ギデオン―信仰の勇者(9)

士師記7:1-7

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7:1 さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。
7:2 主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。
7:3 それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。
7:4 主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。
7:5 そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。
7:6 そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。
7:7 主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。

 一、日本のクリスチャン人口

 きょうは、聖書に入るまえに、日本の宗教人口についての統計をお見せしましょう。文部科学省文化庁がまとめ、「宗教年鑑」として発行しているもので、2016年の統計です。

 日本では宗教は、「神道」、「仏教」、「キリスト教」と、「諸宗教」の四つに分類しています。それぞれの信徒数は、神道が84,739,699人、仏教が 87,702,069人で、ほぼ同じです。「諸宗教」が7,910,440人、キリスト教が1,914,196人です。合計すると、188,892,502人になります。ところが、この年の日本の人口は127,094,745人でしたから、信徒数のほうが人口よりも6千万人も多いのです。これはどうしたことでしょうか。それはひとりがふたつ以上の宗教の信徒に数えられているからです。日本では無宗教の人まで、知らない間にどこかの神社の氏子や寺の檀家になっていて、信徒として数えられています。ですから、どの宗教に何人という統計は、日本の場合、あまり正確ではないと思います。

 「キリスト教」に数えられている人たちが 1,914,196人となっていますが、これも、実数はその半分でしょう。多くの調査では、クリスチャン人口は100万人には満たず、人口の1%以下だと言われています。わたしが調べたものでは、日本のクリスチャンは、ローマ・カトリック教会441,107人で全体の46%。日本キリスト教団が117,773人、聖公会が49,228人、バプテストが33,984人などの順で合計960,253人とありました。

 日本のクリスチャンはたとえ数が少なくても、社会の中でとても良い働きをし、よく教会を支えています。孤児たちを守り、女性を保護し、ホームレスの人々などを支援し、病院を建ててきました。日本でホスピスを始めたのはクリスチャンでした。全国にはクリスチャンの学校がいたるところにあり、75万人の学生がなんらかの形で聖書に触れ、クリスチャンと出会っているのです。なのに、なぜ日本ではクリスチャンが少ないのか。多くの人がさまざまな意見を述べていますが、まだ決定的な答えはありません。わたしたちは、そうした議論に加わるよりも、「ひとりも滅びることなく、すべての人が救われる」ことを望んでおられる神(第一テモテ2:4、第二ペテロ3:9)の思いを自分の思いとしたいと思います。パウロが「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは彼らが救われることである」(ローマ10:1)と言ったように、人々の救いのために、聖書が教えるたましいの救いを得る人が多くなるように、熱心に祈りたいと思います。

 二、数と質

 わたしたちはクリスチャンが増えることを願っていますが、数がすべてだとは思っていません。質も大事です。しかし、質というものは、ある程度の数がある中で切磋琢磨され、向上していくものだと思います。教会に集う人が少ないうえに、高齢化し、新しい人や若い人が入ってこなくなると、教会の成長は止まってしまいます。教会員同士は、親密になり、居心地のよい場所を作ることができるかもしれませんが、そこでは、新しいものを学び、それを取り入れ、互いに成長していくことがなくなってしまうのです。もし日本人クリスチャンの数が少ないのなら、それぞれの教会だけでなく、日本人クリスチャンがいっしょに、もっと大勢で集まれば良いと思います。そうすれば、まわりの人々に、もっと効果的に教会の存在を知らせることができると思います。互いに交流を持てば、互いから学ぶことができ、お互いの向上を目指すことができます。

 英語に“Big fish in a small pond”という言葉があります。「小さな世界で威張っている人」という意味で、「井の中の蛙」の英語訳として使われています。どの分野でもそうですが、極端に数が少ないところにいると、もっと優れた人と出会うことがなく、自分を成長させることができなくなってしまいます。アメリカにいる私たちは、ある意味で、広い世界にやってきたのですから、むしろ“Small fish in a big pond”となって、視野を広げ、数多くのクリスチャンの中で、学び、訓練を受け、成長を目指したいと思います。

 教会はエルサレムに集まった百二十人(使徒1:15)からはじまりました。ペンテコステの日、教会は百二十人から一気に三千人になりました(使徒2:42)。その三千人に「男だけで五千人」(使徒4:4)が加わっています。聖書は、「主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた」(使徒5:14)、「弟子の数がふえてくるにつれて」(使徒6:1)「弟子の数が、非常にふえていき」(使徒6:7)、「こうして教会は、…次第に信徒の数を増して行った」(使徒9:31)と、クリスチャンの増加をしるしています。

 じつは、使徒6章や9章で使われている「数が増える」という言葉は、原語で πληθύνω (plēthunō) と言い、「増える」「数が増す」「何倍にもなる」という意味があり、英語では multiply と訳されます。multiply には「掛ける」という意味があります。教会は、5 + 5 = 10 という「足し算」ではなく、5 x 5 = 25 という「掛け算」のようにして増えていったのです。

 以前紹介したダラスの The Village Church は、このようなミッションステートメントを持っています。

“We exist to bring glory to God by making disciples through gospel-centered worship, community, service and multiplication.”(わたしたちは、福音が中心の礼拝、共同体、奉仕と増加によって弟子をつくることによって神の栄光を表わすために、存在している。)
マタイ28:19で主イエスが「すべての国民を弟子とせよ」と命じられたように、この教会では「弟子訓練」を教会の中心に据えています。礼拝は弟子訓練の原動力であり(Worship is the fuel for discipleship)、共同体は弟子訓練の場であり(Community is the context for discipleship)、奉仕は弟子訓練から溢れ出たものであり(Service is the overflow of discipleship)、増加は弟子訓練の結果である(Multiplication is the result of discipleship)と理解されています。

 この教会は Southern Baptist の教会として1869年 13家族によってはじまり、1882年に Lewisville に移り、First Baptist Church of Lewisville になりました。この Lewisville 教会が1962年に Lakeland 教会を生み、Lakeland 教会が、1978年に Highland Village First Baptist 教会を生み、この Highland Village 教会が 2002年に The Village Church となりました。そして The Village Church は、2005年に Providence Church 、2006年に CityView Church を生み、2007年に Denton、2009年に Flower Mound と Dallas Northway キャンパスができました。2011年には Coppell で、2013年には Fort Worth で、2014年には Plano で教会が始まっています。数十名からはじまった教会が、今、6つのキャンパスを持つ教会へと、文字通り“multiply”しています。確かに、multiplication は教会が生きていることのしるしだと思います。

 三、ギデオンの三百人

 わたしたちも、多くの人に教会に来てもらいたいと願っています。ただ教会に来るだけでなく、来て、信仰を持ち、バプテスマを受けてクリスチャンになるよう祈っています。そして、バプテスマを受け、クリスチャンとなった者が、もうひとりのクリスチャンを生み出すことのできるキリストの弟子へと成長することを目指して励んでいます。初代教会においてクリスチャンの数も、教会の数も「倍」から「倍」へと「掛け算」のように増えていったのは、たんなる社会現象ではありませんでした。それは、使徒9:31に、「主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」とあるように、神への敬虔さが教会の中に育てられ、ひとりひとりが聖霊の生命に生きていたからです。現代も、「主をおそれ聖霊にはげまされ」るのでなければ、クリスチャンが増え、教会が増えることはないでしょう。「増加は弟子訓練の結果」です。これを忘れて「数」に頼るようになったら、教会は霊的な「掛け算」の世界から、「引き算」の世界へと転落してしまうことでしょう。

 今朝のギデオンの物語は、そのことをわたしたちに教えてくれます。ギデオンは、ミデアンと戦うために、最初三万二千人の兵士を得ました。ところが、神は、ギデオンに「あなたと共におる民はあまりに多い」と言われました。戦争には、兵士が多いほうが有利なのは分かりきったことなのに、なぜ、神はそう言われたのでしょうか。それは、人々が神に頼るよりも、数に頼ったからです。圧倒的な数でミデアンに勝ったなら、人々は「わたしは自身の手で自分を救ったのだ」と言って、自分を誇り、神への信頼を忘れるだろうことを神はご存知だったからです。

 それで、ギデオンは、「だれでも恐れおののく者は帰れ」と言って二万二千人の人を帰らせました。残りは一万です。ところが神は言われました。「民はまだ多い。」そして、神は、ギデオンと共にミデアンと戦う者が誰かを示すと言われました。けれども、神はどのようにして、そのことを示されるのでしょうか。それは、人々が水を飲む、飲み方によってでした。ギデオンは、一万人を連れて水ぎわに降りていき、兵士たちに水を飲むように言いました。そのとき、大勢の人たちは、水際に這いつくばって、口を水につけて、まるで動物のようにして水を飲みました。しかし、それは兵士としてまったくふさわしくないものでした。這いつくばって水を飲んでいたのでは、敵に襲われたときひとたまりもありません。そんなところに矢を打ち込まれたら、身をかわして防ぐこともできません。

 しかし、兵士として訓練された人たちは、用心深く手で水をすくって飲みました。おそらく、片手で水をすくい、もう片手は剣や槍に手をかけていただろうと思います。神は、這いつくばって水を飲んだ者を家に帰らせるようギデオンに命じました。ギデオンがそのようにして人々を家に帰らせ、残った人を数えると、わずか三百人しかありません。最初の三万二千人の1パーセント以下になってしまったのです。こんな数でミデアンを打ち負かすことができるでしょうか。人間的には不可能です。しかし、神が共におられるなら、どんなことでも可能になります。ギデオンは「数」ではなく「神」に信頼して、ミデアンと戦い、そして勝利しました。詩篇33:16に「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない」とある通りです。ギデオンは、救いは神にあるということを信じ、たった三百人で、敵と戦ったのです。

 日本のクリスチャンは人口の1パーセント以下かもしれません。しかし、神が共に戦ってくださるなら、勝利があり、1パーセントから5パーセントへ、5パーセントから10パーセントへと増えていくことは可能なのです。神が求められるのは、神が共に戦ってくださることを信じる信仰、「わたしもギデオンの三百人になる」という決意、また、主の戦いのために自らを整える訓練なのです。この信仰の訓練を進んで受けましょう。そして、「主は、救われる者を日々仲間に加えて下さった」(使徒2:47)との言葉が、今の時代に、ここでも成就していくのを、見たいと思います。そのために、教会が確かな目標を立て、祈り、励むことができたら、神は、わたしたちの力以上の実りを与えてくださるでしょう。そのことを信じて進みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは小さな群れです。ですから「数」に頼って自らを誇るようなことはしませんが、「少数だからできないのだ」という不信仰に陥っているかもしれません。わたしたちから、そうした不信仰を取り除いてください。そして、あなたを信じる者が増し加えられることを願い、そのために熱心に祈り、進んで働く者としてください。主イエスの御名で祈ります。

7/8/2018