苦しみの意味

ヨブ記42:1-6

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42:1 ヨブは主に答えて言った。
42:2 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
42:3 知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
42:4 どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

 最近、「ペインフリー・ホスピタル」というものが話題になっています。検査や治療にできるだけ無用な痛みを与えないようにするというのは、どの病院でも心がけていることですが、特に、そのことを強調する病院のことを言うのだそうです。特に、こどもは、痛みに敏感ですし、親から離されて、検査や治療を受ける時、不安になり、余計に痛みを感じるものです。ペインフリー・ホスピタルでは、こともの不安や痛みを和らげるために、いろんな方法を使います。たとえば、MRI の検査をする時は、一時間近くも、機械の中でじっとしていなければならないので、その間、こどもたちに映像を見せ、こどもたちがあたかも宇宙船に乗っているかのように思わせ、検査の時間を過ごさせるのだそうです。そういえば、ある歯医者さんにも、ビデオがたくさんあって、こどもたちは、待ち時間だけでなく、治療中も、見られるようになっていてました。こどもがビデオに気をとられているうちに、歯の治療をしてしまおうというわけです。

 たしかに、こどもたちに無用な痛みを与えることは避けるほうがよい思うのですが、こどもたちが肉体的にも精神的にも、何の痛みも苦しみも体験しないで育った場合、おとなになって他の人の痛みを感じたり、苦しみに耐えることができるようになるのだろうかと心配です。精神的な病いの多くが、こどもの時に受けたこころの傷から来ているということが、最近力説されるようになりました。確かに、こどものこころは傷つきやすく、それがおとなになっても癒されないで残ることがあります。しかし、同時に、こどもの頃や若い頃に、過保護で育てられ、失敗したり、喧嘩したり、親にさからったり、友だちに裏切られたり、失恋したりといった「痛い思い」をしたことのない人たちが、おとなになってちょっとした躓きで、人生を投げ出してしまうというケースも増えていると言われます。骨は、カルシュウムを取るだけでは強くなりません。運動によって骨にプレッシャーをかけないと、そこにカルシュウムが溜っていかないのだそうです。何のプレッシャーも痛みも苦しみもないところでは、人のこころもまた成長していかないのです。現代では、苦しみの意味を問うことよりも、どうしたら苦しみを避けられるかということのほうが喜ばれます。しかし、それだけでは、人生のさまざまな問題に本当の解決を得ることができません。どんなに苦しみを避けようとしても、人の一生にはさまざまな苦しみや悲しみが襲ってきます。困難と問題の多い社会で、お互いが支えあっていくためには、苦しみの意味に取り組むことはどうしても必要なことなのです。少々面倒なことであっても、聖書から、苦しみの意味を考えましょう。そして、苦しみに正しく対処する者になり、また、苦しみの中からなくてならないものを学びとる者になりたいと思います。

 一、ヨブの悔い改め

 1-6節はヨブの悔い改めのことばです。ここでヨブは「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(6節)と言っていますが、ヨブは何を悔い改めたのでしょうか。ヨブの友人たちは、ヨブにはきっと隠れた罪があるから、このような災いが及んだのだ、それを正直に言い表して悔い改めよと、ヨブを責めてきたのですが、ヨブは、ずっと自分の潔白を主張し続けてきました。そして、それは事実でした。ヨブが「悔い改めた」というのは、友人たちが言うような意味で、罪を悔い改めたということではありません。ヨブに臨んだ災いがヨブの罪から出たものでないことは、ヨブ記の第1章と第2章ですでに明らかにされていました。また、42:7-8でも、神は、「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。」とヨブの三人の友人を責め、ヨブの正しさを明らかにしています。普通、私たちは「悔い改め」というという言葉から、自分の言葉や行いでの失敗やいたらなさ、あるいは、動機や態度において神のみこころにかなわなかったことを反省し、神の赦しと助けを願うことを連想するのですが、ヨブの悔い改めは、そうしたこと以上のものでした。

 ヨブは「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」(2-3節)と言っています。これは38:2で神がヨブに「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」と語りかけたことに対する応答です。神は、38-41章で、神がこの世界を造り、それを治めておられることを、さまざまな例をあげてヨブに示されました。神は「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。」(38:4-5)とヨブに問い、「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。」(38:16)「あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。」(38:31-32)と問いました。ヨブの答えは「いいえ」でした。ヨブは、神の創造の力の前に、自分の無力を認め、神の摂理の知恵の前に、自分の無知を認めたのでした。ヨブは、神のような知恵も力もないのに、神の摂理を論じたことを悔い改めたのです。これは、神のことについてどんな議論をしてもいけないというのではありません。もしそうなら、聖書研究などでディスカションするのも良くないということになってしまいます。しかし、議論においては、どうしても、議論する人が上に立ち、議論の対象となるものがその下に置かれます。ヨブと友人たちは神と神の摂理を論じたわけですが、そうした議論では、人間が主になり、神がたんに議論の対象でしかなくなる危険があります。注意していないと、人間の理性が中心原理となり、神の主権が忘れられてしまいます。それは、神のみこころをさぐり求める正しい方法ではないのです。

 神を信じるということは、知性や理性を否定することではありません。神についてのどんな議論も意味がないというのでもありません。信仰を持つ者は知性や理性を否定するのではなく、神のみこころを知り、それに従うために、精一杯知性や理性を用います。主イエスも、人間にとっていちばん大切なことは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛する」(マタイ22:37)ことであると教えています。神を愛するのに、私たちの意志や感情だけでなく、知性もまた動員されなければならないのです。しかし、その知性は、神のみこころを知るために、目覚め、きよめられ、新しくされている必要があります。使徒パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)と教えていますが、ここで「心」と訳されている言葉は「理性」と訳すことができる言葉です。「心の一新」というのは、感情の面でちょっと気持ちを切り替えるというのではなく、物の考え方、あるいは人生観や世界観を変えるということを意味しています。神が、人間に求めておられる悔い改めとは、たんに言葉や行動を変えること、生活の習慣を変えることではなく、心の深みから、その理性から変えられていくことなのです。私たちがものごとをどう感じるか、また、それに対してどのように行動するかは、ものごとをどう考えるかにかかっているからです。ものの考え方が変わらないかぎり、感情も、行動も変わることがないからです。多くの場合、人々は、聖書の教えに触れて、すこし態度を改めたり、習慣を変えたりします。ほんの少し道徳的になり、ちょっぴり「敬虔」になるのです。しかし、その心の中心には、あいかわらず古いままの世界観、人生観がどっかと腰をおろしています。それは、本当の悔い改めの姿ではありません。悔い改めは、理性のレベル、もっとわかりやすく言えば、物の考え方の変化からはじまらなければならないのです。それは神がしてくださることですが、私たちは、悔い改めによって、その変化を神に求めるのです。

 先ほど、神が「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。」「あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。」とヨブに語り、ヨブがそれによって、自分の無知を悟ったと言いましたが、現代の科学者たちは、同じことを聞いても、ヨブのようには神の前に悔い改めないでしょう。むしろ、「われわれは、宇宙の起源を知っている。地球の成り立ちをくまなく調べあげた。天体の法則を発見した。」と言うでしょう。そして、「科学が発達していなかった時代には、なんでもわからないことを神のせいにしたが、今は科学がすべてをあきらかにしているので、もはや神は不必要となった。」と言うかもしれません。しかし、ほんとうに人間は、すべてを知り尽くし、すべてのことができるようになったのでしょうか。この大宇宙にはまだ知られていないことがらが数多くあるのです。よしんば、そこにある法則をすべて発見したからと言って、人間がその法則を定めたわけでもなく、その法則を造り変えることもできないのです。人類は月に人間を送り込み、金星にロボットを送り込んで、それを調査することができるようになりました。しかし、それは、神が定めた天体や物理の法則を利用してはじめて可能となったのです。今日、化学反応によって、さまざまな材料を作り出すことができるようになりましたが、それは、神が、水素からはじまってダルムスタチュームにいたる110の元素を創造し、それぞれに特有の性質をお与えになったからで、人間は、元素のひとつでも新しく造り出すことはできないのです。人間ができることは、神の創造されたものを、神が与えてくださった法則にしたがって組み合わせたり、加工したりするだけなのです。毎年、毎年、大きな被害を与える洪水や旱魃、ハリケーンや竜巻、さまざまな異常気象や地震などは、それを予報することができても、防ぐことができません。まして社会にはびこる犯罪や、心の病、人間関係の問題に、科学は根本的な解決を与えることができません。なによりも人の心にはびこる罪の問題の解決は何の答えも持っていないのです。ところが、人間はいつのまにか自分の知恵、知識におぼれてしまい、あたかも人間がこの世界の主人公で、自らの力で生きているかのように考えるようになってしまいました。神が人間にまず求めておられる悔い改めとは、自らが神によって生かされている存在であることを認めること、自然界が神の法則によって保たれているように、私たちの人生もまた、神の大きく、深いとりはからいによって支えられ、導かれていることを受け入れることなのです。そして、そのような悔い改めから、さいわいな人生が生み出されるのです。

 ヨブは、全財産を奪われた時、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)と言いましたが、このことばに、悔い改めの姿が表されています。財産や、地位や、名誉というものは、しばしば、その人の本当の姿を隠してしまいます。人間としてもっともっと向上しなければならないのに、ある程度の成功をしてしまうと、人間としても一人前になったかのように思いこんでしまう場合があります。その人を飾り立てているものを引き剥がし、神の前にあるがままの姿で立たせるために、神は苦しみを用いられることがあります。ヨブは全財産を奪われて「裸一貫」になってしまったばかりが、その皮膚が剥がれ落ち、肉がむき出しになるという病気に侵されました。あらゆる面で裸の状態になったのですが、ヨブはそれを通して、彼の内面においても、神の前にあるがままの自分をさらけ出し、神の前に完全にへりくだるようになったのです。苦しみは、私たちをこうした深い悔い改めへと導く、神の使者です。

 二、ヨブのとりなし

 2-9節には、ヨブが、三人の友人のためにとりなしたとあります。「とりなし」というのは、正しい人が、間違ったことをした人にかわって神に赦しを願うことですから、これは、神がヨブを正しい者と認めてくださったことを、あかしするものです。ヨブは、大きな苦しみを通りましたが、その苦しみに耐えました。そのことによって、ヨブが、神を恐れる正しい人であることが、よりいっそう明らかになったのです。ローマ5:3-4に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」ということばがあります。ここで「練られた品性」という言葉には、「検査済み、合格」という意味があります。みなさんは、いろんな製品に、"Passed" というスティッカーが貼ってあるのを見ることがあると思います。それは、その製品が、少々厳しい環境でも十分に信頼して使うことができることを意味します。そのように、神も、神を信じる者に患難を与え、患難によって忍耐を与え、そして、それによって、「検査済み、合格」のクリスチャン、どこに出しても大丈夫な信仰者と認めてくださるのです。神は、むやみに苦しみを与えるお方ではありません。神は、苦しみを通して、私たちの忍耐を養い、練られた品性を与えようと願っておられるのです。オリンピックの選手が苦しいトレーニングに耐え、その結果メダルを手にするように、私たちも、神がお与えになる試練の苦しみを無駄にすることなく、そこから、「検査済み、合格」というメダルを手にしたいと思います。

 三、ヨブの回復

 10-17節にはヨブの回復が記されています。これは、ヨブ1:1-4と対をなしています。ヨブ1:1-4には、ヨブが、財産にも、家庭にも恵まれ、彼自身も神を恐れる正しい人であったとありました。ヨブの祝福された姿が描かれているのですが、苦難の後、ヨブの財産が以前の二倍になった、「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(12節)と言っています。苦しみの中にあったヨブは、神の祝福をすべて失ったかに見えました。しかし、本当は、神を見るという、人間にとっての最高の祝福を受けていたのです。もちろん、神を見るといっても、神は霊ですから、神の姿かたちを肉眼で見るということではありません。ヨブが「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(5節)と言っているのは、彼が今まで神について知っていたことは「うわさを耳にする」程度の知識でしかなかったが、今、神のことばが彼に臨んでほんとうの意味で神を知ったという意味です。しばしば、「神について知る」ことと「神を知る」こととは違う、神のことばを「聞く」(hear)ことと、神のことばに「聴く」(listen)こととは違うと言われます。「神について」知るというのは、たんに理論として知ること、一般的な知識ですが、「神を知る」というのは、神を生きたお方として知る、「私の神」として知ることを意味します。神のことばを「聞く」というのは、ただ耳で聞くにすぎませんが、「聴く」というのは、こころを込めて「私へのことば」として受け入れることを意味します。「又聞き」や「受け売り」の知識でなく、自分が体験した直接の知識には力があります。それは「神を知る」ということにおいても同じです。苦しみの日には、一般的なキリスト教の知識、あるいは聖書の知識はあまり役にたちません。毎日毎日の祈りの生活、毎週毎週の礼拝の生活の中で、しっかりと神のことばを聞き、それを素直に受け入れ、心に蓄えている必要があります。そのようにして蓄えられた神のことばこそ、苦しみの日に大きな力を発揮するのです。ヨブは、苦しみを通して、神をさらに深く知りました。そればかりか、以前に勝る神からの祝福を得ました。苦しみは、最終的には神の祝福で終わるのです。

 私たちは、苦しみをネガティブに考えがちですが、神にあっては、苦しみは生産的なものでさえあるのです。主イエスは言われました。「あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:20-22)神を信じる者が受ける苦しみは「産みの苦しみ」です。産みの苦しみというのは、いのちを生みだす苦しみですね。そこからかけがえのないものが生み出されるのです。また、産みの苦しみは、かならず喜びに変わるのです。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い栄光をもたらすからです。」(コリント第二4:17)とあるように、聖書はいたるところで、神にあっては苦しみは苦しみで終わらないと教えています。そして、私たちの主イエス・キリストをはじめとして、苦しみの後に喜びを体験した多くの人々の実例で満ちています。神のことばと信仰の証人たちにはげまされ、苦しみと取り組み、その意味を知り、それを乗り越えていこうではありませんか。苦しみから生み出される忍耐や練られた品性、そして、希望や喜びを手にしようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちが苦しみの真っ只中にいる時、苦しみが決して無用のものでも、無意味なものでもないことを教えてください。苦しみから生み出される祝福に目を留めるよう励ましてください。なにより、苦しみを避けて、安易な道を選び、ほんとうの悔い改めや、あなたを深く知る機会を見逃すことがないように、私たちをお助けください。私たちのために救いの祝福を生み出すため、苦しみを通ってくださった、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/22/2004