聖霊によりて

ルカ1:34-38

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1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 一、聖霊と三位の神

 使徒信条は、父なる神、御子イエス、そして、聖霊への信仰を言い表しています。しかし、父、御子、聖霊を別々に扱ってはいません。父と御子と聖霊を、いつでも共に働くお方として描いています。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」という部分は、もとの言葉(ラテン語)では「我は…父なる神と…イエス・キリストを信ず」となっており、それに続いて「主は聖霊によりてやどり…」と書かれています。父とイエス・キリスト、また聖霊がひとつの文章の中で連続して語られています。「父のひとり子が聖霊によってやどった。」この短いステートメントの中に、父、御子、聖霊を信じる信仰が、はっきりと言い表されています。

 カトリックの祈りに、「お告げの祈り」というのがあります。このような祈りです。

主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神の御子を宿された。
〔アヴェ・マリアの祈り〕
わたしは主のはしため、
おことばどおりになりますように。
〔アヴェ・マリアの祈り〕
みことばは人となり、
わたしたちのうちに住まわれた。
〔アヴェ・マリアの祈り〕

 これはルカ1:38とヨハネ1:14からとられた祈りで、十字架や復活を覚えるのと同じように、イエスの受胎を覚えるものです。十字架と復活はイエスのご生涯のクライマックスですが、イエスの受胎は、私たちの救いにとって、十字架と復活に劣らず重要な出来事だからです。私たちは「父のひとり子が聖霊によってやどった」という厳かな事実の中に、父、御子、聖霊の神を見るのです。

 私は、多くの人が、「父なる神のことやイエス・キリストのことなら分かるが、聖霊のことはよく分からない」と言うのを聞いてきました。信仰を持ったばかりのころ、私もそうでした。皆さんはどうでしたか。

 ヨハネ15:26に「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます」とあるように、聖霊は自分を示すよりもキリストを示すお方です。また、聖霊は、教会とともに、またクリスチャンとともに働きます。使徒1:8に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」とあり、使徒5:32に「私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です」とあります。目に見えるのは、弟子たちの宣教だけです。しかし、教会の宣教の背後には聖霊がいて、聖霊の働きがあるのです。使徒9:31に「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」とある通りです。

 多くの人が「イエス・キリストのことが分かるようには、聖霊のことが分からない」というのは、もっともだと思います。しかし、聖霊の働きは、隠れてはいるようでも、聖書に明らかに示されています。聖書の学びを深めるにつれて、聖霊の働きが分かるようになり、信仰が成長していくにつれて、聖霊の働きを体験できるようになります。

 二、聖霊とイエス

 聖書で最初に聖霊が出てくるのはどこでしょう。聖書の一番はじめ、創世記1:1−2ですね。「はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」とあって、「神の霊」、つまり、聖霊が世界の創造にかかわっていたことが書かれています。「水の面を動いていた」とあるところは、英語で "hovering over the face of the waters" と訳されます。"hover" というのは、ヘリコプターが空中で静止している状態のことを指します。古代の人はヘリコプターを知りませんでしたから、この言葉は、鳥が翼を広げて舞いかける様子を表すのに使いました。聖霊はしばしば鳩のシンボルで表されますが、大きな鳩が翼を広げ、水で覆われた地球に風を送っているようなシーンを思い描くことができます。また、親鳥が卵を抱いてあたためたり、雛鳥を翼の下にかくまうように、聖霊が原始の地球を抱きかかえるようにしている姿を思い描くこともできます。

 創世記の2章に進むと、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2:7)とあります。この「いのちの息」という言葉も、聖霊を連想させます。聖霊は、世界の創造者、また、いのちの与え手です。ニカイア信条が言うように、主イエスは「神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体、すべてを造られた」お方です。主イエスは父と聖霊と共にはじめから存在しているお方です。聖霊が御子を造り、御子にいのちを与えたわけではありません。しかし、御子が人となったときには、創造の力を持つ聖霊が、母の胎内でそのからだを形づくり、その誕生のときにいのちの息をお与えになったのです。

 父と御子と聖霊は、相等しいお方ですが、三位のうちには、父が御子を生み、御子が聖霊を遣わすという秩序があります。それで、神学では父を第一位格、御子を第二位格、聖霊を第三位格と呼びます。ところが、受胎、誕生、また、その後の生涯においては、第二位格である御子が第三位格である聖霊に主導権を譲っています。イエスは聖霊によって生まれ、聖霊の導きに従って生涯を送ったのです。

 イエスはバプテスマを受けたのち、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)という天からの声を聞きました。それは、イエスが神の御子であることのしるしでした。ところが、「それからすぐに御霊はイエスを荒野に追いやられた」(マルコ1:12)と書かれています。「導いた」とか「連れて行った」という優しい言葉でなく、「追いやる」(“drive”)という、乱暴な言葉が使われています。しかし、このことは、聖霊がイエス以下のものではなく、神の御子に対してさえ主権を持っておられるお方であることを示しているのです。マルコ1:11-12は、イエスが神であることと、聖霊が神であることの両方を示している箇所です。

 父なる神はイエスに聖霊を注ぎ、聖霊で満たしました。イエスの行った奇蹟は聖霊の力によるものでした。イエスは「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)と言って、ご自分のうちに働く聖霊を証ししています。使徒ペテロも「神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました」(使徒10:38)と言って、イエスのうちに働いた聖霊について語っています。

 イエスは神のことばを、たんなる演説や解説ではなく、神が直接語るように語りました。イエスに反対した人たちでさえ、イエスの語ることには反論することができませんでした。現代でも、他の宗教を持っている人や無宗教の人であっても、イエスのことばの素晴らしさを賞賛しない人はありません。聖書は、ヨハネ3:34で「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである」と言って、イエスの教えもまた聖霊によるものだと述べています。

 このように、聖霊はイエスと共にいて、イエスと共に働いたお方ですから、イエス・キリストをさらに良く知っていくなら、イエスの生涯と働きの中にいる聖霊が分かってくることでしょう。聖霊はイエスを証ししますが、イエスの生涯とその働きもまた、聖霊を証ししているからです。そうすると、「イエス・キリストのことなら分かるが、聖霊のことは…」とは言えなくなってしまいます。いかがでしょうか。少しは聖霊のことが分かるようになったでしょうか。

 三、聖霊と私たち

 では、聖霊がイエスの生涯と働きに深くかかわっていることは、私たちにどんな意味があるのでしょうか。イエスは神の御子で救い主だから聖霊とかかわりを持ったが、私たちはそうではないのでしょうか。いいえ、神は私たちにも聖霊をくださるのです。イエスご自身がこう言っています。「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:13)イエスは神のくださる賜物で最高のものは聖霊だと言っています。私たちは神にさまざまな必要を求めますが、聖霊は、私たちが必要とするあらゆるものの源だからです。神は、私たちにあの祝福、この賜物を小出しにして与えてくださるのではなく、すべての祝福と賜物の与え主である聖霊をお与えくださるのです。御子を聖霊で満たした父は、御子イエスを信じ、主キリストに従う者にも同じ聖霊を与えてくださいます。

 弟子たちが聖霊のバプテスマを受け、聖霊に満たされたのは、ペンテコステの時でしたが、イエスはそれ以前にも弟子たちに、悪霊を追い出し、病気を癒やす聖霊の力を分け与えていました。弟子たちはペンテコステ以前に、すでに聖霊を体験していたのです。ペンテコステには、あたりを響かせるほどの風の音がしたり、炎の舌が弟子たちの頭の上に留まったりと、不思議な出来事がさまざまに起こりました。人々はそのことに驚きましたが、弟子たちにはさして驚いた様子はありません。ペテロは聖書を引用して、ペンテコステの出来事を説明して、こう言いました。「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(使徒2:33)とても冷静です。弟子たちはすでに聖霊の力を体験し、聖霊の約束についてしっかりと教えられていました。聖霊は約束されたお方であって、ペンテコステはその約束が果たされた日で、弟子たちにとって聖霊を受けるのは当然のことだったのです。

 聖書は、いたるところで、聖霊のことを書いています。新約聖書で「聖霊」や「御霊」という言葉がないのは「ピレモンへの手紙」「ヨハネの手紙第二」「ヨハネの手紙第三」の三つの短い手紙だけです。新約の27の書物のうち24のすべてで「聖霊」や「御霊」という言葉が繰り返し使われ、聖霊のことが教えられています。クリスチャンにとって聖霊は特別なものではなく、聖霊を知り、聖霊の働きを受けるのは当然のことなのです。なぜなら、すべてのクリスチャンは、聖霊によって「イエスは主です」と告白し、聖霊によって新しく生まれ、聖霊によって神の愛を注がれ、聖霊によって神の子どもであることの保証と確信を持与えられているからです。

 クリスチャンが「主は聖霊によりてやどり…」と確信をもって告白することができたのは、自分たちもまた、聖霊によって神の子どもとして生まれたことを知り、体験していたからです。人間には自分で自分を造りかえる力はありません。しかし、世界を造った聖霊は、悔い改めて、イエスを信じる者を、神の子どもに造りかえる力を持っています。天使は母マリアに「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは何もありません」と言いました。クリスチャンもまた、母マリアと同じように、「聖霊は神です。聖霊にとって不可能なことは何もありません」と信じて、聖霊に自らを委ねていったのです。御子イエスに働いた聖霊は、神の子どもとされた者たちに宿ってくださいます。私たちがイエスの弟子となって従おうとするなら、聖霊は、イエスに与えたのと同じ知恵や力の一切を分け与えてくださるのです。

 私たちがなすべきことは、求める者に聖霊を与えてくださる父なる神の愛のみこころを信じて求めることです。そのとき、イエスに働いた聖霊が私たちにも働くのです。

 (祈り)

 父なる神さま。あなたは、御子に惜しみなく聖霊を注がれたばかりか、御子を信じ、求める者たちに聖霊を与えると約束してくださいました。イエスに働いたのと同じ聖霊が私たちのうちにも働いてくださることを信じます。私たちに、さらに聖霊を求め、聖霊を知る思いをお与えください。御子イエスのお名前で祈ります。

【参考】「聖霊」あるいは「御霊」という言葉が記されている新約の書物

聖霊御霊 聖霊御霊 聖霊御霊
マタイエペソヘブル
マルコピリピペテロ第一
ルカコロサイペテロ第二
ヨハネテサロニケ第一ヤコブ
使徒テサロニケ第二ヨハネ第一
ローマテモテ第一ヨハネ第二
コリント第一テモテ第二ヨハネ第三
コリント第二テトスユダ
ガラテヤピレモン黙示録

2/17/2019