神の養い

ルカ12:22-28

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12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。
12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

 一、イエスのたとえ

 イエスは、人々を教えるとき、よく「たとえ」を使いました。「たとえ」によって、ものごとをわかりやすく説明できるからです。私たちも「たとえば…」といって、実例をあげて物事を説明されると、難しいことでも「なるほど」と納得できるようになります。それこそ「たとえば…」ですが、日本の法律には「器物損壊罪」についてこう定義されています。「前3条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料に処する。」(刑法261条)けれども、これだけではよくわかりません。「ボールで遊んでいて過って人の家の窓ガラスを割ってしまったら」「オフィスで口論になり、椅子をけとばしたら」どうなるでしょうか。過って窓ガラスを割った場合は、この罪には問われませんが、弁償する責任はあります。またけとばした椅子が頑丈で、どこにも傷がついていなければ、「器物損壊」にはなりません。しかし、椅子が壊れ、持ち主が訴えた場合は、犯罪が成立する可能性があります。難しい法律も、実例をあげて説明してもらうと、少しはわかりやすくなります。

 同じようにイエスも、人への神の愛や世界に対する神の計画を、日常の事柄を使ってわかりやすく教えました。イエスは、農夫や漁師、羊飼いや主婦たちの日常の生活を使って、神のみこころを目に見えるように描きました。イエスの「たとえ話」には金持ちや貧しい人、賢い人や愚かな人、主人やしもべ、善良な人や悪賢い人など、あらゆる人物が登場します。「たとえ話」とはいっても、どれも人々が実際にあったこと、よく見聞きすることばかりで、とても現実的です。

 きょうの箇所で、イエスは、「いのちを支え、からだを守ってくださるのは神である。神が私たちを養ってくださるのだから、食べ物や着物のこと、つまり、日々の必要のことで心配するな」と教えています。しかし、いくら「心配するな」と言われても、心配や思い煩いの絶えないのが、私たちです。特に今は、「新型コロナウィルス」のことで、心配なことが何倍にもなりました。そんな私たちに、イエスは、神が、私たちのことを、どんなに心にかけてくださっているかを、身近な「空の鳥」「野の花」を「たとえ」に使って示したのです。このたとえは、誰もが見慣れている風景を使って、神の守り、支え、養いを描いています。

 二、神の養い

 このように、イエスのたとえ話は「言葉で描かれた絵」 “Word picture” です。絵は「鑑賞」するもので、「解説」するものではありません。ですから、このたとえを理解するには、礼拝の後、外に出たら、鳥を見つけ、花を見つめるのがいちばんよいのかもしれません。自然の中に身を置いて、神の言葉を思い見ることが、どんなに大きな祝福であるかを、皆さんも、よく知っていることでしょう。

 「烏のことを考えてみなさい」「ゆりの花のことを考えてみなさい」とある「考えてみる」と訳されている言葉(κατανοέω)は「見る」と訳すことができるのですが、たんに、「眺める」というだけでなく、「観察する」「気付く」「思いみる」などという意味があります。ですから、空の鳥、野の花を見る前に、この箇所が描いている「言葉の絵」を、少し詳しく「観察」してみたいと思います。

 イエスは、この「たとえ」で「カラス」と「ゆり」を使っていますが、より一般的に「空の鳥」、「野の花」と言い換えてよいと思います。22節に「何を食べようかと心配したり、…何を着ようかと心配したりするのはやめなさい」とあるように、「空の鳥」は「食べ物」に、「野の花」は「着物」に関連して語られていることが分かります。

 24節に、空の鳥は「蒔きもせず、刈り入れもせず」とありますがほんとうにそうです。鳥は、神が備えたものをついばんで生きています。「納屋も倉もありません」というのもそのとおりで、何日分もの食べ物を蓄えはしません。しかし、鳥は毎日エサに事欠くことはありません。神がそれを備えておられるからです。詩篇147:8-9にこうあります。「神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。」詩篇145:15-16には「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます」とあります。

 「野の花」も「紡ぎもせず、織りもしない」のですが、みごとな装いをしています。神が造った花の美しさに比べれば、人工のものはみな色あせて見えます。ソロモン王の時代に、イスラエルは物質的にいちばん栄えましたが、イエスは、「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」と言っています。野の花を美しく飾っておられるのは神です。

 田畑を耕し、種を蒔き、刈り入れるのはどちらかといえば男性の仕事。糸を紡ぎ、布を織るのは多くの場合女性の仕事です。神は私たちに最小限ぎりぎりのものしかくださらないのではなく、豊かに与え、また、美しく装わせてくださいます。イエスは、このたとえで、男性にも女性にも、そのことを教えています。

 私たちはよく言います。「現実の人生は不足ばかりで、イエスの言うようなものではない。」そうでしょうか。イエスは非現実的なことを語っているのでしょうか。いいえ、イエスの語っている満ち足りた美しい人生は存在するのです。神を信じ、キリストに従ってきた人たちはみな、人生の豊かさを味わい、その美しさを表しています。信仰者には、神の守り、支え、養いは確かな現実なのです。

 三、人への愛

 なぜ、人にこのような祝福が与えられるのでしょうか。それは、神が人を「鳥よりも、はるかにすぐれたもの」(24節)として造り、神の愛の対象とされたからです。神が、空の鳥や野の花さえ心にかけてくださるなら、人間のことは、なおのことです。ルカ12:6-7に「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。…あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」とあるとおりです。ルカ12:7には「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」とあります。私たちの髪の毛は、いちばん多い時で10万本もあるそうです。髪の毛は、絶えず生えたり抜けたりしていますので、誰も、その数を正確に数えることなどできません。けれども、神は私たちの髪の毛の数を数えて知っておられます。これは、神が私たちの人生と生活のすべてを、些細なことにいたるまで、いつしみの心で知っていてくださることを意味しています。神の愛は、なんと細やかで行き届いていることでしょうか。

 神は、あらゆる造られたものをこえて、いと高く、聖なるお方です。神と人との間には、創造者と被造物という根本的な違いがあります。神は永遠で無限で変わらないお方ですが、私たちは一時的で有限で変わりゆく者です。そうであるのに、神は、その違いを乗り越えて、ご自分と人との間に人格のまじわりを結ぶために、人に、ご自分の性質の一部、聖さや義しさ、愛や真実、知恵や知識などを与えてくださいました。創世記1:27に「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」とある「神のかたち」とは、こうした神との共通の性質のことをいいます。

 しかし人は、罪のために、この「神のかたち」を損なってしまいました。知恵や知識の一部は残りましたが、「聖さ」や「義しさ」、「愛」や「真実」などは、すぐに失われてしまいました。人類は知恵・知識を使って文明を築き上げ、社会を発展させてきました。けれども、それは必ずしも正しい発展ではありませんでした。神を知る知恵と知識を失ったため、その他の分野の知恵・知識においても、それを正しく使うことができませんでした。そのため、地球環境を壊し、自らの健康を脅かし、社会の混乱を引き起こしてきました。それでも人は、自分の知恵や力にしがみついてきました。自分の人生や生活から神を締め出せば、なにもかも自分の力で行わなければなりません。そして、なにもかも自分の力でやろうとすれば、心配ごとが増え、あらゆることに思い煩って疲れ果ててしまうのです。

 神は、そんな私たちが、もういちど「神のかたち」を回復するために、御子を人としてこの世に送ってくださいました。神の御子が「人のかたち」をとることによって、人が「神のかたち」を取り戻すようにしてくださったのです。イエス・キリストを信じることによって、私たちは神が私たちを造ってくださった、本来の姿に立ち返ることができます。神の子どもとされ、神を「天の父」として信頼して生きる人生が与えられるのです。神の無い人生には心に喜びを与える鳥のさえずりもなく、私たちを楽しませてくれる、色とりどりに咲く花もありませんでした。それは空虚で、わびしいものでした。しかし、信仰を持った時から、鳥のさえずりに神の愛を覚え、野の花に神のいつくしみを感じることができる、満ち足りた人生が始まったのです。

 空の鳥、野の花は、蒔きもせず、刈り入れもせず、紡ぎもせず、織りもしません。ただ神によって養われ、生かされています。だから、人間も、働かなくてよいというわけではありません。人は勤勉に働くべきです。神は忠実に、勤勉に働く者に労働の実を与えてくださいます。しかし、いくら懸命に働いても、そこに神への信頼がなければ、不安と恐れに追い立てられます。労働の実を楽しむことができないのです。「信頼の中で働く。」それが、私たちに求められていることです。イエスはその模範です。イエスほど、朝早くから夜遅くまで、勤勉に忠実に働いた方はありません。しかも、イエスはその働きのすべてを父なる神への深い信頼にもとづいて行ったのです。イエスは、いつも、ご自分に注がれている父なる神の愛に満たされていました。この「たとえ」の最後で、イエスは、弟子たちに「ああ、信仰の薄い人たち」と言いましたが、弟子たちの中には、まだ、父なる神の愛が見えていない人がいたのでしょう。しかし、イエスは、信仰が足りないからといって、その人を斥けはしません。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。よく見て、考えなさい。神の愛が分かるようになり、神の愛が分かるようになれば、神への信頼が増してくる。神への信頼が増せば、恐れや不安が姿を消していく。神があなたのことを心配しておられる。だから、心配するのをやめて、神に信頼しよう」と、信仰の足らない者をも、信仰へと招いているのです(ペテロ第一5:7参照)。

 菅野淳(かんの・じゅん)作詞、新垣壬敏(あらがき・つぐとし)作曲の「ごらんよ空の鳥を」という歌があります。

ご覧よ 空の鳥 野の白百合を
蒔きもせず 紡ぎもせずに 安らかに 生きる
こんなに小さな いのちにでさえ 心をかける 父がいる

ご覧よ 空の雲 輝く虹を
地に恵みの 雨を降らせ 鮮やかに 映える
どんなに苦しい 悩みの日にも 希望を注ぐ 父がいる

友よ 友よ 今日も たたえて歌おう
すべての物に 染み通る 天の父の いつくしみを
この歌のように、「天の父」を仰いで、この一週を過ごしたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたのお造りなった自然は、あなたの栄光と愛を私たちに語り伝えています。御言葉に導かれて、空の鳥、野の花の中にも、あなたのいつくしみを見ることができるよう、助けてください。私たちが、あなたの父としての愛で、どんなに愛されているかを、さらに知らせてください。そして、あなたへの信頼のうちに生きる日々を与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/26/2020