希望を歌う

ルカ1:67-79

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1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
1:71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
1:73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
1:74 われらを敵の手から救い出し、
1:75 われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

 クリスマス前の4回の日曜日は、「アドベント第1主日」、「第2主日」、「第3主日」、「第4主日」と数えます。一週ごとにアドベント・キャンドルを灯してクリスマスを待ち望みます。アドベント・キャンドルの一つひとつには名前とテーマがあります。最初のキャンドルは「預言のキャンドル」と呼ばれ、テーマは「希望」です。次は「天使のキャンドル」で、テーマは「平和」、その次は「羊飼いのキャンドル」で、テーマは「喜び」、そして最後が「ベツレヘムのキャンドル」で、テーマは「愛」です。この期間、こうした4つのテーマを順に考え、想い見ていきましょう。

 一、希望と預言

 希望のないところで人は生きることができません。どんなに豊かなものを手に入れても、希望が無ければ、からだは生きていても、たましいは死んでしまいます。けれども、どんな逆境の中でも、たとえ明日をも知れない状態でも、生命の危険にさらされていても、希望があるなら、生き抜くことができます。人は希望さえ失くさなければ、どんなに困難な中でも前に向かって進むことができるからです。

 私は、学生のころ、結核療養所に患者を訪ねる奉仕をしたことがあります。ある日、牧師と一緒に重症の方を訪ねました。彼女は、チューブを何本も身体につけ、とても苦しそうでした。けれども、彼女はこう言いました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」ペテロ第一1:3-5の言葉です。彼女はそれを暗記していて、聖書の言葉通り、正確に口にしました。この苦しみの中でも、神は必ず守り、支えてくださる。たとえ、身体の死がやってきても、キリストからいただいた永遠の命によって、天でキリストと共に生きることができる──その希望を、彼女は、聖書の言葉によって告白したのです。お見舞いに行った者のほうが彼女の信仰によって励まされ、力づけられたほどでした。そして、そのときほど、人に希望を与えるのが神の言葉であることを、強く確信できたときはありませんでした。

 希望は神の言葉、とくに神の約束の言葉から来ます。きょうの箇所で、ザカリヤは、「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた」(68-69節)と言っています。ザカリヤの言葉は、詩の形で綴られていますので、ここは「ザカリアの歌」と呼ばれています。

 ザカリアは希望を歌いました。とくに、神の言葉に基づく希望を歌いました。「救いの角…」は「救い主」のことで、「ダビデの家に…」は、救い主がダビデの子孫として生まれることを言っています。実際、ザカリヤの子ヨハネの誕生から六ヶ月後、救い主イエスは、「ダビデの子」としてダビデの出身地、ベツレヘムでお生まれになりました。このことは聖書にあらかじめ預言されていました。「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに」(70節)とある通りです。

 イスラエルの人々は、バビロンやペルシャ、シリアやローマという大きな国に踏みにじられてきましたが。そんな中でも、神の言葉によって希望を持ち続けました。神の言葉は、個人に希望を与えることはもちろんですが、それを超えて、社会や国家、また民族にも希望を与えます。アメリカは、人々が信仰の自由を求めて建てた国で、13の州からはじまって広大な大陸を開拓し、ハワイやアラスカを加えて50州にまでなりました。アメリカは豊かで強い国になりましたが、アメリカの発展の背後には、人々に希望を与え、社会を支え導く神の言葉がありました。アメリカが神から離れそうになったとき、神はリバイバルを起こして、神の言葉を注いでくださいました。リバイバルの時代には説教者が神の言葉をストレートに語り、人々は神の言葉に聞き、悔い改め、信仰に立ち返りました。アメリカはそれによって、息を吹きしてきました。

 アモス8:11にこうあります。「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」御言葉の飢饉は、実際の飢饉と同じくらい、いや、それ以上に恐ろしいものです。神の言葉が神の言葉として語られず、聞かれなくなるとき、人のたましいは枯れ、社会は荒れ果てていきます。私たちは、今、そのようなことを目の当たりにしています。御言葉から来る、ほんものの希望のかわりに、目先の楽しみや、モノの豊かさを追い求めたとしても、そうしたものでは、人のたましいは決して満たされることはないのです。

 「希望」を表すキャンドルが「預言のキャンドル」と呼ばれるのは、希望の光は、神の言葉という蝋を燃やしてはじめて輝くからです。神の言葉によって支えられていない「希望」は一時的で、やがて消えていきます。しかし、神を信じる者、神の言葉を握りしめている人は、消えることのない希望を保ち続けることができます。

 二、希望と救い

 ザカリヤは神の言葉に基づく希望を歌いましたが、次に、救いの希望を歌いました。「救い」といっても、何からの救いでしょうか。ザカリヤは「救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである」(71節)と言っていますが、この「敵」とは何でしょうか。イスラエルは、ダビデ王朝が滅びてからはずっと、外国に支配されてきました。人々は、外国の支配を「敵」とみなし、そこからの解放を望んでいました。実際、イエスの時代には、「ヘロデ党」や「熱心党」などといったグループが政治的な独立のために活動していました。

 66年、ユダヤの人々はローマとの間に戦争を起こしました。73年まで続いた「ユダヤ戦争」です。この戦争で、70年にエルサレムは神殿もろとも滅ぼされました。残った人々は3年間、マサダ砦に立てこもって抵抗しましたが、それも、ついに滅ぼされました。ユダヤのローマへの反乱はかえって人々を苦しめ、人々は祖国を失い、全世界に散らされることになりました。圧迫されている民族にとって政治的独立は悲願です。しかし、その「時」と「方法」を間違えると、かえって、もっと大きな不幸を招くことになります。

 貧困に苦しむ人は貧困からの解放を願い、病気に苦しむ人は病気からの解放を願います。誰もが、このトラブル、あの悩みから解放されたいと願います。それは当然のことです。経済活動を盛んにして貧困を解消する。医学の研究を進め、誰もが医療を受けられるようにする。そうした努力は必要なことです。けれども、現実には、一つの問題から解放されたとしても、また次の問題が生じてきます。私たちを苦しめている様々な問題の背後にあるほんとうの「敵」に打ち勝つのでなければ、堂々巡りの苦しみから抜け出すことはできません。

 多くの人が気付いていなくても、また、認めようとしなくても、私たちにとっての最もやっかいな「敵」は、じつは私たちの罪です。「罪」によって人は、神に逆らい、神を否定し、その結果、人と人とが互いに逆らいあい、互いに否定しあうようになり、そこからあらゆる問題が生じ、それが人を苦しめるのです。ザカリアは、77節で「罪の赦しによる救い」と言って、神がくださる救いは罪からの救いであると言っています。聖書は救い主を「罪から救う者」(マタイ1:21)と呼び、救いのメッセージとは、「罪の赦しを得させる悔改め」(ルカ24:47)であると言っています。世界の誰ひとりとして、人を罪から救うことができる者はありません。ただひとり、人となられ、わたしたちの罪のすべてを背負ってくださった神の御子、イエス・キリストだけが、そのことができます。そして、私たちは罪の赦しによって、罪の解決を得てはじめて、ほんとうの希望を持つことができます。私たちの信じる神は「希望の神」(ローマ15:13)です。罪の赦しによって希望を与えてくださる神です。

 三、希望と敬虔

 ザカリヤは、さらに、罪の赦しがもたらす「きよく正しい」生活と、神への「奉仕」についても歌っています。74〜75節にこうあります。「われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」救い主イエスは私たちを「罪から」救ってくださいました。しかし、救いを「罪からの救い」と言うだけでは、それは、救いの半分しか語っていません。イエス・キリストは私たちを「罪から」どこに導かれるのでしょうか。私たちは「何に向かって」、「何のために」救われたのでしょうか。「罪が赦された」というのは、罪の中に留まっていてよいといういうことではありません。「罪から解放され、自由になった」というのは、勝手気ままに生きてもかまわないということでもありません。罪の赦し、罪からの解放は、「きよく、正しく」生きることへと導くものです。エペソ2:10は「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と、救いの目的を教えています。イエス・キリストの救いは、私たちを罪から義に、不法から良いわざに、不敬虔から敬虔な生活へと導くものです。

 そして、敬虔な生活とは、たんに、「罪を犯さないようにする」というだけではなく、もっと積極的に、「神に仕え、神のために生きる」ものです。ザカリヤが「恐れなく、主の御前に仕えることを許される」と言っている通りです。ザカリヤは自分の子どもヨハネについて、76-77節でこう言いました。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」ザカリヤの子ヨハネは、この言葉どうりに、荒野に住み、悔改めを説き、人々にバプテスマを授ける者となりました。救い主イエスに先立って、救い主への道を備えることによって、救い主に仕えたのです。

 「罪の赦しによる救いの知識を与える」、これは、バプテスマのヨハネだけに与えられた努めではありません。私たちにも同じ努めが与えられています。「罪の赦しによる救い」を知った私たちも、イエス・キリストによって過去が赦され、現在が守られ、将来への希望が与えられることを、人々に知らせることができます。それを証しする努めが与えられています。そのように、神を畏れ、敬い、神に仕えるとき、私たちは、地上では、キリストを証ししたことが、いつか、どこかで実を結び、天では敬虔に生活したことが報われるという希望をさらに増し加えられるのです。

 希望は神の言葉から来ます。私たちに与えられている希望は、すでに罪から救われ、今、罪の力から救われ、やがて、罪の存在からも救われるという希望です。そして、この希望が与えてくれるものは、「きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕える」生涯です。アドベントの第1週、神がくださった希望を自分のものとし、それによって確かな人生を送る者でありたいと思います。

 (祈り)

 すべての希望の源である父なる神さま、イエス・キリストによって与えられている希望のゆえに感謝します。人間の希望はやがて失望に終わりますが、あなたがくださる希望は決して失望に終わることはありません。それは、私たちを過去から解放し、現在に力を与え、将来に向かわせてくれます。そのことを感謝し、日々を歩む私たちとしてください。救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/27/2022