光あるうちに

ヨハネ9:1-5

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9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

 ヨハネの福音書にある7つの「しるし」、イエスがなさった奇跡を学んでいます。奇跡が「しるし」と呼ばれているのは、それが、イエスがどのようなお方であるかを表わし、示すものだからです。第1のしるし、「水をぶどう酒に変えた」奇跡では、イエスは、この世界のありとあらゆるものを造られた創造の神であること、また、信じる者の花婿であることが示されています。第2のしるし、「役人の子を癒やした」奇跡では、イエスが空間を超えて、どこにでも存在されるお方であることが示されていました。第3のしるし、「長年、病気だった人を癒やされた」奇跡では、イエスが人を人生の不幸から解放してくださるお方であることが示されています。第4のしるし、「5千人にパンを与えた」奇跡では、イエスが私たちの必要のすべてを満たしてくださるお方、また、私たちを生かす「いのちのパン」であることが示されています。そして、第5のしるし、「水の上を歩かれた」奇跡では、イエスが世界を治め、私たちの人生を導いておられる主であることが示されていました。

 では、きょうの「生まれつきの盲人の目を開けた」しるしは、イエスをどのようなお方として教え、示しているのでしょうか。そのことを考えるのに、まず、弟子たちが生まれつき盲人であった人をどのように見たかを学んでおきましょう。

 一、弟子たちの議論

 神殿の近くでイエスと弟子たちとは、生まれつき目の見えない人に出会いました。イエスは、立ち止まって、その人に目を留められました。弟子たちも立ち止まり、その人を見たのですが、イエスがその人をごらんになった目と、弟子たちがその人を見た目とは違っていました。弟子たちは、その人を、好奇の目で見ました。そして、「この人が生まれつき目が見えないのは、彼の両親が罪を犯したためか、それとも本人なのか」という議論をはじめたのです。ひとりが「それは両親の罪のためだ。生まれる前から、この人がどうやって罪を犯すというのか」と言うと、別の弟子は「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ」(エレミヤ31:29-30)などと書かれている箇所を引用して、この人の目が見えないのは、彼の罪の結果に違いないと言い、お互いの意見を主張しあっていました。しかし、結論が出ないので、「では、先生に聞いてみよう」ということになり、弟子たちはイエスに尋ねました。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

 考えても見てください。目の不自由な人は耳が敏感です。この人は、弟子たちがヒソヒソと話すのも、はっきりとした声でイエスに質問した言葉もすべて良く聞こえていました。「障がいは、罪の報いであり、呪いだ。」この人は、そんな言葉を何度聞かされてきたことでしょう。そして、そうした言葉を聞くたびに、「私は神からも見放されているのか」という暗い気持ちになったことでしょう。弟子たちがしていた議論は、どうしたらこの不幸な人を助けることができるかというものではなく、この人の不幸を題材にした宗教上の議論でしかなかったのです。

 人は、苦しんでいる人、傷ついている人のことを「あれこれ」と詮索して、「彼は、こんなふうだったから、あんな目にあったのだ」、「彼女の悩みは、きっとこういうことが原因に違いない」などと、無情で無責任なことを言います。弟子たちは、この人の目が見えないという事実を、説明し、解釈し、自己満足するために彼を観察したにすぎず、そこには、その人に対する思いやりの気持ちなどありませんでした。

 二、神のみわざ

 しかし、神の目、イエスの目は、人の目とは全く違っています。人の目は、不幸を抱えた人に対して冷たいのですが、神の目はいつくしみにあふれています。詩篇106:43-45にこうあります。「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが/彼らは相謀って逆らい/自分たちの不義の中におぼれた。それでも 彼らの叫びを聞いたとき/主は彼らの苦しみに目を留められた。主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし/豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた。」この詩篇では、何度も神に背を向け、神から遠ざかっていった人々のことが言われています。彼らの苦しみはいわば、自業自得でした。しかし、神は、そんな人々をあわれみの目をもってごらんになりました。どこまでも、人をいつくしみをもってご覧になる。それが神の目、イエスの目なのです。

 イエスは、弟子の質問に、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と答えられました。そう答えることによって、弟子たちの不当で、不毛な議論に終止符を打たれたのです。イエスは、この人が生まれつき目が見えないのは、なぜなのかと、原因を詮索しておられません。彼の両親や先祖がどうであったかなどといった過去を問題にはしていません。そんなことを議論しても、この人の人生は何一つ変わらないからです。イエスは、この人が何のために生まれ、これからどう生きるのかという、彼の人生の「目的」を問題にされました。過去ではなく、これからのこと、将来を問題にされたのです。「この人に神のわざが現れるためです。」この人に必要なのは、何の意味もない無駄な「人間の議論」ではなく、この人の人生を変える「神のわざ」です。そして、イエスは、その「神のわざ」を彼の上に現されました。

 イエスのなさったことは、まず、「地面に唾をして、その唾で泥を作」ることでした。そして、その泥を、この人のまぶたに薄く塗りました。そして、命じました。「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい。」(6-7節)こんにちの私たちには、なんと失礼なこと、非衛生的なことと、思えることですが、この盲人はされるがままになっており、イエスが命じられた通りにシロアムの池に行きました。この人は、イエスが自分に触れた手に、自分に語りかけた声の響きのうちに、愛と権威を感じ取ったのです。そして、イエスのなさることにはそれぞれ、意味があると信じたのです。

 実際、イエスのなさったことには、意味がありました。「つばき」は口から出るものなので「言葉」を表します。世界は、神の口から出た言葉によって造られましたが、イエスはその「ことば」です。父なる神、聖霊なる神とともに世界を創造されたお方です。つばきから造られた「泥」は人が土のちりから造られたことと関係があります。イエスはここで、ご自分が創造者であり、人を形造り、また、造り変えることができるお方であることを示しておられるのです。

 イエスは、この盲人に「シロアムの池」で目を洗うよう命じました。エルサレムには貯水池が数多くありましたから、どこで洗ってもよさそうなものですが、イエスは「シロアムの池」を指定されました。それは、「シロアム」という名には「遣わされた者」という意味があって、イエスこそ「シロアム」、神から遣わされた救い主だからです。人は、イエスのところ行って、はじめて、目が開かれ、新しい人生を始めることができる。そのことを教えるためでした。

 ふつうは、目の機能が回復しても、ものがはっきり見えるまでは何日もかかるのですが、この人は目を洗ったとたん、すぐに目が見え、景色や建物や人物を認識することができました。「そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った」(7節)とあるように、これは神のわざ、奇跡です。「この人に神のわざが現れるためです」とのイエスの言葉は真実でした。生まれつきの盲人の目を開けた第6のしるしは、イエスこそが、神から遣わされたまことの救い主であって、私たちを罪の暗闇から救い、恵みの光のうちを歩ませてくださるお方であることを示しているのです。

 三、光あるうちに

 闇から光へ。この「神のみわざ」は、今も、私たちの間に行われています。パウロは、エペソ5:8で「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい」と教えています。「以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました」とは、実に、パウロ自身が体験したことでした。彼は、イエス・キリストを信じる人たちを捕まえては投獄していました。エルサレム近辺だけでは飽き足らず、遠くダマスコにいる弟子たちにも迫害の手を伸ばしました。パウロは、パリサイ派の若きリーダーで、パリサイ派の人たちから見れば、輝いて見えたかもしれませんが、神の目から見れば全くの「闇」でした。しかし、イエス・キリストは、そんな彼を救うために、現れてくださいました。パウロはキリストの栄光の光に撃たれ、目が見えなくなってしまいました。パウロは盲目となった3日間、自分が「闇」であることを知り、悔い改めて、イエス・キリストを信じる者となりました。闇から光へと移され、イエス・キリストの救いの光を証しする者となったのです。

 ペテロも、ペテロ第一2:9でこう言っています。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」私たちは、神の愛にもイエス・キリストの救いにも盲目な者でした。しかし、イエス・キリストに出会い、イエスによって目を開いていただきました。そして、イエスの光を受け、この光を人々に分け与える者、イエスと共に、「神のわざ」に与るものとされました。

 イエスは、4-5節で、「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です」と言われました。この「わたしたち」は、イエスと弟子たちのことです。「わたしを遣わされた方」とは、父なる神のことです。イエスは、後に、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と弟子たちに言われました。イエスは、地上で始められた「神のわざ」を、地上に残していく弟子たちに引き継がれたのです。

 人がイエス・キリストを信じて、霊の目が開かれ、闇から光へと移され、光の子どもになり、この暗い時代の光となる。それは、人間の力でできることではありません。ですから、イエスは、弟子たちや私たちが、「神のわざ」を行うことができるために、私たちと共におられて、聖霊の力を注いでくださるのです。

 しかし、私たちが「神のわざ」に参加できる日数は、そんなに多くは残されていません。イエスがこの盲人の目を開けたとき、ユダヤでは、イエスを信じる者は会堂、つまりユダヤ人のコミュニティから追放されると決められていました。そうした迫害や圧迫は過去のこと、どこか他の国のことだと、私たちは長い間考えていましたが、現代の、このアメリカで、そうしたことが起こりつつあります。「だれも働くことができない夜が来ます」と言われているように、信仰の自由の扉が突然、閉ざされるかもしれない時代になっています。イエスを信じ受け入れるのを先延ばししてはいけないのです。今度は、信仰を持ち、イエスに従いたいと願っても、そうすることができなくなる時代がやがてやってくるからです。

 「神のわざ」とは何でしょう。イエスははっきり答えておられます。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:29)イエスこそ、神から遣わされたお方、私たちを愛し、いつくしみ、闇から光へと導いてくださるお方です。この方のもとに行きましょう。このお方の愛の心をいただき、その力を受けて、私たちも、この方の光を証しし、「神のわざ」に加わりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、かつては、闇であり、目の見えない者たちでした。しかし、光であるイエスによって、目が開かれ、光であるあなたを見る者としていただきました。光の子どもとして、光の中を歩み、光であるイエス・キリストを証しする者としてください。今、「光あるうちに」、そのことができますよう、私たちを励まし、導いてください。私たちの「シロアム」、遣わされたお方、イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/25/2024