喜びにあふれて

ルカ10:17-24

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10:17 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
10:19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
10:20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
10:21 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
10:22 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」
10:23 それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。
10:24 あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」

 「静けき祈りの時はいと楽し」(新聖歌190)という賛美があります。「祈りが楽しい」という経験は時として理解してもらえないことがあります。「ひとりでじっとしている祈りの時がなぜ楽しいのかわからない。大勢の人といっしょにワイワイ、ガヤガヤしているほうが楽しい。黙祷が一分間も続けば10分ぐらいに感じる」という声を聞くこともあるからです。けれども「主よ。私たちにも祈りを教えてください」と、主イエスから祈りを学んでいる人には「静けき祈りの…」の賛美が歌っているように、祈りは「慰めを与え、喜びを満たす」ものとなるのです。

 主イエスはいつも弟子たちと一緒に過ごし、多くの人に囲まれていました。けれども朝早くそっと人々の中から抜け出して、ひとりで寂しいところで祈っておられました(マルコ1:35)。しかし、そこはイエスにとって決して「寂しい」ところではありませんでした。人の目にはイエスはひとりでいるように見えたかもしれませんが、霊的な世界においては、イエスは天とそこに住む数え切れない天使たちや聖徒たちに囲まれ、父なる神との親しいまじわりの中にいたのです。祈りを終えたイエスの顔は輝いており、満ち足りていたことでしょう。私たちもそんな祈りを学びたいと思います。神を信じる者が味わう喜び、この世が与えることのできない楽しみをさらに知っていきたいと思います。

 今朝の箇所にはイエスが聖霊によって喜びにあふれて祈られたことが書かれています(21節)。イエスは「喜びにあふれて」何を祈られたのでしょうか。イエスは祈りの中で何を喜びとされたのでしょうか。私たちも喜びにあふれて祈る者となるため、そのことをここから学んでおきましょう。

 一、たましいの救い

 イエスが祈りの中で喜びとされたのは第一に「たましいの救い」でした。

 イエスは十二弟子とは別に七十人の弟子たちをも選んで、神の国を宣べ伝えさせました(ルカ10:1)。そのときイエスは弟子たちに悪霊を追い出す権威を授けました。神の国が宣べ伝えられる時、かならずそれを妨げようとする力が働くからです。今日のアメリカでは、悪霊の力は物質主義や世俗主義、また人間中心主義といったものの中に働くことが多いのですが、イエスの時代には、人にとりついて神を汚すことを語らせたり、破壊的なことをさせたりするなど、もっと直接的に働きました。そのような時、弟子たちは「イエスの名によって」命じると、悪霊はそれに服従したのです。七十人は悪霊が彼らに従ったという不思議な出来事にとても興奮していました。そんなことは今まで体験したことのない、特別なことだったからです。しかし、イエスはこう言って弟子たちをさとしました。

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20)

 イエスは、こう言われることによって、いやしや悪霊の追放、その他の奇蹟が必要ないと言っておられるのではありません。そうであるなら、主イエスは弟子たちにいやしの力や悪霊を服従させる権威などを授けられなかったでしょう。そうしたことは福音が伝えられるために必要であり、助けとなるものなのです。しかし、人を天に導くのは主イエスの救いであり、その福音なのであって、いやしや悪霊追放そのものではないからです。そうしたものは救いを指し示し、福音をあかしするものであって、たましいの救いという目的が忘れられてはならないのです。イエスはセンセーショナルな現象だけに目を留め心を奪われ、たましいの救いのことを忘れてはならないと、弟子たちを戒められたのです。

 イエスはマタイ7:21-23でこう言われました。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
イエスを主として愛し従うことなく、口先だけで「主よ、主よ」と唱えるだけの者が神の国に入ることができないというのは、誰もが頷くことができるでしゅう。神は人の心を正確に判断し、人の一生涯を公平に裁かれるお方です。口先だけのものが神に受け入れらないのは当然です。しかし、イエスの名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行った人でも神の国に入ることができないというのは、なかなか理解しにくいことです。そんなことができるのはきっと信仰深い人に違いないのに、なぜ神の国に入れないのでしょう。それは人を天に導くのは真実な悔い改めと信仰であるからです。悔い改めて福音を信じ、謙虚に神のみこころを求め、それに従う生き方を怠っていたなら、たとえ預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行うことができたとしても、いやしや奇蹟などの賜物が人を天に導くものではないということがここに教えられているのです。

 ですから、私たちがどんなものを持っているか、どんなことができるかよりも、もっと大切なことは、私たちの名が「天に書きしるされている」かどうかということなのです。イエスは、私たちのたましいの救いを何よりも願い、それを喜んでくださるのです。イエスは私たちに、数多くの喜びを与えてくださいますが、すべての喜びのみなもとであるたましいの救いに目を向けるよう、教えてくださっています。たとえ、地上でどんなに大きなことをし、成功し、人々から賞賛されようとも、たましいの救いが無ければ、地上で手に入れたものも、自分のたましいと共にすべて失ってしまうのです。しかし、救われて神の子となり、神のみこころに従って生きるなら、地上でなしたすべての良い行いはその人のたましいと共に永遠に天にとどまるのです。この救いがあるなら、たとえどんなに喜べそうにもない状況にあっても、私たちから喜びのみなもとが消えることはありません。救いの喜びは私たちのたましいの中で成長し続け、天で確かな実を結ぶのです。

 二、救いの知識

 次にイエスご自身が喜び、また、私たちにも喜ぶように教えられたことは、このたましいの救いを知る知識です。

 イエスは「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」と祈られました。「賢い者や知恵のある者」というのは学者や知識人のことです。「幼子たち」というのは学者や知識人から見て、子どものような知識しか持っていない人という意味で、ごく一般の人々のことを指します。イエスの時代の「賢い者や知恵のある者」とは、パリサイ人や律法学者のことでした。ヨハネの福音書にはパリサイ人から、イエスを捕まえて来いと命じられた役人たちが、イエスの話に感銘を受けてイエスに手をかけることができなかったことが書かれています。役人たちが手ぶらで帰ってきたとき、パリサイ人たちは「なぜあの人を連れて来なかったのか」と行って役人たちを責めました。役人たちはそれに対して「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」と言いました。すると、パリサイ人はそれに答えて言いました。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」(ヨハネ7:45-49)このことばの中に、パリサイ人たちが、どんなにか自分を誇り、一般の人々を軽蔑していたかが分かります。

 しかし、神は、イエスが神の御子キリストであることをこうした傲慢な人々には示さず、そうした人々が軽蔑して「幼子」と呼んだ一般の人々に示してくださったのです。いや、神はすべての人に真理を示されたのですが、自分を「賢い」と考えた人たちは、その真理を受け入れなかったのです。逆に、自分の知恵、知識が足りないことを自覚し、「幼子」のようにへりくだって、真の知恵、知識を求めた人に、神はイエスが道であり、真理であり、いのちであることを示してくださったのです。

 信仰にも知識が必要ですが、信仰の知識は一般の知識とは違います。それはただ多くの知識を蓄えればそれで良いというものではありません。「物知り」になることと「神を知る」こととは違います。しかし、信仰によって神を求める者はほんとうの知識に至ります。概念や理念としての神でなく、生けるまことの神に出会います。知識人であっても、そうでなくても、神に対する柔らかいこころがあれば、神を見出し、イエスがキリストであることが分かるのです。パスカルといえば、その名前が気圧の単位になったほどの著名な科学者また哲学者であり一流の知識人ですが、彼は神の前に「幼子」になることができた人でした。パスカルは自分の信仰の体験を「覚え書」として一枚の紙にしたためました。「1654年11月23日、月曜日、夜十時半ころより零時半ころまで」というはっきりした日付と時間が明記されていて、そこには

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。
哲学者および識者の神ならず。
確実、確実、感情、歓喜、平和。
イエス・キリストの神。
<わが神、すなわち汝らの神>
汝の神はわが神とならん。
(以下略)
としるされています。パスカルはが哲学者であり識者でしたが、彼が信じたのは「哲学者および識者の神」ではありませんでした。パスカルは学者たちが理論の上で論じている「神」ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブにご自分を表わし、イエス・キリストにおいて人となられた神、生ける神を知り、信じたのです。

 このように生けるまことの神を知り、信じることは、なんという特権でしょうか。神と主イエス・キリストを知っていることにまさる喜びはこの世にありません。この喜びはペテロ第一1:6-9に次のように書かれています。

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
主イエスの救いによって、神を知り、神の国を受け継ぐ者となった喜びに勝るものはありません。この喜びがあるなら、たとえ試練や悲しみがやってきてもそれを乗り越えることができるのです。信じる者に与えられているこの喜びに目を向けましょう。もし、まだこの救いを得ていない人があるなら、この喜びが与えられるように素直に祈り求めましょう。神は喜んで、あなたの祈りに答えてくださいます。

 (祈り)

 天地の主である父なる神さま。あなたはあなたの前に幼子のようにへりくだる者に救い主イエス・キリストを示してくださいます。私たちの心を引き上げ、イエスによって天に名をしるされていること、またやがて、天にたくわえられているものを受け継ぐことができることを思わせください。地上のものに心惹かれるとき、また、悲しみと試練の中にあるときは、なおいっそう、私たちを天から来る喜びで満たし、励まし、支えてください。祈りの中で喜びに満たし、また喜びにあふれて祈る者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/24/2010