真理と自由

ヨハネ8:31-36

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 クリスチャンは日本では少数ですが、それでも大きな働きをしてきましたし、今も、日本の社会に対して少なくない影響力を持っています。社会福祉に貢献している人の多くはクリスチャンですし、学者や教育者、医師や専門職、政治家や実業家、スポーツ選手や芸術家の中にもクリスチャンがいて、地の塩、世の光として活躍しています。そして、案外なところに聖書に関係のあるものが置かれています。その一つが国会図書館に刻まれたことばです。永田町の国会議事堂の隣に立つ国会図書館の二階、中央出納台の上に Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕI ΥΜΑΣ というギリシャ語が刻まれていますが、これはヨハネ8:32からとられたイエス・キリストのことば「真理はあなたがたを自由にします」なのです。聖書のことばが、日本の中枢ともいえるところに、ちゃんと刻まれているのすね。ギリシャ語のことばのとなりには、日本語で「真理が我らを自由にする」とあります。私は、実際に行って見たわけではありませんが、国会図書館がおみやげ用に売っている絵葉書にそれが写っています。今度東京に行った時は、ぜひ見たいと思っています。イエス・キリストのことばの「あなたがた」を「我ら」と変えてあるのは、1948年に制定された「国立国会図書館法」の前文の「真理が我らを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命とする」という部分から取ったのでしょう。戦後の日本の復興に聖書の精神が盛り込まれていたことが良くわかります。

 1946年に「国立国会図書館法」が審議された時、 森戸辰男議員は、この言葉を条文に入れることについて、次のように言っています。「民主主義は何よりもまず人間の理性、道理と真実に基礎をおく政治でなければならない。国会が真実を尊重し、真理に聴従するところとなり、衆愚の政治の府ではなく、 衆智の政治の府となり、かくて、新議会の品位を高め、新政治に科学性を加え、もって平和と文化と人道を目指す民主主義を樹立しなければならない。国会図書館はこうした民主主義を樹立し、文化国家を建設する為の極めて大切な基礎条件の一つである。何よりも真実をつかみ、真理をとらえようとする態度が大切であり、真の自由はそうした中から得られるものである。」なかなか格調の高い演説ですね。日本ばかりでなく、どの国もこのような精神を保ち続けることができたら素晴らしいことと思いますが、今朝は、国の政治のことではなく、イエスの言われた「真理はあなたがたを自由にします」ということばが、私たち個々人にどのようにあてはまるかを考えてみたいと思います。

 一、罪とは

 イエスが「真理はあなたがたを自由にします。」と言われた時、ユダヤ人はすぐに「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」と答えました。当時、ユダヤはローマ帝国の属国になっていて、決して完全な自由を持っていたわけではありませんでしたが、ローマ政府はユダヤ人が誇り高い民族であることを知っていたので、名目上の自由と独立は与えていたのです。それで、「自分たちは、アブラハムの子孫、神の民で、人の奴隷なんかではない」と反発したのです。しかし、イエスが言われたのは、政治的、あるいは社会的な意味での奴隷ではなく、霊的な意味での奴隷状態でした。イエスは、はっきりと言っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」

 私は、「罪とは何か」ということを、しばしば、四つのことで説明してきました。おさらいになりますが、そのことを繰り返します。罪は、第一に「的はずれ」です。罪というと、何か凶悪な犯罪を連想しがちです。確かに犯罪も罪の中に含まれますが、罪というのは犯罪以上のものです。犯罪の奥にあるもの、犯罪を引き起こさせるものと言ってもいいでしょう。わがままや怒り、高慢や欺き、嫉妬や裏切り、そういったものから犯罪が生まれます。しかし、法律上の犯罪にいたらなかったとしても、それらが罪であることには変わりありません。たとえそれが善意から出たことであっても、無知や不注意のため方法を間違えたりして、他の人を傷つけてしまうこともあり、それもまた罪になります。法律でも「過失罪」というのがありますね。また、こどもを守らなかったり、年老いた両親をほうっておいたりすると、「保護遺棄罪」という罪になります。聖書もまた、「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17)とも言っています。積極的に悪いことをしなくても、果たすべき義務を怠ったり、困っている人を見て見ぬふりをしたり、不正があっても、自分を守るためにそれに対して声を上げないでいることもまた、神の目から見て罪なのです。罪とは、積極的であれ、消極的であれ、善意からであれ、悪意からであれ、神が私たちに望んでおられることにかなわないことをすることを意味します。矢は、どんなに遠くに飛んでも、方向を間違えたなら、つまり的に当たらなければ意味がありません。そのように、神が示しておられる方向から離れたことをすること、また、的はずれな状態が罪なのです。

 第二に、罪は「心の汚れ」であると言うことができるでしょう。イエスは「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)と言っておられます。よく「つい心にもないことを言ってしまった」と、言うことがありますが、本当は、心にないことは、口には出てきませんね。心は球根のようなもので、言葉は、その球根から出てくる花のようなものです。チューリップの球根からチューリップの花が咲き、クロッカスの球根からクロッカスが咲くように、暖かい心から暖かい言葉が出、冷たい心から冷たい言葉が出てくるのです。罪とは心の汚れです。心がきよめられなければ、どんなに外側を整えても、その人の内側から出てくるものが、人を汚し、自分を汚してしまうのです。

 第三に、罪は「死に至る病」です。聖書は「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)と言っています。聖書が言っている「死」は肉体の死ばかりではありません。それは、霊的な死もさしています。さきほど、罪とは心の汚れであると言いましたが、罪は心を汚すだけでなく、人の心を死なせてしまうのです。どんなに多くの人が、特に若い人たちが生きる力をなくしていることでしょうか。何をする気力もなく、何にも関心を持てなくなっていて、何にも感動することができなくなっている心は死んだも同然です。エペソ2:1-2に「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」ということばがありますが、罪の中に死んだ人は、自ら生きていく目標も、力も持っていませんから、ただ流行に流されていくだけの生き方しかできなくなってしまうのです。私は、エペソ2:1-2を開くたびに、この箇所からの羽鳥明先生のメッセージを思い起こします。羽鳥先生は「山から切り下ろされた丸太は川の上流から下流にある製材所まで、川に流されて下っていく。命のない丸太は、あっちにゴロン、こっちにゴロンと川の流れのまま流されていくにすぎないが、小さな魚でも、命のあるものは、スイスイと川をさかのぼっていくことができる。」と話してくれました。「ゴロン、ゴロン」と「スイスイ」、ここに命のないものと命のあるものの違いがあります。罪は私たちのたましいから命を奪ってしまうのです。

 二、罪の奴隷

 第四に、罪とは「たましいの奴隷状態」のことを指します。人間は他の動物とは違って自由な存在です。神は、人間を神のかたちに造られて、他の動物には与えられていない「自由」という神のご性質の一部を分け与えてくださいました。今でも、いろんなロボットが工場で、また事務所で働いており、将来人間とそっくりなロボットができるかもしれませんが、どんなに精巧なロボットができても、ロボットは、人間がプログラムしたようにしか動きません。ロボットは「自由」を持つことができないのです。「自由」が人間を人間にしていると言ってもいいでしょう。自由は、正しく用いれば素晴らしいものですが、間違って使えばとんでもないものになります。しかし、神は人間を信頼して、私たちに自由を与えてくださいました。ところが、人間は、その自由をもって、神に逆らうことを、罪を犯すことを選んでしまったのです。ほとんどの場合、私たちは「何をしようと自由だ」と言って、自由を主張して罪を犯します。ところが、いったん罪を犯すと、今度は、その罪に縛られて、神から与えられた素晴らしい賜物である自由を失ってしまうのです。罪を犯している人たちは「分かってしているんだ。やめようと思えばいつでもやめられるよ」と言いますが、実は、自分の犯している罪に縛られていることに気がついていないのです。罪を犯している人は、自由を失い、罪に縛られているのです。

 このことは、アルコールやギャンブルなどの依存症を考えると一番わかりやすいと思います。全米で、一千万人がアルコール依存症、一千二百万人がギャンブルのとりこになっていると言われます。一般にアルコール依存症というと、酔っ払って大声でわめきちらしたり、暴力をふるったりということを想像しますが、決してそうではなく、「キッチンドリンカー」と言って、昼間、台所でお酒を飲んで、家事や育児に身が入らなくなっている主婦の数も多いのです。もちろん、この人たちは、他の人と接する時には、お酒の匂いなど決してさせず、他の人と全くかわらずふるまいます。ですから、ご主人でも、長い間、奥さんがアルコール依存症になっていることがわからずにいることも多いのです。

 お酒を飲む人も、ギャンブルをする人も、最初は軽い気持ちで始めるのですが、やがて、酒のとりこになり、ギャンブルのとりこになり、家庭を破壊し、自分の身も心も滅ぼしてしまいます。「酒は百薬の長」と言いうのは、お酒を飲む人たちが言った言葉で、中国でも昔から、酒の害は説かれていて、「酒を飲むは六種の失あり」と言われています。六つの損失とはなにかというと、財産、健康、友情、名誉、平安、知恵だというのです。「一つには財を失う、二つには病を生ず、三つには闘い争う、四つには悪名を流布す、五つには怒り俄かに生ず、六つには知恵日に損ず」というわけです。多くの人が酒のために失敗して人生を棒に振っています。ハリソン大統領は酒を勧められた時、「私といっしょに大学を卒業した人が16人いたが、彼らは酒を飲んだために残らず死んでしまい、私だけが残った。私がこうして健康で働くことができるのは全く禁酒のおかげである。」と言ったそうです。しかし、すべての人がこのようにきっぱりとお酒と縁を切れるわけではありませんね。お酒を飲む人には、お酒が美味しいからというのではなく、別の理由で飲むからです。ある人は、苦しく辛い現実を一時的にでも忘れようとしてお酒を飲みます。ある人は孤独に苦しんでお酒に慰めを求めます。ある人は、心のむなしさを満たそうと、お酒に走ります。そして、ある人は、かって、何かのことで受けた心の傷をいやそうとしてお酒を飲みます。アルコール依存症にかぎらず、どの依存症も、その心の奥底にあるものに解決を与えないかぎり、決してそこから回復することはできません。お酒は、現実を変えることも、心の傷をいやすことも、心を満たすことも、慰めを与えることもないのです。むしろ、心の傷はさらにうずき、虚しさは増し、不安や恐れが襲ってくるのですが、それでも、お酒を止めることができないのです。それこそ、鉄の鎖でつながれたような、自由のない人生ではないでしょうか。

 このように、罪は、私たちを縛りつけ、私たちから自由を奪うのです。こんな話があります。昔、あるところに、とても腕の良い鍛冶屋がいました。この鍛冶屋は、何かのことで領主の怒りを買い、鎖につながれ、牢屋に入れられてしまいました。彼は、鍛冶屋だけあって、どんな鎖につながれても、その鎖の弱い部分を見つけてそれを壊す自信がありました。牢獄の錠前を開けることなど、朝飯前でした。それで彼は、自分をつないでいる鎖を調べはじめましたが、調べているうちに、顔がみるみる青ざめていきました。そしてこう言いました。「だめだ、この鎖は壊すことができない。この鎖は完全につくられている。これはわしの作った鎖だ。」罪を犯すものはこのように、自分の作った罪の鎖に縛られて、そこから逃れられなくなるのです。

 三、罪からの自由

 しかし、イエス・キリストは私たちを罪から解放してくださいます。どのようにしてでしょうか。それは、「真理はあなたがたを自由にします。」と言われているように、私たちに真理を知らせ、真理に直面させることによってです。では、私たちが知らなければならない真理とは何でしょうか。それは第一に、私たちが罪の奴隷であるという事実です。自分が罪に縛られていて、そこから解放される必要があるという真理を受け入れない限り、私たちは自由になることはできません。病気の人が「自分は健康だ。」と言っている間は、決して良くならないのと同じです。自分の病気を認めることから、治療がはじまるように、自分が罪に縛られているということを認めることから、罪からの救いと解放がはじまるのです。

 しかし、ユダヤ人が「私たちは、決してだれの奴隷になったこともありません。」と反発したように、自分の現実の姿を認めることは、容易なことではありません。特に、「自分は真面目に生きている」と思っている人にとってはそうだと思います。しかし、聖書のことばに照らして、私たちの心を、生活を調べてみますと、どの面から見ても、決して罪の奴隷にはなっていないと言うことのできる人はいないのではないでしょうか。どこかに、自由を失っている面があるものです。それを素直に認めていくことを、イエスは私たちに求めておられます。最近読んだ本の中に、日本人は言い訳をしないし、言い訳をする人を好まないとありました。たとえば、誤って茶碗を割ってしまった時、日本人の奥様がたは「茶碗を割ってしまいました。」と謝まるのですが、主語や目的語がはっきりしているはずの英語を使う人でも「わたしが茶碗を割りました。」とは決して言わず「茶碗が割れました。」と言うのだと書いてありました。この本の著者は随分ご高齢の方で、ここに登場してくる日本の奥様は、一世代前の奥様で、現代なら「割れちゃったわ〜」で済まされてしまうかもしれませんね。ともかく、日本人は、長々と弁解を並べ立てず、「申し訳けありませんでした。」と言う潔さがあるというのです。たしかに、そうかもしれませんが、そんなに柔らかい心を持った日本人も、神の前に罪を認める段になると、随分抵抗して、なかなか素直に「神さま、私は罪人です。私をゆるしてください。」と言えないところがあります。どうやら弁解しないとか、すぐに謝るというのは、自分が引き下がっておけば、人間関係を壊さなくて済むという、あくまでも、人間関係のレベルでのことで、神の前には、日本人の心は、まだまだ固いのかもしれません。

 アルコール依存症からの回復のステップに「12ステップ」というものがあります。そのステップ1にこうあります。「わたしたちはわたしたちの依存症にたいして無力であること、わたしたちの生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」ここで「依存症」とあるところは、そのまま「罪」と置き換えて良いでしょう。「わたしたちはわたしたちの『罪』にたいして無力であること、わたしたちの生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」というわけです。使徒パウロも「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と叫んでいます。自分の罪を自分ではどうすることもできないことが分かり、私は無力ですと、それを正直に認めることから、私たちの救いは始まるのです。

 次に、私たちが出会うべき真理は「キリストが私たちの罪を赦し、私たちをそこから救い出してくださる」という「真理」です。ある人は、「真理はあなたがたを自由にします」ということばをはじめて聞いた時、「真理」と「自由」とが結びつかなかったと言っていました。その人は「真理」というと何か鋼鉄のように冷たくて、私たちを圧迫するようなものと考えいたのです。しかし、彼は、「真理」とは何だろうかと考えていった時、イエスが「真理」であることに気がついたというのです。イエスは「わたしは真理である」と言っておられます。イエスは決して鋼鉄のように冷たいお方でも、私たちを天の上から睨みつけるお方でもなく、私たちが罪の奴隷となっていることを、心からあわれみ、私たちを、そこから解放するために命を投げ出してくださったお方です。もし、私たちが罪の奴隷から解放されることがないのなら、罪の現実を見ないほうが幸いかもしれません。もう、助かる見込みのない病気なら、医者は、「苦しい思いをしてまで手術をしなくてもいいですよ。」と言って、痛みを止めるためのモルフィンだけを与えるでしょう。しかし、それが確実に直る病気なら、医者は、患者にその病気のことを詳しく語り、そのためにしなければならないことを告げるのです。聖書が罪について詳しく書き、私たちに罪を認めるように、それを悔い改めるように教えているのは、罪からの救いがキリストにあり、誰でも信じるものに与えられるからです。

 12ステップの第二は「わたしたちは自分よりもすぐれた力がわたしたちを正常にもどしてくれるということを信じました。」、第三は「わたしたちはわたしたちの意志と生活とを神の配慮のもとにおく決心をしました。」と続きます。正直に自分の罪に向かうことのできる人はかならず、救い主キリストを知ることができます。そして、救い主キリストに来る人はかならず、自分の罪を悔い改めて来るのです。「真理はあなたがたを自由にします。」私たちに本当の自由、罪からの自由を与えてくださるイエス・キリストに、私たちの人生を任せようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、ほんとうの自由は、私たちが真理に直面する時にはじめて与えられることを教えられました。私たちは、なんとしばしば、真理に直面することを避けて、手軽ないやしだけを求めてきたことでしょうか。もう一度、恐れることなく、自分の罪を認め、また、イエス・キリストに完全な救いがあることを堅く信じさせてください。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とうめくことがあっても、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と聖書にあるように、感謝の叫びをあげるものとしてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。

8/11/2002