祝福された人

ルカ1:39-45

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1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 クリスマスが近づくと、普段はクリスチャン・ミユージックと無縁な店でも讃美歌を流すところが多くなります。曲だけでなく、歌も歌われます。神の救いや、救い主イエスのことが歌われ、人々がそれを耳にするのはとても良いことです。

 また、この時期にはイエスの母マリアのことも歌われます。「アヴェ・マリア」はその代表的なものです。多くの著名な作曲家が「アヴェ・マリア」を作曲していますが、たいてい、ラテン語のまま歌われるので、多くの人は曲の美しさを楽しむだけで、歌詞を心に留めていません。「アヴェ・マリア」の歌詞は前半と後半に分かれていて、前半は聖書の言葉がそのまま使われています。“Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum.” は「おめでとう、マリア、恵みに満たされた人。主はあなたとともに」という意味です。ルカ1:28で、御使いがマリアに現れたときに言った言葉そのままです。次の“Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui, Jesus.” は「あなたは女の中で祝福された人、あなたの胎の実、イエスも祝福されています」という意味です。これはマリアがエリサベツを訪ねたとき、エリサベツがマリアに言った言葉で、ルカ1:42にあります。「アヴェ・マリア」は、クリスマスの物語の Annunciation(受胎告知)と Visitation(エリサベツ訪問)を歌っています。

 一、マリアの訪問

 マリアが訪ねたエリサベツは祭司ザカリヤの妻で、マリアにとっては叔母にあたる人です。彼女には長い間子どもが与えられませんでした。高齢になって、子を産むことをあきらめていたときに、夫ザカリヤに御使いが現れ、こう告げました。「エリサベツに男の子が与えられる。名をヨハネとつけなさい。その男の子はやがて来られる救い主のさきがけとなる。」(ルカ1:13)その言葉の通り、エリサベツは子どもを宿しました。彼女は大事をとって五ヶ月の間家にひきこもり、六ヶ月目を迎えました。

 そのときエリサベツは、出産までの間、身の回りの世話をしてくれる人を必要としていました。エリサベツの身近には、出産や育児を経験した女性たちが大勢いて、彼女を助けることができました。ところが、彼女は、そうした人を選ばず、遠くの、しかも、未婚のマリアを選びました。なぜでしょうか。そこには神の特別な導きと聖霊の示しがあったからです。

 41節に「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた」とありますが、エリサベツが聖霊の働きを受けたのは、このときがはじめてではないと思われます。4ヶ月から5ヶ月して胎児が動くのを感じるようになったころから、神の言葉を実現させる神の力を身をもって体験し、聖霊によって神との深い交わりに導かれていったと思われます。

 エリサベツの妊娠六ヶ月目というのは、ちょうどマリアが、御使いのお告げを受けた時でした。エリサベツは、マリアが救い主イエスの母として選ばれたことを、聖霊の示しによって知っていました。エリサベツの子ヨハネには、生まれる前から救い主に仕えるという務めが与えられていることも、エリサベツには示されていたので、エリサベツはぜひとも、わが子が仕えるようになる救い主の母となるマリアに会いたいと願ったのでしょう。

 エリサベツには、マリアの実際的な手助けが必要でした。しかし、それ以上にマリアとの信仰の交わりが必要でした。マリアにもエリサベツとの信仰の交わりが必要でした。マリアは、エリサベツの出産の直前まで三ヶ月の間、一緒にいました。神を愛し、神の救いが世に現れることを待ち望んでいたエリサベツは、自分の子ヨハネが準備し、マリアの子として生まれるイエスが成し遂げようとしている救いについて、マリアといろいろと語り合ったことでしょう。エリサベツと共に過ごした三ヶ月は、イエスの母として選ばれたとはいえ、まだ年若いマリアを強め、支えるのに、大きな力になったことと思われます。

 二、エリサベツの祝福

 さて、エリサベツを訪ね、その門をくぐったマリアはまず、自分のほうから丁寧に挨拶をしました(40節)。ところが、エリサベツから返ってきた言葉は、「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう」でした(42節)。古代には、年上、年下の区別がはっきりしていました。年下の人は年上の人を敬い、年上の人は年下の人にはそんなに丁寧には接しませんでした。ところが、エリサベツは、自分の子どもほどの年齢の若いマリアを「私の主の母」と呼んで、マリアに自分の母親に対するような尊敬を表したのです。エリサベツとマリアの立場が入れ替わっていました。

 エリサベツにとって最も大切なお方は主です。その主が人となり、処女マリアを母として、この世に生まれ出ようとしておられます。エリサベツは、主を「私の主」として崇める人でした。それで、その主の母となるマリアを、自分の「姪」としてではなく、「主の母」として敬ったのです。

 「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」ここで、エリサベツは二度「祝福されている」という言葉を使っています。この言葉には二重の意味があります。人に対して使われる時には、「祝福がありますように」という意味になりますが、神に対して用いられるときは、神を「崇めます」、「礼拝します」、「ほめたたえます」という意味になります。ですから、最初の「あなたは女の中の祝福された方」というのは、マリアを祝福している言葉ですが、次の「あなたの胎の実も祝福されています」というところは、マリアに宿っておられるイエスこそ、「祝福さるべき方」「崇められるべき方」、主であるという意味になります(テモテ第一1:11、6:15-16参照)。イエスが「祝福されている」「祝福に満ちている」というのは、イエスが私たちの礼拝を受けるべき神であることを言っています。マリアが受けた祝福は、彼女の胎内にいる「祝福に満ちたお方」からの祝福だったのです。エリサベツは、その祝福を認めて、マリアを「祝福された人よ」と呼び、彼女の胎内に宿られたイエスを「祝福されるべきお方」として崇めたのです。

 三、祝福の秘訣

 神の御子の母となるという祝福は、後にも先にも、マリアにだけ与えられたもので、特別なことの中のさらに特別なことです。では、マリアへの「受胎告知」やマリアの「エリサベツ訪問」は、マリアにとっては大切なことであっても、私たちには当てはまらないものなのでしょうか。いいえ、聖書は、神を信じる者がマリアのように「祝福された人」になることができると告げており、その秘訣を教えています。それは、45節の「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」という言葉です。

 マリアの祝福、幸いは、神の言葉にまごころをもって耳を傾け、それを信じ、受け入れたことにありました。聖書は、いたるところで、祝福された人生、幸いな生活を神の言葉と結びつけています。詩篇1:1-2には「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」とあり、詩篇119:1-2には「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」とあります。箴言16:20には「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである」と言われています。

 あるとき、イエスの教えに感動したひとりの女性が「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」と言いました。「こんなに素晴らしい人物を産んだ母親はなんと素晴らしいことか」という意味です。イエスの母がうらやましいと思ったのでしょう。しかし、イエスはそれに対してこう答えました。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:27-28)

 また、あるとき、イエスが人々を教えておられるとき、母マリアと兄弟たちがイエスに会いに来ましたが、大勢の人のために、イエスに近づくことができませんでした。それで、弟子のひとりがイエスに「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています」と告げました。そのとき、イエスはこう言われたのです。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」(ルカ8:19-21)

 こうした言葉は、イエスが母や兄弟たちに対して冷たい態度をとったように聞こえますが、決してそうではありません。イエスは母マリアが、他の誰よりも「神のことばを聞いてそれを行う人」であることを知っていました。イエスの兄弟たちも、最初はイエスに反対していましたが、イエスの復活ののちは、信仰を持ち、教会の一員に加えられています(使徒1:14)。人の本当の幸いは、御言葉を聞いて、信じることにあるのです。皆さんは、この幸いを体験していますか。神の言葉はいつでも、「そうだ、その通りだ」と理解できるものばかりとは限りません。エリサベツの夫ザカリヤは、エリサベツに子が生まれるという知らせを聞いたとき、「そんなことがあるだろうか」と疑ってしまいました。私たちも自分の小さな知恵や経験だけで神の言葉を推し量って、神のみこころの大きさを見ないことがあります。また、聖書を教訓の言葉と読むだけで、「自分にはこんなことはできない」、「今度も、神の言葉を守ることができなかった」と落胆してしまうこともあります。聖書には確かに戒めがあり命令があります。しかし、それがすべてではありません。その戒めを守れす、命令に従うことのできない私たちの罪を赦し、受け入れ、強め、恵んでくださるという「よい知らせ」(福音)や約束の言葉で満ちているのです。神は、あなたを救う、赦す、癒やす、守る、あなたと共にいて、あなたを祝福する、万事を益とすると約束しておられます。たとえよく理解できなくても、目に見える状況が約束の言葉とは正反対のようであっても、神の言葉を信じましょう。それに頼りましょう。

 「受胎告知」と「エリサベツ訪問」の物語は、毎年、クリスマスのシーズンに読み、聞きますが、今年は、このことから御言葉を聞いて、信じて与えられる祝福に心を留めましょう。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」私たちもこの幸いをいただきましょう。御言葉を聞いて信じる「祝福された人」となり、その幸いを味わうお互いでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、聖書の中に、歴史の中に、また、私たちのまわりに、神の言葉を信じて生きた幸いな人々の良い模範を数多く置いてくださいました。マリアは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人」でした。私たちもこの模範に倣わせてください。マリアと同じ信仰と祝福とを私たちにもお与えください。主イエスのお名前で祈ります。

12/5/2021