天上」、「人間」、「修羅」、「畜生」、「餓鬼」、「地獄」があります。「修羅」から「地獄」まではすべて苦しみの場所で、中でも「地獄」はいちばん大きな苦しみを受けるところです。

 人は死ぬと、7日後に不動明王の裁きを受け、それから7日おきに、釈迦、文殊菩薩、普賢菩薩、そして閻魔大王の審判を受けます。皆さんも「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」ということを聞いたと思います。それからさらに弥勒菩薩の裁きがあり、死後49日目には、薬師如来が、最終的に人を「六道」のいずれかに振り分けます。日本では、人が亡くなってから7日目に「初七日」、また49日目に「四十九日」の法要を営みますが、それは、亡くなった人の行き先が決まるまでの間、地上にいる者が供養をすると、死者が地獄を免れると信じられているからです。

 しかし、仏教には五つの戒めがあり、このうちのどれか一つでも破れば、地獄に落ちます。第一の戒め「不殺生」(生き物を殺さない)の中には虫を殺すことや、肉を食べることも含まれますから、世界中のほとんどの人が地獄に落ちることになります。第二の戒めは「不妄言」(嘘をつかない)、第三は「不倫盗」(盗みをしない)、第四は「不邪婬」(享楽に溺れない)、第五は「不飲酒」(酒を飲まない)です。

 地獄はさらに8つに別れており、叫喚地獄や阿鼻地獄などがあり、そこでは「五戒」を犯した者が刑罰に苦しみ泣き叫ぶのです。「阿鼻叫喚」という四文字熟語はここから生まれました。

 私は子どものころ神社の境内で、説法師が地獄絵巻を人々に見せながら地獄の話をするのを聞いてとても怖くなったのを覚えています。仏教が教えるものは、人間の想像から生まれたものに過ぎないので、「死後の世界など無い」という人もありますが、そうした人であっても、心の奥底では「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)ことを知っています。神は世界中の誰にも、死後の裁きを示してこられたのです。

 二、聖書の「ゲヘナ」

 聖書では、死者の世界はヘブライ語で「シェオール」、ギリシャ語で「ハデス」と呼ばれ、「陰府」(よみ)と訳されています。そして、この陰府には二つの場所があります。「ラザロと金持ち」のたとえでは、ラザロが行った場所と金持ちが行った場所とは、同じ死後の世界でも全く違っていました。ふたりの行った先は、ふたりの生前の生活とは真逆でした。

 ラザロは「全身おできの貧乏人」(20節)でした。貧しくても健康なら、働いて糧を得ることができるのですが、病気の彼は、からだを動かすこともままならず、金持ちの家の前に寝かされていました。「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」のですが、そのこともかないませんでした。金持ちも、金持ちの客もあり余るほど食べていたのに、ラザロに分け与えてやる人は誰もいませんでした。彼のところに来たのは犬だけでした。犬は文字通り「食卓から落ちる物」を食べることができましたが、ラザロは何一つ得ることができませんでした。ラザロは犬以下の扱いを受けていたのです。しかし、それだけに、彼は神を信じ、神に頼り、神に望みをかけました。

 ラザロは死んでからも、おそらく誰にも葬ってもらえなかったでしょう。しかし、天使がラザロたましいを「アブラハムの懐」に連れていってくれました(22節)。「アブラハムの懐」というのは、聖書が別のところで「パラダイス」と呼んでいるところと同じです。そこは、死者の世界とは言っても、同時に天の一部であり、もはや死の陰の暗さはなく、光と命と平安と慰めに満ちた場所、天使たちがいる世界でもあるのです。ラザロはその信仰ゆえに、このような幸いな場所に導かれたのです。

 やがて金持ちも死にました。貧しい人も大金持ちも同じように死にます。死は誰にも平等にやってきます。金持ちの葬式は盛大なものだったでしょう。しかし、どんなに盛大な葬式も、彼の死後の運命を変えることはできませんでした。金持ちは生前、「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました(19節)。この「遊び暮らす」と訳されているところには「食べて楽しむ」という言葉が使われています。ルカ12章の「愚かな金持ち」が「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言ったのと同じです。この金持ちも、あの「愚かな金持ち」と同じように自分の財産により頼み、神を忘れていたのです。

 彼のたましいが行ったのは、死者の世界の中でも、「パラダイス」とは隔離された別の場所でした。そこは聖書で「ゲヘナ」と呼ばれている場所で、以前は「地獄」と訳されていました。イエスはそこでは火が消えることがないと言われました(マタイ5:22、18:9、マルコ9:43、9:48)。黙示録はゲヘナを「火の池」と呼んでいます(黙示録19:20、20:14-15)。金持ちは「私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」(24節)と言っていますから、彼が「ゲヘナ」にいたことが分かります。

 ラザロと金持ちのたとえは、確かにたとえなのですが、かといって、死者の世界や「パラダイス」、また「ゲヘナ」までがたんなるお話であるというのではありません。イエスが話されたたとえはどれも現実に基づいたものです。もしこれがたんなる物語なら、「貧乏人と金持ち」とだけ言えばよいのでしょうが、イエスは、この貧しい人を「ラザロ」という名で呼んでおられます。聖書学者の多くは、ラザロが実在の人物であったと認めています。カトリック教会ではラザロは「聖ラザロ」と呼ばれ、貧しい人々の「守護聖人」になっているほどです。

 イエスは、死者の世界や「ハデス」も「ゲヘナ」も、それを現実のものとして教えておられます。今は救いの時代ですが、この恵みの時代が終わって、イエスが世界を裁かれるときが来ます。そのとき、イエスは、正しい者には「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」(マタイ25:34)と言われます。けれども正しくない人たちには、「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」(マタイ25:41)と宣告されます。これは、とても厳かな言葉です。天国やパラダイスが実在するものであるように、「ハデス」や「ゲヘナ」もまた実在するものです。私たちがこのことを本気で信じるなら、本気で救われたい、天に迎え入れられたいと願うようになるでしょう。

 三、天への道

 さて、金持ちは「ゲヘナ」からパラダイスを仰ぎ見て、アブラハムに「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください」(24節)と願いました。しかし、この願いがかなえられないことを知ると、今度は、「ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(27-28節)と願いました。自分が苦しむのはしかたがないとしても、せめても、自分の肉親が同じ苦しみに遭うことがないようにと願ったのです。アブラハムはこれに対して「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです」と答えました。それでも彼は、「もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」(30節)と食い下がりました。これは、神だけでなく、死者のたましいもまた、私たちに悔い改めて神を信じ、天への道を歩むよう願っていることを教えています。

 このアブラハムの金持ちへの言葉はそのまま、イエスの教えをあざけり、イエスを信じようとしなかった人々への言葉でした。彼らは「奇蹟を見たら信じてやろう」と、イエスに奇蹟を求めました。しかし、イエスが奇蹟をなさっても、信じませんでした。死人が生き返るというのは、奇蹟の中の奇蹟です。イエスは、何人かの亡くなった人を生き返らせ、最後には、ベタニヤの、マルタとマリヤの兄弟を生き返らせました。死んで四日も経っているのに、その人を墓から呼び戻し、生き返らせたのです。しかも彼の名前も「ラザロ」でした(ヨハネ11章)。では、ベタニアのラザロが生き返ったのを見たユダヤの人々は、悔い改めて、イエスを信じたでしょうか。いいえ、それどころか、ますますイエスを亡き者にしよう企んだのです(ヨハネ11:53)。彼らは、イエスの言葉に聞かなかったばかりか、「もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」という「ゲヘナ」からの叫びの声にも聞かなかったのです。

 そして、彼らは実際にイエスを十字架につけて殺してしまいました。しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。そして、よみがえられたイエスは弟子たちを通して、救いの福音を全世界に証ししてくださいました。ルカ24:46-47で、イエスが「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われた通りです。誰かがよみがえって悔い改めが起こる。これは、金持ちが「もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」と言ったのと同じです。金持ちの「ゲヘナ」からの嘆願は、ある意味では聞き届けられ、よみがえられたイエスによって実現したのです。

 イエスは「ハデス」に打ち勝ち、天に私たちの場所を用意し、天への道となってくださいました。このことを理解できなかったトマスは「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」と言いました。それに対してイエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と答えられました(ヨハネ14:5-6)。これは、逆に言えば、「イエスという道を通って行けば、だれもが神のもとに、天に行くことができる」ということです。イエスが天への道です。私たちが「ゲヘナ」への道から回れ右をして歩むことのできるただ一つの道です。

 死後の世界について、それを否定する人もあれば、好き勝手なことを言う人もあります。しかし、それらはみな人の心に思い浮かぶ想像から出たものにすぎません。ただ一人、死者の世界から帰って来られたイエス以外に、誰も死後のことを正しく語ることができる人はありません。天から来られ、天に帰られたイエスの他、誰も天を教え、そこに導くことができる者はいないのです。死んでよみがえられた方、イエス・キリストの言葉以上に正確な言葉はありません。このイエスの言葉に聞き、イエスを信じること、それが私たちに「ハデス」に打ち勝たせ、「ゲヘナ」への道から引き返えさせ、天への道を歩ませてくれるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、よみがえられたイエスによって、死後の世界をあきらかにし、永遠のいのちへの道を開いてくださいました。そして、救いの福音は今、全世界で宣べ伝えられています。ひとりでも多くの方が、この福音を聞いて、信じ、天への道を歩みはじめることができますよう、助け、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/27/2022