神の愛の物語

ヨナ4:5-11

4:5 ヨナは町から出て、町の東の方にすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。
4:6 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
4:7 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。
4:8 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
4:9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
4:10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
4:11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

 今朝の礼拝の最初に、子どもたちのために話しました「お魚に食べられた人―ヨナのおはなし」を、皆さんも楽しんでいただけましたか。旧約の、しかも、預言書というと、難しくって退屈な書物だと思われがちですが、こんなに楽しい書物もあるのですね。けれども、「ヨナ書」という書物は、楽しいだけでなく、私たちが聞き逃してはならない重大なメッセージを伝えようとしている書物です。ヨナ書が伝えようとしているメッセージとは何でしょうか。

 一、神の民の罪

 それは、第一に、神を信じる人々、神に選ばれた人、神の民が神に逆らい、神を悲しませているということです。ヨナは、列王記第二14:25にその名前が出てきますように、イスラエルの王、ヤロブアムの時の預言者で、ガテ・ヘフェルという町のアミタイという人の子どもであることが知られています。ヨナは実在の人物で、ヨナ書に書かれているのはヨナが実際に経験したことです。けれども、ヨナの姿は同時にイスラエル全体の姿を表わしています。ヨナは預言者でした。彼は「主のしもべ」と呼ばれているように神に選ばれ、神のことばを他の人に伝える仕事をしていました。そのヨナに、神の命令が与えられました。「ニネベに行きなさい」と。ニネベといえば、イスラエルを飲み尽くそうと狙っていたアッシリアの首都です。ヨナが行きたくなかった気持ちは分からないこともありませんが、ヨナは神のしもべとして、その命令に従わなければなりませんでした。神のしもべは、自分の気持ちではなく、神の命令に従って行動しなければならないのに、ヨナは、神の命令に逆らい、神のしもべであることを放棄し、自分の使命を投げ出しています。イスラエルもまた神に選ばれ、神の民とされ、神のしもべとされました。イスラエルには他の国々にまことの神をあかしし、神のことばを伝える使命がありました。けれどもヨナの時代のイスラエルは、ヨナと同じように神をあかしすることも、神のことばを伝えることもなかったのです。北はアッシリア、南はエジプトという大国にはさまれ、ただただ政略によって生き残ることしか考えていなかったのです。

 ヨナは「ニネベ」に行くようにとの神の命令に逆らって逃げ出しましたが、ニネベとは逆の方、タルシシ行きの船に乗り込みました。船に乗って遠くへ行ってしまおうとしたのは、考えて見ればこっけいですね。詩篇139篇に「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます」とあるのをヨナは知らなかったはずはなかったでしょう。ヨナは、預言者であって神のことばを知っていながら、神のことばに生きてはいなかったのです。このこともまた、当時のイスラエルの姿でした。人々は神のことばを知っていました。頭では理解していました。しかし、決してそれを守ろう、行おうとしなかったのです。ここのヨナの姿に、神から離れてしまった神の民の惨めな姿が描かれています。

 さて、ヨナは、タルシシ行きの船の中で、眠っていました。船が嵐で沈むかという危機の時に眠っていたのですから、たいしたものです。イエスも、弟子たちの漁船がガリラヤ湖で嵐に遭った時眠っておられましたが、それは平安の眠りでした。ところが、ヨナの眠りは、怠惰の眠りです。ヨナの時代のイスラエルもまた、霊的に眠っていました。国が大きくゆさぶられているのに、誰も目を覚まして警告するものがいなかったのです。目覚めていなければならない時に眠りこけていたのです。

 ヨナの姿は、神の民の惨めな状態、その罪を示しています。

 二、異邦人の善良さ

 ヨナの反逆、うぬぼれ、また怠慢にくらべて、他の人々はどうだったでしょうか。

 ヨナと一緒に船に乗った人々は、ヨナのせいで嵐が来たこと、またヨナを海に投げ込めば嵐が静まることを知ってからも、なんとかヨナを死なせないようにと頑張っています。普通だったら、みんなが船を守ろうと懸命になっている時に眠りこけていた男に対しては誰も同情しないはずです。まして、その男のせいで自分たちがとんだ災いに遭っているとしたら「そんな厄介者は、早く海の中に投げ込んでしまえ!」と言いたくなるのも当然です。しかし、人々はなんとかヨナを死なせないようにとのやさしい心を持っていたのです。ヨナを海に投げ込む時も、人々はヨナの神、主に祈り、嵐がしずまった後も主を礼拝しています。イスラエルの人々が考えていたように、異邦人のすべてが、神を恐れず、他の人のことは少しも考えない、血も涙もない野蛮な人々ではなかったのです。

 ヨナが行くのを嫌がったニネベの人々はどうだったでしょうか。彼らはヨナのことばを聞いた時、神を信じ悔い改めたのです。王からはじまって、身分の高い者も低いものも、家畜までもが、灰をかぶり、荒布をまとい、断食したのです。ヨナが伝えたのは「四十日するとニネベは滅ぼされる」ということばだけでした。ずいぶん乱暴な伝道ですが、それでも、ニネベの人々は神を信じ、悔い改めたのです。イスラエルは、何度も、何度も神のことばを聞き、親切、丁寧に神のみこころを教えられ、神の愛の招きの声を受けているのに、ニネベの町の人々のように悔い改めたことがあったでしょうか。

 ヨナの物語は、イスラエルだけが正しいのではない。異邦人だけが罪深いのではないということを教えています。当時、イスラエルの人々は、自分たちは神に選ばれた者だという誇りを強く持っていました。そして他の国々を見下していました。確かに、イスラエルは神に選ばれた国でした。しかし、それは、イスラエルが優れていて、他の国々が劣っているからではありませんでした。神がイスラエルを選ばれたのは、寄留者であり、また奴隷であった人々を、あわれみによって拾いあげてくださったことによるのです。ですから、神の選びを喜び、感謝することはできても、そのゆえに他を見下すことはできないはずです。イスラエルが神の民として選ばれたのは、イスラエルだけが神の恵みをひとり占めするためではなく、それを他の国々に広めていくためでした。ところが神の民は、自分たちの使命をまったく忘れてしまって、本来は恵みである選びを「特権」にしてしまいました。神は、ヨナとその体験を通して、神は大きな愛でイスラエルも異邦人も等しく愛してくださっているということを教えようとされたのです。

 三、神の愛

 神は、一本の「とうごま」というオブジェクトレッスンを使って、ヨナにその愛を教えようとされました。「とうごま」というのは「ひょうたん」のようなもので、とても成長が早い植物だそうです。このとうごまはヨナの作った仮小屋をおおい、涼しい日陰を作りました。神が、ニネベの人々の悔い改めを見て、ニネベを救われたのに腹を立てていたヨナは、このとうごまのことで、その不機嫌を直したようです。ヨナには単純なところがありますね。そんな単純さがヨナの良いところでもあり、人々がヨナを愛する理由でもあるのでしょうね。

 ところが、このとうごまが一夜にして枯れてしまい、ヨナは再び、怒りだします。ヨナ四章でヨナは二度も「私は生きているより死んだほうがましだ」と言っています。口を開けば「死んだほうがましだ」と怒り出す、まるで駄々子のようなヨナに対して、神はなんと忍耐深く、寛容なことでしょう。神がヨナに忍耐をもって語りかけてくださっていることの中に、神の愛が表われています。神は、自業自得で海に投げ込まれたヨナに大きな魚を遣わして救ってくださったお方です。ヨナは、自分が神の忍耐と寛容によって救われているのに、神のニネベに対する忍耐と寛容が気にいらないのです。なんと自分勝手なことかと思いますが、それでも神はヨナの頑固さに負けないで、ヨナにこう語りかけます。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」と言われました。ヨナ書は、この神のことばで終わっており、ヨナの神のことばに対する反応は書かれていませんが、それは、ヨナも、この神のことばには言い返すことができなかったということを暗示しています。

 神は大きな愛で、この地球に住むすべての人を愛していてくださいます。神の目には、イスラエルの人々も、ニネベの人々も共に、救われなければならない人々だったのです。ヨナの物語を一貫しているのは、神の愛です。ですから、ヨナの物語は「神の愛の物語」と言ってよいでしょう。

 ヨナは神が愛であることを知っていました。しかし、神の大きな愛が気にいらなかったのです。神は、神の民だけ、イスラエルだけ愛してくださっていればいいのだと考えていたのです。まるで、放蕩息子のお兄さんが、父親が弟のためにしてやったことをねたんだような態度ですね。それは、神の民の間違った「特権意識」から出たものです。イエスは神の民の特権意識を繰り返し戒めておられますが、クリスチャンも、ヨナと同じ間違いをしないように、イスラエルの失敗を繰り返さないようにしなければなりません。確かにクリスチャンは神の目に特別なものです。私たちはそれを喜びます。しかし、それは決して私たちが良い人間だったから、優れていたからというのではなく、ただ、神の恵み、あわれみによるものでした。ですから、私たちは「神が私さえ愛してくださったのなら、あの人も愛してくださらないはずはない。神が私さえ救ってくださったのなら、まして、神はあの人を救ってくださらないはずはない」という思いをもって、私たちの回りの人々に、謙虚にキリストの救いを、神の愛を伝えるのです。どんな時にも「神は私を愛してくださっている」と確信すればするほど、神の愛をひとりじめするのでなく、どの人に対しても「神はあなたを愛しておられます」と言うことができるようになりたく思います。

 神の愛を学びましょう。神の愛の大きさを知りましょう。その時、私たちは、高慢や怠慢から救われて、神の愛を伝えるという、神の愛を受けた者に与えられた使命を果たすことができるようになるのです。

 (祈り)

 父なる神様、ヨナの物語を通して、あなたの愛の大きさを学ぶことができてありがとうございました。私たちが、私たちに対するあなたの愛を強く思うゆえに、あなたの愛が他の人にも注がれているということを忘れることのないようにしてください。そして、私たちが、あなたの愛を知ったのは、その愛を、あなたが愛しておられる、あの人に、この人に示し、伝えるためであったということを、さらに深く教えてください。キリストのお名前で祈ります。

5/6/2001