いのちの光

ヨハネ8:12

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8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」

 毎年、VBS の前には、その年の VBS に関係のある箇所からお話ししてきました。今年もそうしたいと思います。今年の VBS の第一日目は「光を造られた神さま」、第二日目は「光を失った人間」、第三日目は「光であるイエスさま」、第四日目は「光を受けたパウロさん」、第五日目は「光の子ども」というレッスンを学びます。これらのレッスンの中心は、なんといっても「まことの光であるイエス・キリスト」ですので、きょうは、ヨハネの福音書から「わたしは世の光である」という箇所をごいっしょに学ぶことにしましょう。

 一、光と仮庵の祭

 「わたしは世の光である。」イエスはこの言葉を、仮庵の祭の時に、神殿で語られました。「仮庵の祭」は七日間にわたって行わる秋の収穫祭です。「仮庵」というのは、「小屋」のことで、ユダヤの人々は、この期間、一時的に雨露を凌ぐことができる小屋を作って、その中で過ごしました。それは、イスラエルの人々がエジプトを出て、荒野を旅行した間、テント住まいだったことを覚えるためです。イスラエルの人々は過酷な環境にもかかわらず、水も食べ物も、その他の必要もすべて備えられ、無事に約束の地に入ることができました。このことは、申命記8:4で「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」という言葉で表わされています。

 「仮庵の祭」では、毎朝、祭司がシロアムの池から水を汲み、それを金のかめに入れ、神殿まで行進し、その水を祭壇に注ぎました。イエスは、祭りの最後の日に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)と言われましたが、この言葉は、この儀式と関係があります。農耕に水は不可欠です。祭壇に注がれた水は、神が十分な雨を降らせ、田畑が豊かに実るようにとの願いを込めて注がれるのですが、イエスは、たんに田畑を潤すだけでなく、人の内面を潤す水を与えると約束されたのです。神殿に注がれた水はやがてかわきますが、イエスが与える水はかわくことなく、その人のうちから湧き上がり、流れ出るのです。

 人はみなその心に渇きを持っています。たとえ、物質的に恵まれ、家族に支えられ、友人に囲まれていたとしても、そうしたものによっては満たすことのできない、たましいの渇きです。その渇きをいやすことができるのは、イエスおひとりです。祭司が水を汲んだ池の名前、「シロアム」は救い主を表わします。シロアムの池から水を汲むというのは、救い主イエスだけが、人に渇くことのない水を与えるお方であることを示しています。

 また、「仮庵の祭」では、神殿の内庭に巨大な燭台が置かれ、夜になると神殿の庭全体を明るく照らしました。その光は神殿から遠く離れたところからでも見えたと伝えられています。そのうえ、多くの人々がたいまつを灯し、歌いながら、神殿中を行進しましたから、神殿の隅々までライトアップされたのです。イエスが「わたしは世の光である」と言われたのは、ヨハネ8:20によれば「献金箱」の側だったとあります。この「献金箱」は「婦人の庭」にありましたから、イエスはそこに設置された巨大な燭台の光を浴びながら、「わたしは世の光である」と言われたのでしょう。この燭台の光は祭が終われば消えてしまいます。再び闇がやってくるのです。しかし、イエスの光は消えることはありません。十字架のとき、その光は消えたかに見えましたが、それはほんの一瞬のことで、イエスの光は、復活と共に、より一層輝き、それは、世界に輝く救いの光となったのです。

 二、導きの光

 聖書で使われる「光」という言葉には、深い意味があります。短い時間でそのすべてを語ることはできませんので、きょうはふたつのことを、心に留めたいと思います。ひとつは「導きの光」、もうひとつは「いのちの光」です。

 まず、「導きの光」について考えてみましょう。イエスは「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」と言われました。ここで、イエスは、光であるイエスに従う者は、間違いなく正しい人生に導かれると言っておられるのです。もし、皆さんが山奥のなんの灯りもない道をドライブしていて、車のヘッドライトが切れてしまったら、どうするでしょうか。月の灯りさえもない暗闇では、とても車を運転することができません。道を外れて崖に落ちてしまったり、ぬかるみに入り込んだりしてしまいます。ライトなしに車を運転できないように、暗い時代を生きるには、それを照らしてくれる導きの光がどうしても必要なのです。

 夜、飛行機の窓から地上をながめると、町という町、道路という道路が明るく照らされているのが見えます。アメリカでは、防犯のため、商店や事務所が閉じられたあとも、建物の中も外も明るくしていますので、夜も、とても明るいのです。最近は LED 電球が普及し、わずかな電力で済むようになったので、日本でもいろいろな建物がライトアップされるようになりました。

 しかし、町が電球の光で明るくなっていくのに反比例して、そこに住む人の心はどんどん暗くなっています。以前、東京に行ったとき、歌舞伎町の近くのホテルに泊まったことがあります。町は夜でも、昼と違わないほど明るく、大勢の人が繰り出していました。しかし、その明るさと正反対に、そこではさまざまな遊興、誘惑、犯罪がうごめいていると言われます。物理的な明るさと逆に、世の中は暗くなっているのです。こどもが虐待され、若い人たちがめあてを失い、年老いた者に行き場がない社会。それは決して明るい社会ではありません。そして、これまでになかった様々な犯罪や不正。以前は「義理」や「人情」といったものがまだ残っており、自分の立場に対する責任感や人としての温かさがまだ社会にありました。今はそうしたものも失われ、よりどころがなくなってきました。多くの人が「光」を見失っています。今、わたしたちに必要なのは、わたしたちのこころを照らし、進むべき道を示す、「導きの光」です。そして、その「光」はイエス・キリストです。この光に従うとき、わたしたちは、常に光に照らされた道を進むことができます。

 こんな話しがあります。まだ GPS などない時代のことです。夜の海原を一隻の軍艦が進んでいました。すると前方に光があります。まっすぐ進むとぶつかってしまいます。しかし、艦長は進路を変えたくありませんでしたので、前方の光に「進路を変更せよ」という信号を送りました。すると、その光から「貴殿のほうこそ進路を変更されたし」という信号が返ってきました。それに腹をたてた艦長は「こちらは英国艦隊の軍艦である。進路を変更しろ」という信号を送りました。すると、その光から、こういう返事が返ってきました。「こちらは岬の灯台である。指示に従わなければ、貴艦は岩に乗り上げ沈没する。」この話で、どちらが正しいかは、すぐ分かりますね。多くの人は自分の光に頼り、自分で決めた道が正しいと思い込んでいます。しかし、正しい道はイエス・キリストが示される道の他ありません。暗い時代にも、イエス・キリストの光は輝いています。大切なことは、その導きの光に従うことなのです。

 三、いのちの光

 次に、「いのちの光」について考えてみましょう。イエスは言われました。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ。」「いのちの光」それはどういう意味でしょうか。

 「いのちの水」という言葉があって、それには「いのちを与える水」という意味があります。地上の生命のすべては水を必要とし、水が生物に命を与えています。そのように「いのちの光」というのも「いのちを与える光」という意味になります。ほとんどの生物は光によって命を保っています。植物は「光合成」といって、その葉に光を受けて、養分を作り成長していきます。動物も、光を浴びて命を保っています。人間も、同じで、太陽光の紫外線B波を受けると、体内にビタミンDが造られます。そのためビタミンDは「太陽ビタミン」と呼ばれているそうです。ビタミンDは骨を強くするだけでなく、認知機能を保ち、うつ病を防ぎ、ガン、高血圧、糖尿病、心臓疾患のリスクを軽減し、長寿をもたらすことが知られています。太陽の光はからだのいのちを支えますが、イエス・キリストがくださる「いのちの光」は、それ以上のものを与えてくれます。

 ヨハネ1:1で、イエス・キリストは「ことば」と呼ばれています。ギリシャ語で「ことば」は「ロゴス」と言い、それには、ギリシャの哲学では「根源的なもの」あるいは「究極のもの」という意味があります。イエス・キリストが「ロゴス」であるというのは、理論的には分かっても、わたしたちとはかけ離れた遠い世界のことのように感じてしまいます。しかし、聖書はこう言います。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(ヨハネ1:4)「ことば」に「いのち」があったと言うのです。これは、イエス・キリストがたんなる哲学の概念ではなく、いのちを持った、生ける神であるということを言っています。英語で「いのち」は “life” ですが、 “life” には「生活」あるいは「人生」という意味があります。「言に命があった」というのは、世界の根源、究極である、神の御子イエス・キリストが、人となって、この地上で生き、人生を送られたことを言っているのです。イエス・キリストは、たんなる哲学の「ロゴス」ではない、まさに「生けることば」です。

 「いのち」それ自体は目に見えません。しかし、その「いのち」から生まれる生活や人生は、見ることがきます。そして、それを見て、そこから学ぶことができます。ですから、聖書は「そしてこの命は人の光であった」と言うのです。わたしたちは、イエス・キリストがこの歴史に、その人生を刻んでくださったことによって、目には見えない「根源」「究極」のものを、そのご生涯を通して見ることができるようになったのです。

 ほとんどの人は、イエス・キリストの生涯と教え、そして、イエスがなされたことを賞賛します。イエスが生きられたように、またその教えのように生きられたら、どんなに幸いだろうかと思います。しかし、それができないでいる自分に失望します。イエスの光は「導きの光」ですが、それをあまりにもまぶしく感じるときもあるでしょう。しかし、そこから目をそむけないようにしましょう。イエスの光は、「導きの光」であると同時に「いのちの光」だからです。イエス・キリストに従うことは、自分の力でできることではありません。それは、イエス・キリストの命によって、はじめてできることです。

 ですから、ヨハネ1:9-13はこう言うのです。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」イエス・キリストを受け入れることによって、わたしたちは、神から「いのち」を受け、「神の子ども」となります。そして、その「いのち」によって、キリストに信頼する生活を営み、キリストに従う人生を歩むことができるようになるのです。イエス・キリストはわたしたちにこの「いのち」を届ける光、「いのちを与える光」です。このお方に顔を向け、このお方によって生かされ、光のうちを歩みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、イエス・キリストを「導きの光」、「いのちの光」として与えてくださり、感謝します。主イエスの光に導かれ、その光に生かされるわたしたちとしてください。そして、わたしたちをその光を証しする者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/30/2017