シンプルな生活

ルカ10:38-42

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10:38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
10:39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
10:41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」

 今年、わたしたちは、テモテ第一4:7を年間聖句に選び、「敬虔のための鍛錬」を目標に定めました。きょうは「シンプルな生活」という霊的訓練についてお話しします。

 一、持ち物の整理

 「シンプルな生活」とは何でしょうか。それは第一に、「持ち物」にとらわれない生活であると言うことができます。

 「シンプルな生活」と聞くと、どんな楽しみも斥けて、ただ質素に生活するだけの味気のないものと考える人もあるでしょうが、「シンプルな生活」とは、決して「禁欲的な生活」ではありません。「シンプルな生活」は決して贅沢な生活ではありませんが、贅沢な生活に勝る喜び、楽しみがそこにはあります。それは神が与えてくださった良きものを感謝して受け、それを喜び、楽しむ生活だからです。

 神は、わたしたちに必要なものは、すべて、かならず与えてくださいます。多くの場合、必要以上のものを恵んでくださいます。この神への信頼を失くすとき、「モノ」を持つことによって、自分のステータスを高め、セキュリティを強くしようとします。そして、その結果、「シンプルな生活」が壊されるのです。イエスが「あなたがたの宝のある所には、心もある」(ルカ12:34)と言われたように、「モノ」を多く持てば持っただけ、心はそこに向かいます。普段の車の他にレジャー用の車を持てば、そのメインテナンスのために余分な時間と、労力と、金銭を使うようになります。「モノ」が増えればそれだけ、心が神から離れるのです。

 良く言われるように、「モノ」を持つとき、「ニーズ」と「ウォンツ」を区別する必要があります。わたしたちは、とかく、「必要なもの」が何かを考えないで、「欲しいもの」に飛びつきやすく、その結果、「無駄なものを買ってしまった」と後悔することが多いのです。後悔して、それを改められればいいのですが、「ウォンツ」ばかりが膨れ上がって、欲しいものを手に入れても満足できなくなり、次々と「モノ」を求めるようになる、「買い物中毒」という状態になることさえあります。信仰者はそうしたことに注意する必要があります。

 人の心は「モノ」によっては満たされません。神への信仰を第一にし、「敬虔」をゴールとする「シンプルな生活」によってしか、ほんとうの満足は得られないのです。ですから、聖書はこう言います。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(テモテ第一6:6新改訳)敬虔に生きるということは、心が「モノ」の束縛から解放されることです。そして、神が与えてくださるもので満たされ、満足することなのです。

 箴言に、このような祈りがあります。

わたしは二つのことをあなたに求めます、
わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。
(箴言30:7-9)
この祈りを祈った人は、神を第一に考えていました。ですから、「貧しさ」がわたしを神から遠ざけるなら、わたしを「貧しさ」から救い出してください。「富」がわたしを神から遠ざけるなら、わたしに、必要以上の「富」を与えないでくださいと祈っているのです。ほんとうに敬虔な人は、「飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ4:12)のです。「モノ」にコントロールされない自由を持っているのです。

 二、時間の整理

 「シンプルな生活」とは、第二に神との「時間」を大切する生活です。

 神が人に与えてくださるものの中で、時間ほど大切なものはありません。お金は、少々の損をしてもまた取り戻せます。しかし、時間は、一度失ったら二度と戻って来ません。とくに年齢が高くなると、それだけ地上での残り時間が少なくなりますので、もっと時間が大切になってきます。アメリカでは、誰かと面会したあと、“Thank you for your time.” と言って、自分のために時間を割いてくれたことにに感謝します。それは時間の大切さが意識されているからだと思います。わたしたちも自分の時間や相手の時間を大切にする良い習慣を身につけたいと思います。

 神は、持ち物について、「十分の一はわたしのもの」(マラキ3:8)と言われました。わたしたちの持ち物は、すべて神から与えられたもの、神のものであって、神が「すべてはわたしのもの」と仰っても不思議ではありません。ところが、神は、百のうち十しかお取りにならず、「百のうち九十はあなたのものだ」と、ほとんどすべてといっていいくらいのものをわたしたちの自由に任せてくださっているのです。連邦法人税が21%なのに比べて、神が10%しか要求なさらないのは、とても寛大なことだと思います。

 けれども、神は、時間については、わたしたちから「七分の一」、14.3%を求められます。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ」(出エジプト20:8-9)とある通りです。時間が大切なものだからこそ、神はわたしたちに、持ち物よりも高い比率で時間をお求めになるのです。

 しかも、神がわたしたちに時間をお求めになるのは、神のためというよりは、わたしたちのためなのです。神にお返しした十分の一の捧げ物が何倍もの祝福となって返ってくるように、わたしたちが神とともに過ごした時間、また神のために用いた時間は、わたしたちに安息を与え、その他の残りの時間を充実したものにしてくれるのです。

 神と共に過ごし、神のために用いる時間で一番大切なのは、日曜日の礼拝です。この礼拝の時間を守るとき、わたしたちは、身も心も安息を得ることができます。多くの教会では「招きの言葉」といって、聖書の言葉を朗読して礼拝を始めます。「全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ」(詩篇100)など、詩篇の言葉が使われますが、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)との主イエスの言葉もまた、礼拝の「招きの言葉」にふさわしいと思います。この主の招きにこたえて礼拝に集いましょう。「わたしは、主イエスの安息を受け取るために礼拝に行くのだ」ということを、毎週、新しく確認したいと思います。

 毎週の礼拝とともに、一日の中でも、安息の時が必要です。信仰者が御言葉に触れ、祈り、静かに過ごす時を持たないでいたら、最初は大丈夫そうに見えても、見えないストレスがたまり、そのうちに、からだも心も、そしてなにより信仰がダウンしてきます。「七分の一」の時間が神のものであるなら、一日24時間の七分の一は三時間ですから、ほんとうは毎日三時間を御言葉と祈りのために過ごすべきなのかもしれません。けれども、それができる人は限られていると思います。せめて、睡眠や仕事に費やす時間を除いた残り8時間のうちの七分の一、一日一時間を御言葉と祈りのために使いたいと思います。朝30分、夜30分の時間を見つけ出せないでしょうか。どうしても、まとまった時間を取れないのなら、5分や10分のちょっとした休み時間を何回か使えば、毎日30分は御言葉と祈りの時を持つことができます。人生は一日、一日の積み重ねです。御言葉と祈りの時を持つことによって、一日が意味のあるものとなり、人生が祝福されたものとなるのです。

 三、活動の整理

 「シンプルな生活」とは第三に、活動を整理した生活です。多くの人は「モノ」に対して貪欲であるばかりでなく、「活動」に対しても貪欲です。あれもしたい、これもしたいと、ついついいろんなことに手を出すのですが、あまりにも、多くのことを抱え込んで身動きができなくなるだけでなく、どれも満足に出来ないで終わることも多いと思います。信仰者は享楽的な活動にかかわることことはありません。みな健全なものです。それは、自分のためばかりでなく、他の人のためや神のためのものだと考えているものも多いでしょう。だから、クリスチャンのほうが、活動の整理が難しくなるのです。「悪いこと」を止めるは当然のこととして納得できますが、「良いことをしているのに、なぜ止める必要があるのか」と思ってしまうからです。しかし、「良いこと」が「より良いこと」、「最も良いこと」を妨げることもあるのです。

 きょうの箇所は、そうしたことを教えています。マルタはイエスと弟子たちの訪問を受け、接待のために忙しくし、心をみだしていました。マルタとマリアは普段仲の良い姉妹だったと思いますが、このときのマルタは、妹のマリアがイエスの足元に座って、お話を聞いているのを見て、怒りを覚えました。その怒りは、それを許しているイエスにも向けられました。それでマルタは、イエスが話しておられる最中に、それをさえぎって「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」と言ったのです。

 イエスはそれに対して「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」と言われました。もちろん、イエスはマルタの接待を否定なさったわけではありません。むしろ、感謝しておられたでしょう。人をもてなすことは良いことです。そしてそれはマルタにとって得意なことでした。そうであるなら、マルタは自分の仕事に専念すれば良かったのです。ところが、マルタはマリアの姿を見て、マリアは当然、自分を手伝うべきだと考えたのです。もし、マリアがマルタを手伝うべきであれば、イエスは、マルタに言われなくても、マリアに「マルタの手伝いをしてきなさい」と言ったことでしょう。マルタがイエスを迎え、イエスがマルタの家に入られた以上、この家の「あるじ」はマルタではなく、イエスです。ところがマルタは主イエスに指図さえしているのです。主が、マリアに御言葉を聞くことを許しておられるのに、そのお心を理解せず、自分の気持ちをぶつけたのです。マルタは自分の守備範囲以外のことまで手を出し、心を乱して、自分の仕事に専念できなかったのです。

 イエスはマルタに「多くのことに心を配って思いわずらっている」と言われましたが、この「思いわずらう」という言葉は、“to be upset”(気が動転している、腹を立てている)とか“to be distracted”(気が散る、集中していない)と訳したほうがよいでしょう。マリアが御言葉に聞くという「ただひとつのこと」に心を集中していたのにくらべ、マルタは「多くのことに」心が乱れていたのです。もし、わたしたちの心がマルタのように「アプセット」し、「ディストラクト」しているなら、「多くのこと」から手を引いて、「ひとつのこと」へと活動を整理する必要があると思います。

 活動の整理は、もちろん、心の整理によってなされます。わたしたちの心が、イエスに、また、「なくてならないただひとつのこと」に向かうときに、自分のすべきことが見えてきます。そして、落ち着いた心で、そのことに専念できるようになります。私の友人が牧師をしている教会では何年かにいちど、教会のすべての集会、行事、活動、また奉仕分担を白紙にもどし、教会員一同が御言葉に聞き、一定の祈りの時を持ってから、教会の集会、行事、活動、奉仕分担を新しく築きあげていくのだそうです。活動の整理のために良い方法だと思います。わたしたちにも、そうしたことが必要でしょうが、まずは、ひとりひとりが自分の身辺整理からはじめ、「なくてならないただひとつのこと」に集中していきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、きょう、わたしたちは「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」との主イエスの言葉を聞きました。わたしたちは「なくてならないただひとつのこと」を忘れていました。それをとりもどすために、どうぞ、わたしたちの生活を、あなたに向かうものとして整え、わたしたちをあなたから与えられた使命に専念するものとしてください。そのために、主イエスの膝元に座り、そこで、あなたからの指示を受けることができますように。主イエスのお名前で祈ります。

4/15/2018