ヨシュア―信仰の勇者(7)

ヨシュア記6:1-21

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6:1 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。
6:2 主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。
6:3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
6:4 七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。
6:5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」
6:6 そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」
6:7 ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」
6:8 ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。
6:9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。
6:10 ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」
6:11 こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。
6:12 翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。
6:13 七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。
6:14 彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。
6:15 七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。
6:16 その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。
6:17 この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。
6:18 ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。
6:19 ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。」
6:20 そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。
6:21 彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。

 この夏の礼拝ではノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセを「信仰の勇者」としてとりあげて来ました。これらの人々の中には、おとなしすぎたり、多くの問題を抱えていたりして、「勇者」と呼ぶのをためらうような人がいたかもしれません。しかし、ヨシュアは、誰もが「勇者」と呼ぶことのできる人でした。ヨシュアは、勇敢な戦士で、エジプトを脱出したばかりのイスラエルが、アマレク人に襲われた時、アマレク人と戦って、勝利をおさめています。また、カナンの地を偵察に行った人々の大多数が「カナンの土地には強い民族がいて、そこに行ったら、私たちは、たちまち彼らの食い物になってしまう」と言った時も、ヨシュアはカレブとともに「神が共におられるから、われわれはカナンの土地を征服することができる」と言って退きませんでした。荒野の旅で、イスラエルの人々が神に不平を鳴らした時も、モーセとともに神の側に立ちました。それで、ヨシュアはモーセの後継者に選ばれ、イスラエルの民をカナンの地に導き入れ、イスラエルに約束の地を継がせました。ヨシュアは、人々の前で「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)と明言して、その生涯の終わりまで主に従い通しました。

 ヨシュアが偉大なリーダであり、信仰の勇者であることは、さまざまな箇所に示されていますが、今朝は、ヨシュアが、どのような信仰の勇者であったかを、エリコの町を陥落した時のことから学びましょう。

 一、ことばと行い

 第一に、ヨシュアは、自分の信じることをはっきりと口にし、そして、口にしたことを実行した人でした。

 かって、ヨシュアは、カナンへの偵察隊の一員でした。十二人のうち十人までが不信仰で否定的なことを言いましたが、ヨシュアとカレブは、「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。…あの地には、乳と蜜とが流れている。…その地の人々を恐れてはならない。…彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。…」(民数記14:7-9)と言いました。信仰の勇者たちは、物事の否定的な面だけでなく、肯定的、積極的な面を見、神の約束や祝福を見ることができる人々でしたが、ヨシュアもカナンの土地の素晴らしさと、神の約束をしっかりと見、それを信じていました。しかも、どんなに反対があっても、自分の信じるところをはっきりと表明する勇気を持っていました。

 ヨシュアとカレブは、イスラエルの人々を説得しようとしましたが、人々は、ヨシュアとカレブを石打ちにしようとし、この時の不従順のために、約束の地に入るのに四十年も待たなければなりませんでした。今朝の聖書の箇所は、それから四十年後のことを描いています。ここでヨシュアはエリコの町を目の前にしています。古代のエリコの町は、高さ10メートルの城壁で守られていました。しかもそれは二重になっていて、内側は幅4メートル、外側が幅2メートルもあったのです。しかし、ヨシュアは目の前に立ちはだかる、この堅固な城壁を目の当たりにしても、かって語ったことばを撤回してはいません。ヨシュアは、恐れることなくエリコの町に立ち向かっています。ある種の人たちは、とかく耳障りの良いことは言いますが、自分自身は少しも、それを信じてはいないし、実行もしないということがあります。都合が悪くなると、以前話したことを、いろんな言い訳をつけて翻したりします。しかし、ヨシュアはそのようなリーダではありませんでした。彼は、四十年前に語ったことばどおりに、エリコの町の守りはすでに取り除かれている、その城壁は崩れると信じて行動しています。

 私たちの心とことばと行いは、ほんとうは一つのものでなければならないのですが、かならずしも、いつも一致しているとはかぎりません。信じていても、そのことを人を恐れて言い表わさなかったり、自分が口で言っていることを少しも行っていない場合もあります。その一番悪い例が、律法学者、パリサイ人と呼ばれる人々でした。イエスは「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:3)と言っています。ヤコブは、「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)と言って、信仰と行いは切っても切り離せないものであると教えています。また、ペテロは「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」(ペテロ第一1:15)と言って、「きよめ」は行いに表れるべきものだと教えています。「きよめは語るものではなく、見せるものである」と良く言われますが、その通りですね。ペテロは「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」(ペテロ第一2:12)とも言っています。

 私たちは、すべてのことを、語るとおりに行うことができるわけではありません。どんなにしても、ことばと行いにギャップは残るでしょう。しかし、それをごまかさないで、ギャップを埋めていく努力を、神は喜ばれるのです。神の助けをいただいて、信じることが語ることばとなり、語ることばが行いとなるよう、励んでいきましょう。

 二、みことばへの服従

 第二に、ヨシュアは、徹底して神のことばに服従した人でした。

 ヨシュアがエリコの町を攻撃するため兵士たちに命じたことは、祭司たちが担ぐ契約の箱の前後をはさんで町の周りを、黙って行進するというものでした。祭司たちが角笛を吹き鳴らすだけで、何の物音も立てないでイスラエルの兵士たちがエリコの町のまわりを行進していくのを見たエリコの町の人々は、どう思ったでしょうね。何事がおこるのだろうかと、最初は不安になり、恐れたことでしょうが、何事も起こらないことを知ると、やがて、イスラエルの人々を馬鹿にしはじめたかもしれません。また、兵士たちはどう思ったでしょうか。これが普通の軍隊なら、こんな馬鹿げたことをしていても何もならないのではないかという疑問が起こり、兵士の士気が損われ、軍隊の統率がとれなくなってしまったかもしれません。そしてこのような戦略は指揮官の権威を損なうものとなったでしょう。しかし、ヨシュアはこの戦略を押し通しました。なぜなら、これは、主がヨシュアに与えられた戦略だったからです。ヨシュアは、それが主が語られたこと、主のことばであったから、どんなに非常識に見えても、それに服従したのです。

 イスラエルの民が、ヨルダン川を渡って約束の地に入った時、祭司たちによって担がれた契約の箱がまず、水の中に入りました。すると、ヨルダン川の水が上流でせき止められ、イスラエルの民は干上がった川を渡ってカナンの地に入ることができました。それは、イスラエルがカナンの地に入ってきたのは、彼らの意図によってでも、彼らの力によってでもなく、神の導きにより、神の力によってであったことを、彼らの心に刻みつける出来事でした。それと同じように、エリコの町のまわりを行進する契約の箱は、カナンの土地がイスラエルの力ではなく、神の力によって、彼らのものになるということを示すものだったのです。イスラエルの兵士たちは、契約の箱に従って、城壁の周りをまわり続けるうちに、イスラエルを導いてくださる神への信仰を確かめていったのです。

 七日目に、町を七周し、兵士たちがときの声をあげると、あの堅固な城壁が崩れ、ヨシュアはやすやすとその町を手に入れることができました。ヨシュアは神のことばを信じ、それに従い、そして、勝利を得ました。神のことばは、たんに、慰めのことば、励ましのことば、また知恵のことばという以上のものです。それは、信じる者、それに従うもの、また、実行するものに結果を与えるものです。神は言われます。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10-11)

 ヨシュアはことばと行いが一致していた人であり、また、神のことばに服従した人でしたが、このふたつは、別々のものではありません。神のことばに服従する人が、ことばと行いに矛盾のない人になっていくのです。神のことばを口にしてはいても、実際にそれを守り行うのでなければ、結果を見ることはできません。信仰の根を張るとは、みことばを実行することであり、そしてはじめて、私たちは実を結ぶものとなることができるのです。ヨシュアが神のことばが現実の中に働くのを目の当たりにしたように、私たちも、みことばに服従し、それを実行することによって、人生に神の大きな祝福の実を見る者となろうではありませんか。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたの真実なことばによって、私たちの心を真実なものとし、心と、ことばと、行いとがひとつとなるよう、助けてください。「みことばを実行する人になりなさい。」との教えを常に心にとめて歩む者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/24/2003