だれでも渇く者は

ヨハネ7:37-39

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7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

 一、からだの渇き

 ここ数十年、アメリカに干ばつの被害が広がっています。そのため、今年の穀物生産は10パーセント減少するだろうと言われています。干ばつというと、アフリカやインドのことを思いうかべますが、じつは、そうした国々よりも、アメリカのほうが生産減少率が高いのだそうです。学者たちは、地球がどんどん砂漠化していると指摘しています。これは世界的に見てとても深刻な問題ですが、作物不足は、すぐに物価に反映しますので、身近な問題でもあるのです。

 水は、地球上のすべての動植物になくてならないもので、わたしたちのからだにとって、最も大切なものです。人間のからだは、赤ちゃんの場合は80%、大人は60%が水分でできています。ギュッと絞れば、太った人もたちまちスリムになりそうですが、そうはいきません。体内の水分が少しでも減ると、すぐに喉が渇き、発熱し、脱水症状になります。脳こうそくや心筋こうそくにかかりやすくなるとも言われています。

 しかし、人間のからだは実に巧妙に造られていて、外から水分を補給できないときは、腎臓の中にあるアクアポリンというたんぱく質が働いて腎臓の中にある水分を血管に戻すのだそうです。腎臓はからだの老廃物を水分とともにからだの外に出す働きをしていますが、水分が足らなくなると、アクアポリンが、からだの外に出すはずのものから、水だけを取り出し、それをからだに戻し、からだに水分を補給します。アクアポリンには水の分子だけを通す小さな穴があって、それで老廃物をろ過します。この仕組みを発見したのは、ジョン・ホプキンズ大学のピーター・アグレで、彼は、このことで2003年にノーベル賞を受賞しています。人体には、このような、いのちを守るしくみが至るところに置かれています。人間が偶然の産物であるとは、とても考えることができません。科学の発見がなされるたびに、神が人体を見事なほどに精巧に作られていることに、わたしたちは驚きを覚えずにはおられません。

 ふつう、成人は一日2リットル以上の水を体外に出しています。2リットルというとペットボトル4本、グラス8杯にあたります。年をとると、先程話しましたアクアポリンの数が減ってきますので、適切に水分を補給する必要があります。多くの人は、十分な水分をとっておらず、私たちのからだは、私たちが思う以上に渇いているのです。

 二、霊の渇き

 そして、からだが渇いているように、わたしたちの心も霊も渇いています。しかし、たましいの渇きや霊の渇きは、からだの渇きのようには、すぐには気付きません。たましいや霊の渇きは、気を紛らわせて渇きから思いをそらせたり、渇きそのものを否定することができるからです。喉が渇いたとき、水を飲まなくても、唇を濡らしたり、飴玉をなめたりしても、喉の渇きが止まります。唇を洗濯ばさみで挟んでも効き目があるそうです。しかし、こうしたことは、口に刺激を与えて渇きの感覚を麻痺させているだけで、必要な水分を補給するものではありません。同じように、たましいや霊の渇きも、その感覚を麻痺させ、それを否定したり、気にかけないようにしたり、また、他のことで気を紛らわせたとしても、それで、渇きがいやされるわけではないのです。

 人は、元気なうちは仕事や趣味、人間関係で、たましいが満たされているように思えても、重い病気になったり、人生の危機に出会うときには、いやされ、満たされていない霊の渇きが表面に出てきます。現代は人の価値を生産性で計りますから、病気をしたり、高齢になっていろんなことができなくなると、自分が価値のない人間になってしまったと感じるものです。自分が何の役にも立たないばかりか、家族や周りの人に迷惑をかけていると考え、いっそう苦しむのです。罪責感に押しつぶされたり、自分の境遇に不満を持ったり、自分の価値に疑問を感じたりします。自分が何のために生きているのか、自分は何者なのかという問いと、その答えを得たいという渇きが表面に表われます。これが、人間だけが持っている「霊の渇き」です。

 この渇きは医学の世界では「スピリッチャル・ペイン」(霊的な痛み)と呼ばれます。ホスピスを始めたシシリー・ソンダースは、ホスピスの目的を「身体的、精神的、社会的、霊的な苦痛の緩和」としました。今までの医学は、病気を直すこと(cure)に力を注いできました。しかし、現実には医学では治せない病気もあります。だったら、病気の人に何もできないかというと、そうではなく、病気の人々を世話する(care)ことはできますし、しなければなりません。そのためにできたのが、ホスピスです。ホスピスでは「身体的、精神的、社会的」ばかりでなく、「霊的な苦痛」にも取り組みます。アメリカでは標準的な病院の認可を受けるには、スピリュアル・ケアができるチャプレンを置くことが義務付けられていますし、ヨーロッパでは教会の牧師や神父が病院に派遣されます。日本では、スピリチュアル・ケアは今まで無視されてきましたが、最近では、その必要が認められはじめています。

 日本の若者たちが、定まった生活ができないで、社会に背を向け、自分だけの世界に閉じこもっているのは、この「霊の渇き」に対する答を持っていないからです。日本では、人生の意味や目的を人に尋ねても答えがなく、社会に求めても返答がありません。「そんなめんどうなことを考えていないで、楽しくやればいいじゃないか」「そんなことを考えていると勉強が遅れるよ。みんなから置いていかれるよ」と言われ、霊の渇きをいやしてくれるものを求めることをやめてしまうのです。

 現代社会はようやく「霊の渇き」に気づきはじめましたが、聖書は何千年も前から、人のたましいの奥深くには、神への渇きがあると教えています。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」(詩篇42:1)とあるように、どの人も、たましいの奥底では、神を知りたい、造り主である神に出会いたい、たましいの親である神に帰りたいという願いがあるのです。この霊の渇きに気づくこと、それが、その渇きがいやされ、満たされる第一歩となるのです。

 三、キリストによていやされる渇き

 そして、この霊の渇きは、イエス・キリストによっていやされます。イエス・キリストは、人の霊の渇きをいやすことができる、ただひとりのお方です。それで、イエスは「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と言われたのです。主イエスの教えでは、どれも、「わたし」という言葉が強調して使われています。「他のものではない、わたしだ」と主はおっしゃるのです。主は、ここで、「霊の渇きはこうすればいやされる、ああすれば満たされる」という、一般的な真理を述べておられるのではありません。主イエスは、はっきりと、「わたし」が「あなたの渇きをいやす」と言っておられるのです。

 イエスはこの言葉を「祭りの終わりの大いなる日に」大声で叫ばれました。この「祭り」というのは、イスラエルで10月ごろ行なわれていた「仮庵の祭り」のことです。この祭りの期間、神殿ではさまざまな儀式が行なわれましたが、そのひとつが祭壇に水を注ぐ儀式でした。祭司は、朝、夕の犠牲をささげる時、シロアムの池に行って金の「かめ」に水を満たし、それを神殿に運び、ラッパの伴奏で「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」(イザヤ書12:3)という言葉を歌いながら、その水を祭壇に注ぎました。それは神が、荒野を旅したイスラエルに常に水を与えてくださったことを覚え感謝するためでした。また、それは同時に、救い主によって永遠のいのちの水が与えられるという預言でもありました。

 しかし、祭壇に注がれた水はやがてかわいていきます。そのように、神殿で行われる宗教行事、ひいては、ユダヤの人々がつくりあげた律法や祭儀から成り立つ宗教のシステムは、人の渇きをほんとうにはいやすことができなかったのです。

 もちろん、神殿での儀式は、聖書によって命じられていたもので、無意味なものではありません。しかし、律法や祭儀は、救い主を指し示し、あかしするということにおいて、はじめて意味を持つものであって、それ自体は、人の霊の渇きをいやすことはできないのです。人々は、そのことに気付かず、律法と祭儀に熱中するあまり、救い主を捨てるという、まるでさかさまなことをしてしまいました。聖書はこの間違いをこう言って指摘しています。「それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。」(エレミヤ2:13)

 これは、ユダヤの人だけの間違いではありません。ユダヤの人たちが「祭り」を好んだように、現代のわたしたちも、「お祭り」が大好きです。どの国でも、様々な分野で、「フェスティバル」があります。オリンピックはスポーツの「祭典」です。教会での行事、活動、フェローシップも、そこにイエス・キリストとの信仰のつながりがなければ、「お祭り」で終わってしまいます。それがキリストの「代替品」になってしまい、かえって人を、真の満たしから遠ざけることもあり得るのです。

 こんな話があります。まだ文明が開けていない国の王様がおともの大臣と一緒に、ヨーロッパの文明国に招かれてやってきました。見るもの、聞くものがすべて驚きで、特に、つまみをひねると水が出てくる蛇口は羨望の的でした。この王様の国では水を汲むために遠くの川まで何マイルも歩いていかなければならなかったからです。それで、王様は大臣に命じました。「とびきり上等の蛇口を買ってこい。それを、わしらの国のあちらこちらにつけるんじゃ。あれさえあれば、みんなは、もう遠くまで水を汲みにいかなくてもよくなるじゃろう。」国に帰った王様は、その蛇口をひねってみましたが、もちろん、水は一滴もでませんでした。蛇口は水道管に、そして、水道管は水源につながっていなければならないからです。これは、笑い話のようですが、大事な事を教えていると思います。私たちも、いのちの水のみなもとであるイエス・キリストにしっかりとつながっていたいと思います。

 主の晩餐でわたしたちが受ける「パン」はイエスご自身です。盃もまた、イエスご自身です。主イエスがわたしを活かす「いのちのパン」そのもの、主イエスがわたしの霊の渇きをいやす「いのちの水」そのものです。主イエスは、晩餐式で、パンと盃を差し出し、「わたしのところに来なさい」と、わたしたちをご自身に向けて招いていてくださっているのです。さあ、主のもとに向かいましょう。そして、主ご自身によって霊の渇きをいやしていただきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、地球も、人のからだも、心も霊も渇いています。なのにわたしたちは、いのちの水のみなもとであるあなたに帰ることをしないで、他のもので渇きを癒やそうとしてきました。他のもので気を紛らわせて、渇いているたましいの声に耳を塞いできました。しかし、あなたはそんなわたしたちをあわれみ、いのちの水であるイエス・キリストをわたしたちに与えてくださいました。いつも、この主イエスのもとに行き、主にとどまり、渇きをいやされ続けるわたしたちとしてください。主の聖名で祈ります。

8/7/2016