捜し求める神

ルカ15:1-10

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15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 皆さんは、忘れ物やなくし物をよくしますか。私などしょっちゅうです。出かけようとしてから、「あっ、あれを忘れた、これを忘れた」と何度も家に戻ることがあります。車を動かしてから、忘れ物に気がついてとって返すこともあります。年齢を重ねると、忘れ物が多くなるのですが、もっとひどくなると、何を忘れたかを忘れてしまい、さらにひどくなると、忘れ物をしていることも忘れてしまいます。忘れ物に気付いているうちはまだ大丈夫と、自分を慰めています。

 忘れ物の場合は、もとに戻れば、たいていの場合、見つけることができますが、なくし物の場合は、あるはずのところに見つけられず、やっかいです。大切なもの、苦労して手に入れたものをなくした時は、とても残念な気持ちになります。お金を出せばいくらでも買うことができるものでも、なくして見つからないときは、がっかりした気持ちになるものです。いくら捜しても見つからないので、替わりのものを買ってきたとたんに、なくした物が出てきたりすると、ちょっと悔しい気持ちになりますね。しかし、あきらめかけていたものが出てきた時には、とてもうれしくなります。

 今朝の聖書、ルカの福音書15章には、なくしたものが見つかった時の喜びが、たとえ話の形で書かれています。しかも、ひとつだけでなく、三つも書かれています。第一は、迷子になってしまった羊を見つけた羊飼いの話、第二は、なくした銀貨を見つけた女の人の話、第三は、行方不明になった息子をとりもどした父親の話です。第三のたとえ話については、来週と再来週、お話しすることにしてありますので、今朝は、第一と第二のたとえ話から学びましょう。これらのたとえ話には多くのメッセージが含まれていますが、今朝は、ふたつのことを心に留めたいと思います。

 一、失われている私たち

 その第一は、私たちは、イエス・キリストによって神に返るまでは、神の目から見て失われているということです。これらのたとえ話に出てくる羊や銀貨は、神から離れて失われている人々のことを表わしています。聖書は、神を羊飼い、人間を羊にたとえています。詩篇23篇には「主は私の羊飼い。私には乏しいことがありません。」とあり、詩篇100篇には「知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」とあります。羊は家畜の中でも、あまり賢くない動物で、遠くのものがよく見えず、においもよくかげないそうです。足も速くありませんし、自分を守る牙や爪も持っていません。羊は、羊飼いなしには、いつも命の危険にされされ、牧草を見つけることもできず、水を飲むこともできないのです。私たちも、神への信頼を忘れ、すぐわき道にそれ、迷いやすいものです。「人間は羊のように弱く、羊のように迷いやすく、羊のようにわがままだ」と誰かが言いましたが、聖書もそのような人間の姿を描いて、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)と言っています。

 二番目のたとえ話の「銀貨」もまた、人間を表わしています。私たちが銀貨にたとえられているのは、銀貨に値打ちがあるように、私たちにも価値があるからです。ここで「銀貨」と訳されている言葉、「ドラクマ」は、ギリシャの通貨ですが、ローマの通貨である「デナリ」とほぼ同じで、それは一日の賃金に相当しました。しかし、「ドラクマ」を溶かして銀にしてしまったら、それは、ごくわずかな価値しか持たず、とても一日分の賃金にはなりません。以前も話しましたが、昔、ある人が人間の値段というのを計算したそうです。私たちの体の70パーセント以上は水でできていますが、水は一応ただということにします。次は脂肪ですが、これは石鹸を一個作れるぐらい、あとは釘数本分の鉄分、マッチ数本分のリンがある程度です。人間のからだを元素に還元したらせいぜい十ドルぐらいにしかならないでしょう。しかし、私たち人間は、そんなに安っぽいものではありませんね。銀貨は、その銀がほんの僅かであっても、また純粋でなくても、そこに、政府の刻印が刻まれると、材料以上の価値を持つようになります。アメリカの紙幣も、特別な紙を使っているとはいえ、もとは小さな紙切れで、それ自体の価値はわずかなものです。しかし、そこに、大統領の肖像とアメリカ政府のシールが印刷されると、それは一ドル、五ドル、十ドル、二十ドル、五十ドル、あるいは百ドルもの価値を持つようになるのです。神が人間を神のかたちに造り、人間にたましいを与え、人間を考えることが出来るもの、感じることができるもの、進歩や向上を目指して努力することが出来るもの、神を信じ、互いに信じあい、神を愛し、互いに愛し合い、神に仕え、互いに仕えあうことのできるものにしてくださったことによって、人間は、他の動物とは違って、かけがえのない価値を持つものとなったのです。銀貨の価値が、銀貨の材料である銀そのものよりも、銀貨にきざまれた政府の刻印にあるように、私たち人間の価値も、私たちが「神のかたち」に造られたことにあるのです。ローマのデナリにローマ皇帝の姿が刻まれ、それが価値を持つようになるように、人間のうちにも神のかたちが刻まれ、それによって、人間は価値あるものとなるのです。

 しかし、銀貨にどんなに価値があっても、それが、じゅうたんの下や、家具の裏、あるいは、床と壁の隙間に入り込んでしまっていたのでは、その価値を発揮することはできません。銀貨はそれを使う人の手の中になければならないのです。同じように、私たちも、私たちに価値を与えてくださった神の手から離れているなら、失われた銀貨のように、せっかくの価値が失われてしまうのです。

 この女の人は「銀貨を十枚持っていた」とありますが、これは、銀貨十枚を鎖でつなぎあわせた髪飾りのことだろうと思われます。当時、女性たちはヴェールをかぶっていましたが、その上から、銀貨をつなぎ合わせて輪にしたものをかぶって、ヴェールを固定したのです。ですから、十枚のうち一枚でもなくなると、銀貨一枚の価値を失うだけでなく、十枚分の価値を失ってしまうのです。同じことは、私たちの人生にも起こります。中国やモンゴルの砂漠に木を植えて、その地域が砂漠化していくのを食い止めるという、大切な仕事をしている日本のボランティア団体があります。この団体を始めた人は、NHKの「プロジェクトX」にも紹介され、教科書にも載っている人で、今は90歳を越え、団体の運営を大学の助教授である息子にまかせているのですが、この息子が不正を行ったのです。実際は植えてもいない苗木を植えたことにして、政府の補助金を受け取っていたことが発覚しました。そのために、この団体の創設者がしてきた素晴らしい業績にたいする栄誉が失われ、この団体ばかりでなく、他のNGOも信用を失ってしまったのです。社会的にどんなに成功した人でも、人格的なものが損なわれてしまったら、それは、他のすべてのものの価値を損なってしまうのです。

 神の目から見て失われている人は、その人の人生の意味や目的、そして、自分自身の価値を見失っています。あなたは大丈夫でしょうか。あなたのせっかくの価値が失われていないでしょうか。自分の歩むべき道を見失っていないでしょうか。

 二、失われた私たちを捜し求めている神

 さて、これらのたとえ話が教えている第二のことは、神が失われた私たちを捜し求めておられる、しかも熱心に捜し求めておられるということです。羊飼いは、羊がいなくなったのに気付くとすぐ、羊を捜しに行きました。羊飼いは「いなくなったのはたった一匹、あと九十九匹もいるんだから、まあいいや」とは考えませんでした。いなくなった、たった一匹のために、今まで通ってきた道を引き返して、あちらこちらと捜し歩いています。また、女の人も「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜し」ています。この羊飼いや女の人の姿は、失われた私たちを捜し求めていてくださる、神の姿をあらわしています。

 創世記3章に、アダムとエバが罪を犯した時、それまで、人と神とは、心と心とが通いあっていたのに、人は神を避けて身を隠したとあります。罪のもたらした悲しい結末です。罪は、神と人との間の信頼を損ない、まじわりを絶やすのです。罪を犯したアダムとエバは、その時、神に見捨てられても当然だったのですが、神は、神に背いて身を隠した人間をも、見捨てませんでした。創世記3:9はこう言っています。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」人類の歴史のはじめから、神は、神から離れて失われた人々を捜し求め、呼び求めていてくださったのです。

 そして、神は、失われた私たちを取り戻すために、救い主キリストを遣わしてくださいました。イエスは「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と言っています。これは、エリコの町一番のきらわれ者、取税人のザアカイについて言ったことばです。エリコの町には、信仰深い人も、善良な人も多くいたでしょう。しかし、イエスはそうした人々のところにではなく、まっすぐ、ザアカイのところに向かいました。木に登ってイエスがどんな人かと見下ろしていたザアカイを、とがめることもせずに、彼の家に入ってその客になったのです。ザアカイにも、イエスを求める心がありました。しかし、ザアカイが「主よ。」と、イエスの名を呼ぶ前に、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と、イエスのほうから先にザアカイの名を呼んでくださったのです。

 ほんとうは、人間の側から、神を呼び求め、神を捜し求めるべきなのですが、実際は神のほうから、人間を呼び求め、捜し求めてくださっているのです。今朝の礼拝にも、多くの方々が神を求めて集っていますが、私たちがこのように、神を求めることができるのは、実は、神が最初に私たちを捜し求めてくださったからなのです。あなたの心に、どんな形であれ、神を求める思いが与えられたのは、神があなたを捜し求め、呼び求めておられることのひとつの証拠です。ですから、私たちも、私たちを呼び求め、捜し求めてくださる神にむかって、神の御名を呼び求めましょう。そして、私たちの人生に失われているもの、人生の意味や目的、自分自身の価値、そして、そこから生まれる愛や平安や喜びなどを、取り戻しましょう。「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第一2:25)とあるように、神の牧場に連れ戻され、神の羊となりましょう。また、「あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命記7:6)とあるように、神の手に取り戻されて、神の宝の民となりましょう。

 (祈り)

 神さま、私たちが、あなたを捜し求め、呼び求める以前から、あなたが、私たちを呼び求め、捜し求めてくださっていたことを感謝いたします。だからこそ、私たちはあなたに立ち返ることができます。あなたを求めている多くの方々が、あなたの愛の呼びかけに答えることができますよう、導いてください。私たちを捜し求め、呼び集めるために、来てくださった救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

9/14/2003