誰のところに行きますか

ヨハネ6:66-69

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

 一、イエスと群衆

 今、日本や韓国ではサッカーのワールドカップで大騒ぎしています。私が子どもの頃、テレビで見るスポーツ(と言っても、テレビそのものが珍しかったのですが)と言えば、相撲と野球ぐらいでした。ところが今では、サッカーをしない子どもがめずらしいぐらい、サッカーは盛んになりました。有名なサッカー選手はスターになり、若い女性のあこがれの的になっています。Jリーグが出来た時もサッカーブームでした。その後、Jリーグの人気も落ち、サッカー・ブームも少し落ち着いたのですが、今回のワールドカップで再びもりあがってきたようです。

 しかし、人々の心は移り変わるもので、ワールドカップが終わったら、サッカー熱もさめてしまうかもしれません。今は、ワールドカップのチケットを手に入れるために血眼になっていた人が、サッカーのことなどきれいさっぱり忘れてしまうということもあるでしょう。本当にサッカーが好きでたまらないというのでなく、回りのみんながそうしているからというので、それに乗って騒いでいるだけの人も結構多いのではないかと思います。

 ブームに浮かれるのは、どうやら、現代人ばかりでなく、古代の人々、イエスの時代の人々も同じだったようです。イエスが伝道を始め、今まで、誰も語ったことのないような、権威あるメッセージを語った時、人々は、こぞって、イエスの話を聞きに集まってきました。イエスは、人々に神のことばを語っただけでなく、足の利かない人を立たせ、目の見えない人を見えるようにし、らい病をきよめ、さまざまな病気を治し、悪霊を追い出すなどの目覚しい奇蹟をなさって、神の力を表わしました。それで、多くの人々がイエスについていくようになりました。特に、イエスが奇蹟によって五千人もの人々にパンを与えた後は、人々がイエスを遠くの町までも追いかけるほどでした。人々の間では、口を開けばイエスのことが話題になるような、ブームが沸き起こったのです。

 しかし、人間は、熱しやすくて冷めやすいものです。イエスが耳障りの良い話だけでなく、人間の内面の罪深さに触れ、イエスご自身に関する真理を明らかにされるようになると、人々は、イエスからひとり去り、ふたり去りしていきました。人々は、イエスについていけばいつでもパンにありつけるわけではないことが分かると、イエスから離れていきました。群衆だけではありません。「弟子」と呼ばれる人たちも、イエスから離れていきました。

 人々は、イエスがご自分が天から来られたお方で、ご自分の血と肉を人々に分け与えると言われた時、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(60節)とつぶやきました。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(53節)というイエスのことばは、たしかにショッキングなものです。しかし、イエスは、こうした過激なことばを使って、大切な真理を人々に悟らせようとされたのです。それは、前回学んだとおりです。「弟子」という言葉には、「習う者」「学ぶ者」という意味があります。彼らが本当にイエスの弟子、イエスから学ぶ者であるなら、その意味をイエスに尋ね、学ぶべきだったのです。また、「弟子」という言葉には「従う者」という意味があります。ところが、この人たちは、イエスに従わず、イエスから離れていきました。66節に「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」とある通りです。この人々は、自分では「弟子」だとは思っていても、本当の意味でのイエスの弟子ではなかったのです。流行に乗って、イエスを追いかけていただけの人々だったのです。

 二、イエスの質問

 スポーツなら、ブームに浮かれ、騒いで終わってもかまわないでしょうが、イエス・キリストを信じる信仰の場合は、そうであったら、イエスが私たちに与えようとしておられる大切なものを得られないままで終わってしまいます。みんながイエスのところに押し寄せてくるといった、いわゆる「ブーム」が下火になり、人々がイエスから去って行った時にこそ、本当の弟子の真価が問われるのです。それでイエスは「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(67節)と、十二弟子に質問されたのです。

 「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」―これは、なんとなく寂しい感じのする言葉ですね。イエスは、多くの人々が自分のところから去っていって、心細くなられたのでしょうか。そうではありません。イエスは、そのお働きを始められた最初から、人目につくことをして、数多くの人々を集めることをなさいませんでした。イエスは、弟子たちを「友」と呼んで、愛し、信頼してくださいましたが、イエスは、常に父なる神により頼んでおられ、決して人をあてにしてその働きをすすめられたわけでもありません。しかし、だからと言って、「去る者は追わず」「わたしから去りたい人は、どこへでも行くがよい」と思っておられたわけではありません。イエスから去って行くことが、何を意味するかよくご存知のイエスは、そのことを悲しく思われたのでしょう。人がイエスに出会いながら、イエスから何も得ないで去って行くなら、なんと残念なことでしょう。光に背を向けて歩いていけばそこに待っているものは暗闇でしかないのです。命から離れて行けば、そこには無力な人生しかないのです。イエスはご自分から去っていく人々を、心からあわれみました。そのお気持ちが「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」という言葉に表れているのでしょうが、この質問は、決してセンチメンタルなものでなく、弟子たちに、「人々は去って行くが、あなた方はどうなのか。本当の弟子として、最後までわたしに従ってくるか」と、イエスに従う覚悟を問いかけるものだったのです。

 教会のインターネット・ホームページの「今月のメッセージ」に「イエスに質問したいこと」という記事を載せました。私は、そこにこう書きました。『ドイツのハンブルグで、七十ヵ所の学校の七歳から十七歳の千八百二十三人を対象に「もしイエスが今日ここにおられたら、あなたは何を話したいか、または聞きたいか」という質問をして統計をとりました。その結果は、「なぜあなたは悪魔に問題を引き起こさせるのか」(六八・五%)、「世界にはなぜ金持ちと貧しい人がいるのか」(五三・四%)、「失業者のために何かをしてほしい」(四五・四%)といったものでした。(世界キリスト教情報サービスによる)』(この続きはホームページでお読みください。)どの質問も、現実的で、ドイツの子どもたちならずとも、私たちも、イエスに聞いてみたい質問ですね。私たちは、数多くの質問を持っています。そして、私たちが真剣に求めた時、イエスは、私たちの人生に起こってくる数々の質問に、聖書によって答えてくださいました。ところが、私たちは、「イエスが私たちに質問したいこと」には、心を留めず、それに答えようとしていないように思います。聖書には、イエスが私たちに問いかけておられることばがいくつかあります。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16:13)「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」(マタイ22:42)あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(マルコ10:38)「あなたは人の子を信じますか。」(ヨハネ9:35)「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25ー26)「あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21:22)イエスは、私たちの人生に深いかかわりのあるこれらの質問を、今も、私たちに問いかけておられます。今、イエスの質問に、真剣に答えようではありませんか。イエスの問いかけに答えることによって、私たちは、豊かな人生へと進み出すことができるのです。

 三、ペテロの答え

 「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」との質問にペテロが答えます。ペテロは、十二弟子のスポークスマンのような人でしたから、この時も、十二弟子を代表して、答えたのです。ペテロの答えはこうでした。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」群衆は、イエスからパンを得られないことを知ると離れていきましたが、十二弟子たちは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」ことを知っていました。ですから、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と、言うことができたのです。ユダヤ人は、イエスが「わたしは天からくだって来た」と言われたのを信じませんでしたが、弟子たちは「私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と、イエスが神から来られた特別なお方であることを信じ、受け入れていたのです。

 イエスは、イエスに従おうとするひとりびとりが、このように、イエスが神の子であり、私たちの救い主であることを言い表わすことを願っておられます。イエスは、イエスの弟子に、他の何を知るよりも、イエスが私たちにとってどのようなお方かを知るように、他のどんなことをするよりも、イエスへの信仰を言い表わすことを願っていらっしゃるのです。最初にお話ししたように、イエスが話題の人だから、みんながイエスについて行くからというのでなく、あなた自身の決断で、イエスを信じることを求めておられるのです。イエスの弟子には、イエス・キリストを自分の救い主として自分の心と人生に迎える、決断が必要なのです。

 日本では戦後「キリスト教ブーム」が起こりました。神社の境内やお寺の敷地にも、テントが張られ、多くの人々がキリストの福音を聞きました。それによって多くの教会が誕生しましたが、「キリスト教ブーム」は長くは続きませんでした。最初は教会に大勢集まっていた人々も、ひとり減り、ふたり減り、人々は教会からも、神からも離れていきました。それは、イエスがたとえ話で話されたように、日本の精神的な風土が「岩地」や「いばら」のようで、なかなかクリスチャンが増えず、教会が育たなかったのです。岩地に蒔かれた種は、芽を出しはしますが、土が薄いために根をはることが出来ず、日が昇ると枯れてしまいました。イエスは、これは困難にぶつかって、すぐにくじけてしまうことだと言われました。日本は、信仰を保つにのに、難しい国です。世界でもトップレベルの技術を持っているのに、古くからの習慣が人々をしばりつけています。それで、信仰を求めていくうえでの困難にぶつかると、そのために信仰の思いを捨ててしまった人が多くいたのです。

 いばらの中に蒔かれた種は、最初は芽を出し、根を持ちましたが、いばらが成長すると、その勢いに負けて、実を結ぶことができませんでした。イエスは、「いばら」とは「この世のこころづかいや富の惑わし」のことだと言われましたが、日本が戦後の復興を果たし、物質的に恵まれてきた時、人々は霊的、精神的なことよりも、物質を追い求め、金銭を崇拝するようになってしまいました。それがつい十数年前のバブルの時代まで続いたのです。

 しかし、そのバブルもはじけて、日本は、混迷の時代に入りました。いろいろな新興宗教が起こり、多くの人々はそれについて行きましたが、どれも人々を救うどころか、人々の心を奴隷にし、その人生を狂わせ、あるものは社会を破壊するものになりました。「オウム真理教」の「サリン事件」はその典型です。今、人々は、何を求めて良いのか、どこに向かっていけばいいのか、誰についていけばいいのか分からずにいるのです。しかし、聖書によって、イエスを知り、イエスを信じた私たちは、どこに行けばいいのか、誰についていけばいいのか知っています。私たちは、ペテロと同じようにこう言うことができます。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」イエスのところに行くこと、イエスに従うことがその答えです。

 私たちは、キリスト教的なものに取り囲まれ、大きな犠牲を払わなくてもクリスチャンでいられるアメリカに住んでいます。岩地やいばらと戦っている日本のクリスチャンに比べて、これは素晴らしい特権ですが、同時に、そのことが私たちの信仰に甘えをもたらしているかもしれません。特権には責任が伴いますが、与えられた責任を見落としてはなりません。恵まれすぎて、真剣に信仰に取り組まないで終わってしまわないよう、注意しましょう。それに、アメリカに住んでいても、私たちは多かれ少なかれ、日本の精神風土をひきずっていて、心の中に「岩地」や「いばら」を抱きかかえたままかもしれません。そんなことを考えると信仰を持つのが難しくなってしまいますが、神には、その岩地を砕き、いばらを焼き尽くす力があるのです。神のことばが私たちのこころに根をおろして、確かな実を結ぶようにしてくださるのは神です。実際、日本にも、神のことばを輝かし、積極的に伝道しているクリスチャンや教会が多くあるのです。ですから、私たちも神の力をいただいて、ペテロと同じようにイエスにお答えしましょう。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

 (祈り)

 父なる神さま。私たちが従っていくべきお方は、イエス・キリスト以外にありません。たとえ、私たちの回りの人がどうあれ、他の人がどこへ行こうとも、私たちはイエスに従います。私たちのまわりには、私たちの決心をくじくようなもの、私たちの信仰を惑わすものがが数多くあります。私たちをそうしたものからお守りください。そして、私たちに「あなたを離れてどこに行けましょう。私はあなたに従います。」と言い表わす信仰をお与えください。そして、私たちを決して悔いることのない人生の選択へと導いてください。そして、私たちが従うべきただひとりのお方、主イエス・キリストを人々に知らせ、このイエスに従う人生のさいわいを分ちあうことができますように。主イエスの御名で祈ります。

6/9/2002