イエスの時

ヨハネ7:1-9

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

 一、イエスの兄弟

 今朝の個所にはイエスの兄弟のことが出てきます。イエスには多くの兄弟がいました。マルコ6:3にその名前が出てきます。「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではりませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」とあります。「妹たち」とありますから、ヨセフとマリヤの間にはふたり以上の女の子が生まれたようです。イエスは、ヨセフとマリヤのすくなくても7人の子どもたちの長男としてお生まれになったのです。

 しかし、イエスは、本当の意味ではヨセフとマリヤの子ではありません。イエスは聖書にあるとおり、聖霊によってマリアの胎内に宿った神の御子です。ヨセフもマリヤも、イエスが神の御子であることを知り、認めていましたが、自分たちのこどもとして育てていくうちに、イエスが神の御子であることを忘れてしまうこともあったようです。イエスが十二歳の時、ヨセフとマリヤはイエスを連れてエルサレムに登ったのですが、イエスが行方不明になったことがありました。イエスは神殿で学者たちとディスカションをしておられたのです。やっとの思いでイエスを見つけたマリアは「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜しまわっていたのです。」とイエスをたしなめました。イエスはこれに対して「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と答えました。この時、ヨセフとマリヤは、イエスの語られた言葉の意味を理解できなかったようですが、マリヤはこの言葉を心に留めておいたと聖書にあります。(ルカ2:41-51)イエスが伝道をはじめた時、マリヤは自分が体験した様々なことを通してイエスを信じるようになり、イエスの弟子となって、イエスに従いました。

 しかし、イエスの兄弟たちはイエスを神の御子とは信じていませんでした。イエスは、神の御子でしたが、ヨセフとマリヤの長男として生まれ、他の兄弟たちとなんら変わることなく成長されました。イエスは、こどものころはこどもらしく、また、若者のころには若者らしく、他の兄弟たちと、遊んだり、時にはふざけあったりして過ごされたことでしょう。大工になってからも、腕のいい働き者として重宝され、ヨセフが亡くなった後、イエスは長男として、一家を支えて働いたことでしょう。イエスは弟や妹が成長するのを待ってから伝道をはじめましたが、兄弟たちは、おそらくイエスに頼り切っていたことでしょうから、イエスが、突然のようにして荒野に断食に行き、伝道を始めたことに驚きもし、あるいは腹立たしくさえ思ったかもしれません。兄弟たちは人間としてのイエスには申し分のないお兄さんとして尊敬していたかもしれませんが、イエスがご自分を神の御子として示しはじめると、そのことに反発し、イエスを冷たくあしらうようになりました。イエスの兄弟たちもまた、他の人々と同じようにイエスを自分たちの基準や枠の中でしか見ていなかったのです。

 イエスの兄弟たちのことを考えている時、ひとつの聖書のことばが思いうかびました。それはコリント第二5:16にあるパウロのことばです。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」とあります。「人間的な標準でキリストを知る」というのは、イエスの兄弟たちが、「イエスは俺たちの兄貴じゃないか。」と考え、人々が「あれは、ヨセフの子で大工じゃないか。」と判断したことを指します。「イエスはキリスト教の開祖である。」「世界の偉人のひとりである。」「悲劇の殉教者である。」と、キリストを表面でだけとらえて終わっているのもやはり「人間的な標準」でキリストを推し量っていることになるかもしれません。「私はイエスについていくらかのことを知っている。」とは思っていても、実は、そういった先入観が、本当の意味でイエスを知ることから私たちを遠ざけてしまうのです。パウロは「かつては人間的な標準でキリストを知っていた」と言っていますが、パウロはイエスを「自らを神としたけしからん奴だ。」と長く思い込んでおり、キリストに敵対する者となっていました。しかし、パウロはイエスに直接出会って、イエスが神の御子キリストであることを知りました。そして、その時、彼は百八十度の転換をし、まったく新しい人生を歩み出したのです。パウロは、この言葉に続いて「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)と言っているように、キリストを知ること、キリストが本当には誰であるかを知ることは、私たちの人生を造りかえる力となるのです。私たちも、イエス・キリストを正しく知ることを、心から求めようではありませんか。

 二、イエスの時

 さて、この時、エルサレムではもうすぐ「仮庵の祭り」という、大きなお祭りが始まろうとしていました。ガリラヤの人々も大半が仮庵の祭りのためエルサレムに登っていきました。ところがイエスも弟子たちもまだガリラヤにいたのです。それで、イエスの兄弟たちは、イエスに向かって「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」(3-4節)と言いました。これは、兄弟たちのイエスに対するアドバイスですが、その背後にイエスに対する非難が隠されていますね。「あなたが神の子だと言うのなら、こんなところでうろうろしていないで、エルサレムに行き、大勢の人々の前で奇蹟を行なって、人々をあっと言わせ、人々に自分を認めさせたらどうなんだ。」という気持ちが見えています。それは、兄弟たちがイエスを理解することが出来ず、イエスを信じていなかったからです。

 これに対してイエスは「わたしの時はまだ来ていません。」と答えました。実は、イエスがこのように答えたのは、これがはじめてではありません。ヨハネ二章のカナの結婚式の時、マリヤがイエスに「ぶどう酒がなくなりました。」と言った時にも、イエスはマリヤに「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)と答えました。イエスは「わたしの時はまだ来ていない。」とずっと言い続けられたのですが、過越の祭りのために最後にエルサレム登られた時には「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」(ヨハネ12:23)と言われ、弟子たちと最後の晩餐を守られた時も「父よ。時が来ました。」(ヨハネ17:1)と、父なる神に祈っておられます。イエスが「わたしの時」と言われたのは、イエスがあの十字架にかかられる時のことだったのです。

 普通、「今は誰それの時代だ。」という時、その人が成功している時のことを指します。たとえば、世界中の大部分のパーソナル・コンピュータが、ビル・ゲイツの経営する会社のソフトウェアで動いており、彼が世界一の大金持ちになった時、人々は「今は、ビル・ゲイツの時代だ。」と言ったものです。しかし、彼の会社のソフトウェアよりももっと良いものが出て、そちらがシェアを占めるようになると「ビル・ゲイツの時代は終わった。」と言われるようになるのです。ところが、イエスが人々に受け入れられている時には「わたしの時はまだ来ていない。」と言われ、人々から、また、弟子たちからも見捨てられて十字架につけられる時に、イエスは「わたしの時が来た。」と言われました。しかもイエスはその時を「栄光を受ける時」と言われたのです。イエスが「わたしの時」と言われたのは、一般に考えられていたこととずいぶん違っていたのです。

 イエスは、ご自分の命を捨てることによって、私たちに命を与えて救うという、父なる神からの使命を果たすためにこの世に来られました。イエスにとって、最も大切なことは、父なる神のみこころを成し遂げることであり、神の救いの計画を成就することでした。イエスの兄弟たちが言ったように、イエスには、ご自分の力を人々に示して、人々を自分に従わせることもお出来になりました。その時代を「自分の時代」にしてしまうことも出来たのですが、決してそうはなさいませんでした。イエスは、神から与えられた「時」、つまり「苦しみの時」を目指して歩まれたのです。

 三、私たちの時

 今朝の、イエスとイエスの兄弟たちとの問答から、私たちはいくつかのことを学ぶことができます。

 まず、第一に、神の時を正しく認めるということです。イエスが「わたしの時」と言われた、その時が、人々に受け入れられた時ではなかったように、イエスに従う者たちにとっても、「私の時」は、必ずしも、物事が順調に進んでいる時ではないかもしれません。いやむしろ、私たちにとって最悪と思える時が、「私の時」であるかもしれないということを覚えていましょう。イエスにとっての「時」は、高められる時ではなく低くされる時であり、強くなる時ではなく弱くなる時、命を得る時ではなくそれを失う時でした。しかし、それで終わったのではなく、イエスは低くされることによって高められ、弱くなることによって強くされ、命を失うことによって勝利を得られたのです。同じように、私たちにとって最悪の時、一番困難に思える時が、最善の時、私たちが神に近づき、信仰が深められ、人格的、霊的に成長する時であるかもしれないのです。ローマ人への手紙5:3-4に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とあるように、患難の時には、順調な時には決して手に入れられない貴重な霊的な宝を得ることができるのです。

 創世記に出てくるヨセフは、兄弟たちに妬まれ、エジプトに奴隷として売られました。しかし、良い主人に買われ、一家のすべてを管理するまでになります。ヨセフは、奴隷の身分ではありましたが、主人の家で幸いを得、「今がわたしの時だ。」と思ったかも知れません。しかし、それはヨセフの「時」ではありませんでした。主人の奥さんの誘惑にあって牢獄に入れられ、奴隷の身分よりもさらに低い身分、「囚人」にまで落とされてしまいます。しかし、皆さんもご存じのように、ヨセフはそこからエジプトの王から全権を委任されるまでになるのです。そして文字通り「ヨセフの時代」がやってきました。私たちも、一番苦しい中にある時、何の希望もない暗黒の中に落とされたような時にも、ヨセフのように、そこに「神の時」があることを信じて、神を待ち望みましょう。

 第二は、神の時に従って生きることです。私たちは、しばしば、神のスケジュールに合わせて生きるよりも、自分のスケジュールに神を合わせて生きようとします。母親が子どもに一番よく使う言葉は「早くしなさい!」だそうです。一日は「早く起きなさい。」ではじまり、「早く着替えなさい。」「早く車に乗りなさい。」「早く部屋を片付けなさい。」「早く宿題をやってしまいなさい。」と続き、そして「早く寝なさい。」で終わるのです。また、子どもが母親に一番よく使う言葉も「早くして!」なのだそうです。特に現代のこどもは、望んでいるものがすぐに手に入らないとかんしゃくを起こしてしまいます。「早く」「早く」と言い合いながら、本当に価値あるものを人生に残せないまま、一生を終えるとしたらなんとも残念ではありませんか。

 私たちは、神に対して、これと同じようなことをしているかもしれません。祈ったらすぐに答があり、自分の計画どおりに神が事を運んでくださらないと、信仰をなくしてしまうということがないでしょうか。それはイエスの兄弟たちがイエスに指図したように、神に対して、自分の計画を押し付けることになるかもしれません。神は、私たちのために最善のスケジュールを立ててくださっています。私たちは、神のスケジュールに合わせて生きることを、もっと学ばなくてはならないと思います。

 第三に、家族の救いの時も神の御手の中にあることを認めましょう。ある人は自分の父親にキリストを伝えようとしたら「親に向かって説教するのか。」と叱られ、また別の人は、母親に伝道しようとして、「あなたのオムツを取り替えたのは、わたしだよ。」と、相手にされなかったと話してくれました。身近な家族にキリストをあかしすることは、他の人にあかしするより難しいものです。身近かな人だからこそ、私たちがキリストによってどのように変えられたかが分かってもらえるはずなのですが、かえって、親しすぎて信じてもらえないということもあるのです。イエスの兄弟たちでさえ、イエスを信じなかったのです。

 しかし、あきらめないで祈り続けていけば、必ず「時」がやってきます。イエスの兄弟たちも、この時は「イエスを信じていなかった」のですが、後にイエスを信じるようになりました。使徒の働き1:14に「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とあります。エルサレムに最初の教会が始まる前、百二十人ほどの弟子たちが集まって、聖霊が降るのを待ち望んでいましたが、その中に、イエスの兄弟たちがいたのです。イエスが地上におられた時にはイエスを信じようとはしなかった兄弟たちも、イエスの十字架と復活によって、イエスを神の子キリストと信じる者に変えられたのです。イエスの兄弟の中のひとりヤコブは、迫害によってエルサレムから使徒たちが追放された後も、エルサレムの教会を守り続け、「ヤコブの手紙」を書き残しています。神の時が来る時、家族も救われるのです。その時を待ち望み、忍耐し、祈り続け、あかししていきましょう。

 詩篇に「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」(詩篇31:15)とあります。人生のあらゆる場面で、とりわけ、最も困難な時に、「私の時は、御手の中にあります。」と祈りましょう。苦しい戦いの中でもイエスを見上げて神の時を待とうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたにご自分の時をゆだねられたイエスのお姿から、多くのことをお教えいただき、ありがとうございました。私たちも、イエスにならって「私の時は、御手の中にあります。」と祈ります。困難しか見えない時、何の希望も見えない時も、神はそれらを無駄にはお与えになっておられないことを、私たちに悟らせてください。信仰の光によってあなたの時をみつめさせてください。そうする時、私たちは「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道3:11)と、あなたをほめたたえることができます。私たちをそのような賛美へと導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

6/23/2002