人生の疑問

ヨブ記3:1-10

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3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。
3:2 ヨブは声を出して言った。
3:3 私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。
3:4 その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。
3:5 やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上にとどまれ。昼を暗くするものもそれをおびやかせ。
3:6 その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。これを年の日のうちで喜ばせるな。月の数のうちにも入れるな。
3:7 ああ、その夜は、はらむことのないように。その夜には喜びの声も起こらないように。
3:8 日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。
3:9 その夜明けの星は暗くなれ。光を待ち望んでも、それはなく、暁のまぶたのあくのを見ることがないように。
3:10 それは、私の母の胎の戸が閉じられず、私の目から苦しみが隠されなかったからだ。

 一、疑問から真理へ

 こどもは好奇心の塊で、赤ちゃんのころから、何でも触ったり、口に入れて確かめたりします。おもちゃでも、それで遊ぶだけでなく、すぐに口に入れてしまいますから、注意が必要ですね。ところで、こどもは小さい時は、「あれは何?、これは何?」という質問をします。何でも知りたいという欲求があるのですね。そういう欲求によって知識を増やしていくのですが、やがて、「何?」という質問が、「どうして?」「なぜ?」に変っていきます。人は成長するにつれて、ものごとの本質について深く考えるようになるのです。そして、「なぜ?」という疑問をつきつめていくことによって、知識だけでなく、知恵を得るようになるのです。

 おとなになると、「どうして?」「なぜ?」という疑問は、人生に起こるさまざまなことに向けられていきます。ものごとが順調な時は、「なぜ?」という疑問を持つことは少ないかもしれませんが、苦しみに遭うと、かならずと言ってよいほど、私たちの心に、「どうして?」「なぜ?」という疑問が起こってきます。英語では、大変な目に遭った時、はじめに口にすることばが "Why me?" ですが、苦しみの時に「なぜ」という思いを持つのは、どこの国の人にも共通しています。ヨブも、家族と財産を一瞬にして失い、彼自身も、全身に腫れ物ができて醜い姿になるという大きな災いに遭った時、やはり「なぜ」と叫んでいます。ヨブ記第三章だけでも、「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。なぜ、ひざが私を受けたのか。なぜ、私の吸う乳房があったのか。」(11-12節)「なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。」(20節)「彼らは墓を見つけると、なぜ、歓声をあげて喜び、楽しむのだろう。神が囲いに閉じ込めて、自分の道が隠されている人に、なぜ、光が与えられるのだろう。」(22-23節)と、短いことばの中で、8回も「なぜ」と言っています。

 どんなことにおいても「なぜ」と問わなければ、ものごとの本質が見えてきません。「なぜ」という疑問なしに、答えは得られません。それは、人生についても同じで、人は苦しみの時に「なぜ」という疑問を持ち、その疑問によって人生を深く考え、今まで見失っていた大切なものを見出すことができるようになります。順調な時には気付かなかった多くの貴重な真理を学ぶのです。ヨブ記のテーマは「人はなぜ苦しむのか」「苦しみにはどんな意義があるのか」ということですが、苦しみは、私たちに、自分の人生を再発見させるという意義があるのです。

 よく言われることですが、人は、自分の弱さから、また欠けたところから、ものごとの本当の姿や真実なものを見ることができます。人生には、あらゆるものに恵まれている人には、決して見ることができないものがあるのです。ヨブは、この大きな災いに遭う前には、財産に恵まれ、家族に恵まれていました。彼自身も、正しい人で、申し分のない人でした。ヨブには、何もかもが満たされていました。もちろん、それは、神の恵みによってですが、彼には弱さも、欠けたところも見当たりませんでした。もちろん、ヨブは、そうした恵みにあぐらをかいて「のほほん」と生きていたのではなく、勤勉に働き、神の前に悔い改めながら歩んでいました。しかし、彼が、その生活の中で見るべきものを見ていたかというと、そうではありませんでした。ヨブは、この苦しみの最後に、神の声を聞き、神を見るという体験をするのですが、ヨブのように敬虔な人でも、神との直接的な、人格的な深いまじわりをまだ体験していなかったのです。ヨブは、その苦しみを通して、苦しみの結果生じた欠けを通して、はじめて、より完全なものを見ることができたのです。

 古代に、庶民が使った素焼きの器には、ところどころ欠けたところがありました。そんな器に水を入れても漏るばかりで使い物にはなりません。それで、欠けのある器には、ともしびを入れました。欠けたところから空気がはいって、ともしびを燃やし、またそこから光がもれて、まわりを明るく照らすのです。そして、その光によって、今まで見えなかったものが見えるようになるのです。そのように、私たちも、苦しみに遭って、自分たちの欠けだらけの姿に気がつくのですが、しかし、その欠けを通して、いままで見失っていたものを見ることができるようになるのです。苦しみの中で、自分の欠けを見る時、それを嘆くのでなく、そこから、見るべきものを見つめましょう。「なぜ」という疑問から、真理へと導かれていきましょう。

 二、否定から肯定へ

 さて、ヨブが「なぜ」という言葉を連発して、言おうとしたことは、「なぜ自分は生きているのか。こんな苦しみに遭うのなら、生まれなかったほうがよかったのだ。」ということでした。1節に「ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」とあります。「自分の生まれた日」というのは直訳すれば、「彼の日」となります。第一章で、ヨブの息子たちが「それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き…」(1:4)とありましたが、それと同じで、誕生日のことです。日本では、誕生日を祝うのはせいぜい小学生ぐらいまでで、おとなになると、年をとるのを祝ってもらってもしょうがないといった気持ちになるのだそうです。アメリカでは、誕生日は、とても大切にされ、何歳になってもお祝いします。レストランによっては、家族や友だちを連れていけば、誕生日の人は無料になるだけでなく、お店の人が出てきて「ハッピー・バースディ」を歌ってくれ、おまけにデザートも無料になるというところもあります。このごろ、私は、ほとんどクレディット・カードかデビット・カードで買い物をするようになり、チェックで買い物をしていた時のようにドライバー・ライセンスを見せることがなくなりましたが、以前、自分の誕生日の時に買い物をして、トライバー・ライセンスを見せる時、「今日は、私の誕生日ですよ。」と言いましたが、「ハッピー・バースデー」と言われただけで、ディスカウントはもらえませんでした。それはともかく、誕生日を祝うというのは、自分が生まれてきてここにいることを喜ぶということを意味しています。自分の存在を受け入れ、感謝するのです。ですから、ヨブのように「自分の生まれた日をのろう」というのは、自分の存在を否定することになるのです。

 ヨブは3節で「私の生まれた日は滅びうせよ。」と言い、11節で「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。」と嘆いています。生まれなかったほうが良かった、たとえ生まれてもすぐに死んでいれば良かったと言っています。ヨブは、死後の世界のほうが幸せだとさえ言っています。現代でも、若者が親に向かって「なぜ、僕を生んだんだ。僕なんか生まれてこなかったほうが良かったのだ。」と言うことがありますが、それは、親に対する一番の侮辱であり、絶望の叫びかもしれません。それではヨブが自分の生まれた日をのろったというのは、神への侮辱であり、絶望の叫びなのでしょうか。もし、そうなら、1:21でヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言い、2:10で「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言ったのと、矛盾しないでしょうか。ヨブは、1章や2章で告白した立派な信仰を捨ててしまったのでしょうか。その答えは、皆さんがヨブ記全体をよく読んで出していただきたいのですが、私は、ヨブが、信仰を捨てたとは思いません。いやむしろ、神への信仰があったからこそ、神に向かって、自分の嘆きを正直に口にすることができたのです。ちょうど子供が、怪我をしたり、病気になったとき、その辛さ、苦しさを親に訴えるようなものです。神への信仰とは、サタンに対して、この世に対してきっぱりと「ノー」を言い、神の側につくことで、ヨブは、決してサタンの誘惑に乗らず、神への信仰を崩してはいません。しかし、信仰は、神との関係においては、心の砦をとりさって素直に、神に近づくことで、神の前で裃(かみしも)を装ったり、よそよそしく、敬虔ぶかくすることではありません。信仰があればこそ、苦しみも嘆きも、また、「なぜ」という疑問も神に申しあげることができるのです。第1章、2章では、サタンとこの世に対するヨブの姿が描かれ、それ以降は、彼と神との関係におけるヨブの姿が描かれているのです。

 最初から信仰を持つことのできる人は誰もありません。ヨブのように「潔白で正しく、神を恐れる」人であっても、その信仰は、疑問や嘆きによって練られて成長しなければならなかったのです。ヨブ記第3章以降はそうしたヨブの信仰の成長過程がしるされているのです。真実な信仰には、このようなストラグルが伴います。神を信じたら、自動的に心配ごとが消え去り、いつもハッピーでいられるというのではありません。むしろ、信仰を持つ前にはなかった内面の戦いを経験することが多いことでしょう。しかし、それを恐れてはいけません。そうした戦いをへて信仰が成長するからです。そのようなストラグルの中でも神を求め続けていくなら、それはかならず勝利に繋がっていきます。

 人は苦しみに遭う時、自分は駄目だ、自分には生きている価値がないのだと考えやすいのですが、生きる価値のない人など、この世には誰ひとりありません。自分のほんとうの価値を知るなら、苦しみに遭ってもそれを乗り越えることができます。苦しみに負けてしまっている人には、自分自身を否定的に見ている人が多いような気がします。ちょっとしたことで、自分はだめだと劣等感におちこんだり、自分はいらない人間だと自信をなくしたりしてしまうのです。それで、夫婦や親子の関係がうまくいかなくなり、まわりの人々ともうまくやっていけなくなるのです。そうして、そうなったのは、自分が悪いからだと、自分を責め、悪循環に沈みこんでしまい、苦しみから抜け出せなくなってしまうのです。そのような悪循環を断ち切るために、まず、知らなければならないことは、神が、私をかけがえのないものとして愛していてくださり、生かしてくださっているということです。ヨブは、彼の生まれた日をのろい、自分の存在を否定するようなことを口にしましたが、それでも、神が彼の命をささえていることを認めています。23節に「神が囲いに閉じ込めて、自分の道が隠されている人に、なぜ、光が与えられるのだろう。」とあります。ヨブは、彼が苦しみの中に閉じ込められているということをさして、このように言っているのですが、神の目からみるなら、「囲いに閉じ込める」という言葉は、神がヨブのいのちを守っておられることを表わしています。この言葉は、ヨブ1:10で「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣をめぐらしたではありませんか。」と言われているところでも使われていました。神が、ヨブの財産を守っておられたように、神はヨブのいのちを守り通しておられるのです。ヨブは、そのことを知っていましたから、やがて嘆きから神への信頼へと導かれていきます。ヨブは13章で「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。」(ヨブ13:15-16)と言い、19章で「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」(ヨブ19:25-26)と言っています。「私を贖う方」とは、神のことです。「神が生きておられる」というのは、逆に言えば、「私は神に生かされている」という信仰の告白です。ヨブは、自分の存在を否定するところから、それを肯定するところへと導かれています。

 神は、いつどんな場合でも、私たちに「生きよ」と語りかけておられます。神は言われます。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。…から、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32)「わたしを求めて生きよ。…主を求めて生きよ。」(アモス5:4,6)それは、神が私たちにいのちを与え、その存在をささえていてくださるからです。神がいのちを与え、その存在をささえておられるのなら、その人が価値のない人、不必要な人であろうはずがありません。「生きよ」との神のことばを頼りに、苦しみの中でも、前に向かって進んでいきましょう。その時、私たちは、否定的な考えから救われ、神にあって、肯定的に、積極的に生きることができるようになるのです。

 三、過去から未来へ

 さて、ヨブ記は、第四章から、ヨブとヨブの三人の友人との論争に入ります。最初に三人の友人のひとり、エリファズがヨブに語り、ヨブがそれに答えます。次にビルダデが語り、ヨブが答え、ツォファルが語り、ヨブが答えます。これで一巡するのですが、次に第二ラウンドがはじまり、ふたたび、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの順で論争が続きます。第三ラウンドでは、エリファズとビルダデがヨブに挑戦しますが、ツォファルは、第三ラウンドでは棄権し、かわりに、もうひとりの人、エリフが語ります。こうして、延々と議論が続くわけですが、三人の友人たちの言い分は、ヨブがこのような災難にあったのは、何か隠れた罪を犯したからだというものでした。三人の友人は、いわゆる「因果応報」という考え方に立っており、ヨブを慰めるどころか、ヨブを責め立ててしまうのです。ヨブもまた、友人にむかって「あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。」(ヨブ13:4)とさえ言いました。そんなわけで英語で「ヨブの慰め手」("Job's comforter") というと「慰めようとして、かえって悩みを深める人」という意味になるのです。私たちも、同じ失敗をしてしまいがちです。何とかして、その人を苦しみから救ってあげたいと願うあまり、その人に「説教」してしまったり、説得しようとしてしまうことがありますが、そのことがかえってその人の苦しみを大きくしてしまうこともあります。私たちも、「ヨブの慰め手」にならないよう、気をつけたいと思います。

 「因果応報」という考え方でいっさいを判断し、苦しむ人の気持ちを理解できなかったというのは、ヨブの友人ばかりでなく、旧約時代のユダヤの人々もそうでした。ユダヤには「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。」(エレミヤ31:29)ということわざがあったほどです。時代が下って、新約時代になっても、この考え方は一般的で、イエスの弟子たちも同じような考えを持っていました。ヨハネの福音書に、イエスが道の途中、生まれつきの盲人に目を留めたことが書かれています。その時、弟子たちは、その盲人の前で「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:10)と、イエスに質問しています。目の見えない人は耳が敏感です。小さな声で話したとしても、この盲人には、弟子の言葉が聞こえたでしょう。弟子たちは、盲人のことなど気にも留めず、盲人を題材にして、「この人の身に起こった災いは、彼の罪か、先祖の罪か。」という宗教的な議論をしていたに過ぎませんでした。弟子たちは「ヨブの慰め手」より悪いですね。しかし、私たちのほんとうの慰め手であるイエスは、この人の目が見えない原因ではなく、目的を告げました。この盲人に、彼の目が見えない原因を言ってきかせても、彼が救われることはないのです。イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)と言い、彼の目を開き、また、心の目をも開いて、彼の人生を変えてくださいました。人は、原因を問います。しかし、神は、目的を示します。事故や災害の多くは人間の側に原因があり、天災の多くも実は人災であると言われます。ですから、災害の場合、「なぜ、こんな事故が起こったのか、なぜ、こんなに大きな災害になったのか。」ということは、徹底的に追求されなけばならないでしょう。しかし、人生の苦しみには原因をつきつめても答えのないものがたくさんあります。自分の失敗が引き起こした苦しみの中で、その原因を問い詰めても、自分を責めるだけで終わってしまいます。まして、他の人のせいで受けている苦しみなら、その原因を問い詰めるだけでは、人への恨みで終わり、惨めな気持ちで日々を過ごすだけになってしまいます。むしろ、この苦しみがもたらすものが何か、この苦しみの後にくるものが何かを知り、そこに目を向けることができたら、私たちは、苦しみを乗り越え、先にあるものに向かうことができるのです。神は、私たちに、過去にではなく、将来に目を向けるように教えています。

 神がヨブにお与えになった苦しみは、友人たちが責めたように、ヨブの過去から起こったものではありませんでした。むしろ、ヨブにさいわいな将来を与えるためのものでした。ヨブもまた、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」(ヨブ19:25-26)と言って、過去から目を離して、将来を見るようになりました。新約聖書に「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み…」(ピリピ3:13)という言葉がありますが、私たちは神を見上げることによってほんとうに「前向き」な生き方をすることができるのです。ヨブが触れた「私を贖う方」は、イエス・キリストを預言しています。「苦しみの意味」はイエス・キリストによって、さらにはっきりと示されています。

 人生の疑問を大切にし、その答えを求め続けましょう。たとえ苦しみの中にあっても、そこにある神の光を見、「生きよ」と言われる神のことばによって進みましょう。過去にではなく、将来に目をむけましょう。その時、私たちは苦しみの意味を知り、自分の価値を知り、神が与えてくださった人生の目的を達成していくことができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが、私たちを疑問から真理へ、否定から肯定へ、そして、過去から将来へと導いてくださるお方であることを感謝いたします。苦しみの中で、嘆き、うめくことがあったとしても、あなたに向かい、あなたにとどまることができますように。私たちの贖い主であり、まことの慰め手である、キリストのお名前によって祈ります。

8/15/2004