人生は八十五歳から

ヨシュア記14:6-14

14:6 ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。
14:7 主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。
14:8 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。
14:9 そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。
14:10 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
14:11 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
14:12 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」
14:13 それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
14:14 それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。

 一、聖書と老年

 東京都中央区に聖路加国際病院があります。これは、医師で宣教師であったルドルフ・トイスラーによって1902年に開設されたもので、病院の本館が1933年に完成した時、ドクター・トイスラーは、この病院のあるべき姿を次のように説きました。 "This hospital is a living organism designed to demonstrate in convincing terms the transmuting power of Christian love when applied in relief of human suffering." (この病院は、クリスチャンの愛が人の苦しみを救うために働くとき、人を変える力となるということを、だれもが確信するようになるための、生きた器官である。)この創立の精神は今も引き継がれ、日本でもっとも進んだ病院として脚光をあびています。この病院に「聖ルカ病院」という名前がついているのは、なぜだかお分かりですね。「ルカの福音書」を書いたルカは、医者であったので、その名前を取ったのです。

 聖路加国際病院をさらに有名にしたのは、日野原重明名誉院長です。日野原先生は1911年生まれですから、現在91歳になりますが、今も、現役の医師として活躍しています。数多くの著書があり、最近出版された『生きかた上手』という本がベストセラーになっています。日野原先生は、人は年を老いても、いや年齢を重ねることによって、より人間として成長できるのだと言い、「人生は75歳から」というのを持論にしています。

 今朝は「敬老サンデー」ですので、私も「人生は75歳から」という題でお話しようと思い、聖書を調べてみたのですが、聖書には、75歳どころか、80歳、90歳、100歳になっても、神様に豊かに用いられている人々が大勢いることが分かりました。信仰の父と言われるアブラハムは75歳になってから、見ず知らずの新しい土地に出かけ、100歳になって約束の子、イサクをもうけています。モーセは80歳になってから、エジプトで奴隷となっていたユダヤの人々を救うために立ち上がり、120歳で亡くなるまで、ユダヤの人々を導き続けました。このモーセの後継者となったのが、「ヨシュア記」の主人公ヨシュアです。ヨシュア記は、エジプトを出てきたユダヤの人々が約束の地に定着するまでのおよそ15年間の出来事を描いており、ヨシュア記の最後には、ヨシュアが110歳で亡くなったということが書かれていますから、ヨシュアがモーセの後継者となったのは、およそ95歳ぐらいということになります。ヨシュアは90歳を過ぎて、なお、戦場で指揮をとっているのです。

 ヨシュアの次に年長であったのがカレブでした。彼は、ヨシュアに「ヘブロンの山地を相続地として与えてください」と願い出ています。ユダヤの各部族は、征服した土地をそれぞれに相続したのですが、ヘブロンの山地には、アナク人という強い民族がいて、イスラエルの定着をはばんでいたので、誰も、そこには行きたがらなかったのです。ほとんどの部族は、取りやいすいところだけに住み、神の約束の土地を全部占領しなかったのです。しかし、カレブはこう言って、ヘブロンの山地を願い出ています。「今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」(10-12節)カレブは老年になっても、気力も、体力も衰えることはありませんでした。そして、誰もが嫌って行こうとしなかったヘブロン山の占領に挑戦しています。彼はどんな若者よりも勇敢で、意欲的で、困難に立ち向かうチャレンジ精神を持っていました。この時カレブは85歳でした。それで、私は、今朝のお話の題を「人生は75歳から」ではなく、「人生は85歳から」としました。

 神は、私たちが何歳になっても、私たちに変わらない愛を注いでくださいます。神はイザヤ46:4で「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と言ってくださっています。神は、若い人だけに愛と力を与えてくださるだけでなく、年老いた者にも愛と力を与えてくださるのです。

 食べ物には「賞味期限」というのがあって、食品のパッケージには「何年何月何日までにお召し上がりください」と書いてあります。ある人がそのことから、「私もそろそろ賞味期限が近づいてきました」と言っているのを聞きました。とてもユーモアにあふれた表現だと思いますが、実際には、神が私たちをお造りくださった時、「賞味期限」をおつけにはなりませんでした。私たちの人生には賞味期限はなく、年齢を重ねれば重ねるほど味わい深くなります。御霊の実をさらに豊かに結び、多くの人にそれらを味わっていただけるようになるのです。食品は、賞味期限が過ぎると処分されてしまのでしょうが、私たちの人生は神によって最後まで守られ、導かれ、そして用いられるのです。ですから、私たちは、最後まで、自分の人生を投げ出してはいけないのです。最近は、20代、30代の人が「もう、年だから」というそうです。心が老け込んでしまっているんですね。若いのに後ろ向きにしか生きられないのは残念なことです。かっては「成人病」と呼ばれ、ある程度の年齢になってから現われた病気が、今、若い人の間で増えてるのは、精神的な老け込みと関係があるのかもしれません。カレブに見習い、私たちも、「人生は85歳から」という気持ちで、神のために励みましょう。

 二、さいわいな老年

 しかし、カレブがこのように元気でいられた秘訣はどこにあったのでしょうか。それは、8節の「私は私の神、主に従い通しました。」という言葉の中に見つけることができます。カレブは6節で「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。」と話しを切り出していますが、このことは、民数記の13章と14章に詳しく書かれています。モーセは、エジプトから導いてきたユダヤの人々が、約束の地にあと少しという、カデシュ・バルネアまで来た時、ユダヤの十二部族からひとりづつ、かしらたちを選び、偵察隊をつくって、これから入ろうとしている土地を探らせました。その中に、ヨシュアとカレブのふたりもいました。そこは、豊かな土地で、さまざまな果物が豊かに実っていました。その地のぶどうのひとふさを切り取ったのですが、それはひとりでは持ちきれないほど大きなものでした。それで、それを棒につけ、ふたりでかついで持って帰ってきました。偵察隊は、その地の果物を人々に見せ、モーセにこう報告しました。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」ここまでは良かったのですが、その地に住む人々を恐れた彼らは、「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」と言いました。(民数記13:27-29)ヨシュアとカレブ以外のユダヤのかしらたちは、「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(民数記13:32-33)と、神の約束の地を悪くいいふらしたのです。これを聞いた人々は、恐れをなし、「そんなに強い民が住んでいるところに入っていけば、たちまち彼らの餌食になってしまう」と騒ぎはじめたのです。カレブは立ち上がって「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と人々を説得しましたが、人々はカレブの言葉に耳を貸しませんでした。

 このため、ユダヤの人々は神の怒りを買い、その時大人だった人々は、約束の地に入れないで、荒野で死に絶えてしまいました。「エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」(民数記14:22-23)と神が言われたとおりでした。しかし、神はカレブについて、こう言われました。「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。」(民数記14:24)他の十人も、カレブも同じものを見たはずです。しかし、カレブは、正しい心で、つまり、神と神のことばを信じる心でものごとを見、他の十人は、不信仰の心で見たのです。同じ、困難でも、信仰の心で見れば「神の助けによって乗り越えるべきもの」として受け止めることができますが、不信仰の心で見れば「それに食い尽くされ飲み込まれてしまうもの」としか見えません。信仰の目で見れば、そこから希望がわいてきますが、不信仰の目でみれば恐れにとらわれてしまいます。恐れにとらわれてしまえば、ますますものごとを正しく見ることができなくなってしまうのです。確かに、私たちをとりまく環境は、問題だらけかもしれません。しかし、その問題を乗り越えていくためには、問題を信仰の心でとらえ、信仰の目で見ていかなければならないのです。私たちもカレブのようでありたく思います。

 カレブは、ヨシュア記14:7-8でこう言っています。「主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。」カレブカレブは、他の10人のかしらたちが、どんなに約束の地を悪く言っても、それに同調しませんでした。その時のカレブは40歳でしたが、それから45年間、85歳に至るまで、カレブは、「神に従い通し」ました。45年前、人々が「アナク人」を恐れた時、カレブは決してひるまず、恐れませんでした。45年たった今も、彼は、その時とおなじ信仰と勇気をもってアナク人のいるヘブロン山に向かっていきます。彼の信仰は45年間、衰えず、変わらず、彼は常に神に信頼し続けてきました。

 神はカレブに「あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。」(9節)と約束されましたが、カレブはこの神の約束を信じ通しました。カレブは言っています。「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」(12節)「主が約束されたように」とは、素晴らしい言葉ですね。カレブは、主の約束はかならず成る、老年になっても神の約束の成就を見ることができる、いや、神の約束は人生の最後にみごと成就するということを信じたのです。

 カレブは、神と神のことばを、一貫して信じ続けました。若い時は、燃えていた、信仰に熱心だったけれど、年齢ととも信仰も衰えたというのでなく、老年になるまで、神に従い通しました。モーセの後継者となり、人々のリーダとなったヨシュアにくらべて、カレブの人生は、目立たないものであったかもしれませんが、彼は、自分の責任に忠実にであり続けました。この信仰がカレブを健やかにし、強くし、さいわいにしたのです。私たちも、「私は私の神、主に従い通しました。」という信仰によってさいわいな老年を迎え、85歳にしてなお、神からのチャレンジに向かっていく、そんな祝福された人生を貫きとおしたいものです。

 (祈り)

 私たちの父なる神さま、今年のこのようにして、敬老サンデーを迎えることができ、多くの方々と共に、あなたが、おひとりびとりの人生を祝福してくださったことを喜びあうことができ、ありがとうございました。あなたは、すべての人に使命を与えていてくださいます。老年になっても、なお、あなたはなすべきことを与えていてくださいます。おひとりびとりが、生けるまことの神であるあなたと、あなたの遣わしてくださった主イエスを堅く信じ、生きる日の限り信じつづけ、あなたの約束の成就を見ることができますように。あなたの限りない祝福を信じ、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/20/2002