いちばん祝福されたひと

ルカ1:39-56

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1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
1:56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。

 ジャン・フランソワ・ミレーの「晩鐘」は、知らない人がいないほど、有名な絵です。教会から響いてくる鐘の音に合わせて、一日の労働を感謝し、祈る若い農夫夫妻の姿が描かれています。原画は、わずか 55.5×66cm の小さな油絵ですが、そこから鐘の音が響いてくるような美しい絵です。

 この絵のもとのタイトルは「アンゼラス」で、「アンゼラスの鐘」を指しています。アンゼラスの鐘は、教会で朝と正午、そして夕方に3回鳴らされる鐘で、このとき、人々は「アンゼラス」(天使)という言葉で始まる祈りを唱えました。アンゼラスの鐘は、世界中で、朝6時、正午、そして午後6時の3回鳴らされますが、アメリカだけは例外で、朝8時30分、正午、そして午後5時30分です。アメリカの労働時間に合わせてあるのかもしれません。朝6時から教会の鐘を鳴らすと、安眠妨害の苦情が出るかもしれません。アンゼラスの鐘は「カーン、カーン、カーン」という3連打が三回繰り返され、全部で9回鳴らされます。このとき祈る祈りはこうです。

主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神の御子を宿された。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり
この身になりますように。」
「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も
祝福されています。」
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを
知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架をとおして、
復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
ほとんどが聖書のことばから取られた美しい祈りです。朝に、昼に、夕に、神の御子が人となり、私たちのうちに来てくださり、十字架で死なれ、復活されたことを心に覚えるのです。朝には、主が共におられることを覚えて勇気を与えられ一日を始めます。昼には、キリストにあって、この一日が無意味でないことを知り、慰められます。夕には、私たちもやがて復活にあずかるという希望を覚えて感謝するのです。

 この祈りには、天使がマリヤに告げた「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」ということばとともに、エリサベツがマリヤに言った「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」ということばが入っています。「最も祝福されたひと」、このことばは私たちに何を教えているのでしょうか。

 一、神の選び

 第一に、それはマリヤが神の選びにあずかったことを教えています。

 マリヤがエリサベツの家を訪ねたのは、エリサベツが妊娠六ヶ月のときでした。子どもを持つことをあきらめていた年齢になってからの出産でしたから、エリサベツは身の回りの世話をする人が必要でした。そこでマリヤがエリサベツのところに来ました。マリヤはエリサベツのところに遊びに来たのではなく、そこで "maidservant" として働くために来たのです。下働きのはしためマリヤにとってエリサベツは、親戚とは言え、女主人にあたりますから、マリヤはエリサベツに「どうぞ、よろしく」と深々と頭を下げたことだろうと思います。ところが、うんと年上のエリサベツが年若いマリヤを、主人であるエリサベツがはしためである少女を「私の主の母」と呼んで、マリヤをほめたたえています。普通では考えられないことです。「主の母」と呼ばれたのはマリヤだけで、他の誰もいません。マリヤは女性にとって最高の栄誉をいただいたのです。まさにマリヤは、エリサベツが言ったように「あなたは女の中の祝福された方」、「いちばん祝福されたひと」となりました。

 そして、この祝福は神の選びによるものでした。マリヤは後で見るように素晴らしい信仰の持ち主でした。しかし、マリヤに与えられたこの祝福は、マリヤがその信仰の力でたぐり寄せたものではなく、神の選びから出発しています。マリヤ自身が「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」(46-48節)と言っているとおりです。「主が目を留めてくださった」、つまり、神の選びを感謝しています。

 「祝福」ということばは、人が求める幸いのすべてを言い表した言葉で、耳に心地の良いもの、誰にも好まれる言葉です。しかし、この言葉は、神が人にくださるものばかりでなく、人が神に与えるものでもあるのです。つまり、神が人を祝福する場合だけでなく、人が神を祝福する場合にも使われます。詩篇134篇には

さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。
聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。
天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。
とあります。「主をほめたたえよ」とあるのは文字通りには "bless the Lord" で「主を祝福せよ」なのです。このように人が「神を祝福する」とき、「天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように」とあるように、神もまた人を祝福してくださるのです。人が主の聖なるお名前を祝福するとき、主はそのお名前によって人を祝福してくださると聖書は教えています。祝福というのは神から人へ、そして人から神への双方向のものなのです。

 テモテ第一6:15に「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」とあります。神こそがすべての祝福のみなもとであり、最も祝福され、ほめたたえられるべきお方です。イエス・キリストもまた神の御子として、父なる神と同じ祝福をお受けになります。主イエスは十字架にかかられる最後の週に、エルサレムに入城なさいましたが、そのとき、人々は「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。地には平和。栄光は、いと高き所に。」(ルカ19:38)と賛美して、イエスを迎えました。この賛美は「祝福あれ」ということばから始まりますので、これは "Benedictus" と呼ばれ、初代教会の礼拝で歌われ、今に至るまで、主イエス・キリストへの賛美として歌い継がれています。

 厳密な意味では、神だけが、「祝福されたお方」("Blessed One")です。ところが、神は、人にその祝福を分け与えて、ご自分の祝福を分け与えた人を「祝福されたひと」("Blessed one")と呼んでくださるのです。マリヤは、この神の祝福を分け与えられた最初の人となりました。

 今、私は「最初の人」と言いましたが、それは、マリヤに続いて、神に祝福され、神を祝福する人たちがいるからです。もちろん、それは、救い主が何度も人となって世に来られ、その救い主を産み、育てる、第二、第三のマリヤが出るという意味ではありません。神の御子が人となられたのはただ一度限りのことであり、人としてのイエスはマリヤ以外の母を持つことはありません。神はマリヤの他誰も「主の母」と呼ばれ者を起こされることはありませんが、神は「主の子ども」や「神の民」と呼ばれる者を私たちの間から起こしてくださり、神の祝福にあずかる者にしてくださるのです。それは、主イエスの弟子たちのことです。

 主イエスは、ご自分の弟子たちに「幸いなるかな、心の貧しき者…幸いなるかな、悲しむ者…幸いなるかな、柔和なる者…幸いなるかな、義に飢え渇く者…幸いなるかな、憐れみある者…幸いなるかな、心の清き者…幸いなるかな、平和ならしむる者…幸いなるかな、義のために責められたる者…」と言われました。イエスが言われた「幸い」とは、「祝福された」という意味ですから、イエスは弟子たちに「あなたたちは祝福された人たちだ」と宣言してくださったのです。エリサベツが「あなたは祝福されています」と言い、マリヤが「どの時代の人々も、私を祝福するでしょう」と答えたことは、神の選びを受け、キリストに従う、ひとりびとりにもあてはまるのです。私たちは、神の前に出るたびに「あなたは祝福されています」との呼びかけを聞いているでしょうか。「私は祝福されています」と答えているでしょうか。アンゼラスの祈りで「あなたは女の中で祝福された方…」と祈る人たちは、イエス・キリストによる神の救いのみわざと共に、それによって与えられる神からの祝福を感じとっていることでしょう。クリスマスを待ち望むこの時、神の祝福を感じ取って一日を始め、その祝福を人々と分かち合うことができたらと思います。

 二、神への信仰

 マリヤに告げられた祝福、それは第二に神への信仰を教えます。祝福は神の選びから来ます。しかし、神の選びは、それを受け取る信仰によって、自分のものとなるのです。神が選んでくださっていても、人が神の選びを受け入れるのでなければ、その選びはその人のものとならないのです。

 たとえば、山田太郎という人に、普段は全く付き合いがなかったのですが、資産家の親戚がいたとします。その資産家は亡くなったとき、遠い親戚の人にもひとり百万ドルをあげようと、山田太郎の名を遺言に書きました。やがてその人が亡くなり、山田太郎さんに、「遺言に従って百万ドルの遺産を銀行に振り込むので、銀行の口座番号を知らせて欲しい」との通知が来ました。ところが、山田さんは、その通知について調べもせずに、これは何かの勧誘か詐欺ではないかと思い、その通知を信じなかったのです。そして、手続きをとらないままにしていました。やがて期限が来て、その百万ドルは別の人の手に渡ることになりました。山田さんは、選ばれていたのに、その選びを受け取るという選択をしなかったのです。

 イエス・キリストは、私たちに永遠の命を与えるという契約を立ててくださいました。聖書は「旧約」(Old Testament)と「新約」(New Testament)に分かれています。旧約の「約」も、新約の「約」も神と人との「契約」を表わし、しかも、その「契約」(Testament)という言葉には、遺言という意味があります。ふつう、契約というものは、契約を結ぶ両者がそれぞれに責任を果たしあわなければ成り立ちません。銀行からお金を借りるときは利子を払わなければなりませんし、保険の契約を結ぶときには、保険に入っている人はプレミアムを払い続けなければなりません。国と国との場合も同じで、相手国に車を輸出させてもらうかわりに、その国の農産物を輸入するなどといった取引きがなされます。契約はギブ・アンド・テイクの関係で成り立ちます。しかし、遺言は違います。これは一方的に恵みとして与えられるものです。遺産を受け取る人は、それを受け取る資格を得るために何をする必要もないし、何もすることができないのです。遺産を残す人がその人を相続人として選び、その遺書に名前を書いてくれてはじめて遺産を得ることができるのと同じです。

 救いは神の選びから出発します。しかし、神はごく少数の人しか選ばれれなかったのではありません。神はキリストにあって、あらゆる民族、あらゆる階層の中から数えきれない人々を選び、永遠の命と永遠の神の国を受け継ぐようにと、すべての人を招いていてくださっています。人間の遺言はごく限られた人に限定されますが、キリストの遺言は、すべての人に提供されているのです。

 ヘブル9:16-17にあるように、遺言は、それを書いた人が死ななければ効力を発揮しません。そのように、神が立ててくださった契約も、イエス・キリストが死なれることによって実現しました。キリストは、全人類の罪を背負って十字架の上で死なれ、遺言を有効なものとし、神との契約を成り立たせてくださったのです。そして、死から復活されたキリストは、今、私たちに、契約が実現した、その約束を受け取るようにと、呼びかけておられます。この通知が「福音」です。そして、人は、この福音を聞き、それを受け入れることによって、約束された救いを手にするのです。

 選びは神のみこころの中にあります。しかし、それはまったく人に知られないものではありません。使徒パウロはテサロニケのクリスチャンに「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています」(テサロニケ第一1:4)と言いました。選びは神の主権的な行為ですが、なお人間がそれを知ることができるというのです。大胆なことばです。パウロがこう言うことができたのには根拠がありました。パウロは続いてこう言っています。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。…あなたがも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならうものとなりました。」(テサロニケ第一1:5-6)テサロニケのクリスチャンは、福音を聞き、信じ、それに従うことによって、神に選ばれた者であることを言い表わしたのです。テサロニケ第一2:13には、こうも書かれています。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」神のことば、つまり、福音のメッセージに応答すること、それが信仰であり、私たちはそれによって神の選びに答え、その祝福を自らのものにするのです。

 エリサベツはマリヤを賞賛して言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」事実、マリヤは天使を通して告げられた神のことばを深く思い見、「おことばどおりこの身になりますように」と言って、神のことばを受け入れ、神の選びを受け入れたのです。私たちも、マリヤのように、また、テサロニケのクリスチャンのように神のことばを受け入れることによって、神の選びに応える幸いな人、祝福された人となりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、マリヤがあなたのことばを受け入れることによって、あなたの選びに応えたように、私たちも、あなたのことばを信じ受け入れる祝福されたひととしてください。私たちは今年、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」を年間聖句に選び、それを目標として歩んできました。マリヤがあなたのことばを心に宿すことによって、御子をその身に宿したように、私たちも、みことばを豊かに宿らせ、この身をもってキリストの栄光を表わす者となれますように。主イエス・キリストによって祈ります。

12/4/2011