命のパン

ヨハネ6:48-57

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6:48 「わたしは命のパンである。
6:49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
6:51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」
6:52 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか。」
6:53 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
6:57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」

 一、主の晩餐の起源

 初代教会は、晩餐式を、大切なものとして守りました。使徒2:42に「一同はひたすら使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」とありますが、この「パン裂き」とは晩餐式のことです。使徒20:7には「週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時」という言葉があって、主の晩餐は日曜日ごとに守られていたことが推察できます。

 なぜ、教会は、主の晩餐をそのように忠実に守ってきたのでしょうか。それは、晩餐式が主ご自身によって定められたものだからです。主イエスは教会に細かな規則を遺してはいかれず、多くのことを使徒たちに任せられました。後に、教会には使徒たちに加えて、預言者、伝道者、牧師、教師、監督、長老などと呼ばれる人々が立てられ、それらの人々が聖霊の導きに従って教会の礼拝の形を定めていきました。しかし、晩餐式は、そのような過程で作り出されたもの、初代教会の発明品ではありません。それは、ペンテコステに教会が生まれる前に、すでに主イエスによって定められていました。教会は「主から受けたこと」を守り続けてきたのです。

 使徒パウロは晩餐式について「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである」(コリント第一11:23)と言っています。まるで、他の使徒たちと一緒に、最後の晩餐の席にいたかのような口ぶりです。パウロは後になってからキリストを信じ、使徒とされた人で、他の使徒たちのように、主ご自身からパンを受け、杯を受けたわけではありません。しかし、パウロは、使徒たちが教会に伝えた晩餐式の制定の言葉が、主イエスご自身から出たものであることを知り、確信していました。それで、パウロは晩餐式について「主から受けたこと」書いているのです。

 日本では、これから夏にかけて、各地でさまざまな「お祭り」が行われます。それがテレビなどで報道されるとき、アナウンサーは決まって、「この祭りは何百年と、昔ながらの伝統にしたがって、守られています」と言います。わたしは、その言葉を聞くたびに、「クリスチャンは、何百年どころか、二千年も、主の晩餐を守り続けているぞ」と言いたくなります。人々が、人の定めたものを何百年と守り、それに価値を認めているのなら、クリスチャンが、主が定めてくださった晩餐式を忠実に守り、大切するのは、なおのことです。主の晩餐を、教会が決めたことだから、長年そうしてきたからというのでなく、「主から受けたこと」として、これを大切にし、忠実に守り続けたいと思います。

 二、主の晩餐の意味

 主の晩餐は「主から受けたこと」です。そうであるなら、なぜ主はそれを弟子たちにお与えになったのでしょうか。主はそれによって何を伝えようとしておられるのでしょうか。わたしたちはそれにどうこたえるべきなのでしょうか。わたしたちは、そうした主の晩餐の意味を知った上で、それに与りたいと思います。晩餐式の式辞に「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである」(コリント第一11:27)とありますが、ここで言われている「ふさわしくないこと」の中には、習慣的にパンを食べ、杯を飲むだけで、その意味を知ろうともせず、それが意味していることに信仰をもってこたえようともしないことも含まれているのです。

 「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである」という戒めが、初代教会で、すでに語られていたということは、人は、クリスチャンといえども、聖なるものに対して無頓着、無感覚になってしまうことがあるということを教えています。主ご自身が授けてくださった主の晩餐の深い意味・内容を受け取り、それを味わうことによって、聖なるものに対する感覚を取り戻したいと思います。

 マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書には、どれも、主が晩餐式を定めてくださったときのことが書かれています。ところが、ヨハネの福音書にはそれがありません。他の福音書で、晩餐式のことが書かれている部分には、ヨハネでは、主が弟子たちの足を洗われたことが記され、弟子たちへの教えや弟子たちのための祈りが記録されています。ヨハネは、主の晩餐を大切なものとは考えなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。ヨハネの福音書が書かれたときには、晩餐式はすでに、教会の礼拝の中心として確立していました。しかし、何事もそうですが、物事が確立すると、そのとたんに形式化がはじまります。人々は、その意味を考えないで、形だけをなぞるようになってしまうのです。晩餐式にもその危険がありました。それでヨハネは、晩餐式の制定の言葉よりも、晩餐式が意味することを伝えようとし、そのために「わたしは命のパンである」という主イエスの言葉をヨハネ第六章にしるしました。主イエスのこの言葉から、晩餐式の意味を知り、晩餐式がわたしたちに求めているものに、こたえていきたいと思います。

 三、主の晩餐の神秘

 ヨハネ第六章は、主が、わずかなパンで、大勢の群衆を満腹させた「パンの奇蹟」を描いています。この奇蹟は四つの福音書すべてに記されていますが、ヨハネの福音書に一番詳しく書かれています。ヨハネには、パンの奇蹟の後に起こった主イエスとユダヤ人との論争も書かれています。

 この論争は、主イエスが「わたしは命のパンである」と言われたことからはじまりました。そして、主イエスが「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」と言われたとき、人々の怒りは爆発しました。人肉を食べ、その血をすするなど、聞くだけでも恐ろしいことです。人々がこの言葉に反発したのは当然と言えば当然です。いったい、主イエスは、なぜ、こんな過激な言葉を使われたのでしょうか。それによって、何を言おうとされたのでしょうか。

 それは、主イエスの奇蹟によって満腹した人々が、イエスを「王」にしょうとしたからです。人々は、イエスを自分たちの王にし、ローマに反抗して、ユダヤの独立を勝ち取ろうとしました。こんなすごい奇蹟を行うことができるイエスを王にすれば、籠城しても食べ物に困ることはないと考えたのでしょう。しかし、それは主イエスがなそうとしておられた、人々のたましいの救いとは全く別のことでした。主イエスが世に来られたのは、ユダヤ人を政治的に救うためではありませんでした。ユダヤ人も含め、すべての人を罪から救うために来られたのです。そして、そのために、自らのからだを差し出し、血を流してくださいました。主イエスの肉を食べ、その血を飲むというのは、人の罪を赦し、人を罪からきよめ、人を生かすためにご自分を差し出された主イエス・キリストを信じ、受け入れ、このお方に従うことを意味しています。主イエスは、ご自分の救い主としての使命を理解せず、それを捻じ曲げて、自分たちの都合の良い救い主に仕立てあげようとしていた人々に、その過ちを示ために、わざと激しい言葉を使われたのです。

 神の民と呼ばれたユダヤの人たちが救い主が来られた目的を正しく理解していなかったのは驚きですが、今日も、多くの人が同じように、主イエスを正しく理解せず、主イエスを自分の好きなように考えています。アメリカでは、日本人でも「キリスト教は嫌いだ」という人は多くは無いと思います。ほとんどの人が、イエスについて正確な知識はなくても、偉大な人物として尊敬しています。キリスト教に好意を寄せ、教会に来ることにもあまり抵抗はありません。しかし、人々は、イエスを主として信じ、従うことに抵抗します。そうした人々の人生の主体は、あくまでも自分であって、イエスも、キリスト教も、また、教会も、自分が目指す人生を達成する「手助け」、自己実現の「手段」でしかないのです。そのようにイエスが正しく理解されていないことはとても残念なことです。

 人は、イエスが誰であるかを知ることなしには自分が何者であるかが分からず、イエスが何のためにこの世に来られたかを知ることなしには、自分の人生の目的を見出すことができないからです。信仰は、イエスが人の罪を赦し、人を生かすために来られたことを知ることからはじまります。イエス・キリストを正しく知り、信じた人は、自分の力で自分のために生きてきた人生から、主イエスの命で主のために生きる人生へと変えられるのです。主イエスの命によって生かされることによって、イエスが「わたしが命のパンである」と言われたことの意味を悟るのです。

 日本人は食事の前に「いただきます」と言って、食事に感謝します。すべての食物は、もとは、命あるものでした。わたしたちは、その命を「いただいて」自分の命を保っています。「いただきます」という言葉は、「命をいただきます」という意味です。クリスチャンはイエス・キリストがすべての人のために十字架で死んでくださった、その命を「いただいて」生かされています。主の晩餐は、この救いの神秘を目に見える形で表わすものです。ガラテヤ2:20に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」とある信仰の奥義を体験させてくれるものです。

 「キリストはわたしを生かすために十字架で死なれた。」「わたしはキリストによって、キリストのために生かされている。」このことは、一度それを悟れば良いというものではありません。口ではイエスを主と呼んでいても、実際の生活では、自分が主になり、王になってしまうことがあります。ですから、毎日食事を取り、それによって命を保っているように、わたしたちは、命のパンである主イエスを毎日食べる必要があるのです。

 ヨハネ六章の「食べる」という言葉には、他のところで使われている(εσθιω)とは違う言葉(τρογω)が使われています。それは、動物が餌をガリガリかじりとる様子を表わす、非常にリアルな言葉です。この言葉は、信仰者と主イエスとの関係が、単にイエスを頭で理解し、心で受け止めるだけのものではないことを表わしています。主イエスを「食べる」とは、主イエスとの人格と人格のまじわりを深めていくことです。時間をかけて主の恵みを味わうことです。たとえ、罪を犯すようなことがあっても、その赦しを願って祈ることです。自分の弱さに負けたとしても、不信仰と格闘しながらであっても、主に近づいていくことです。信じる者は、そのようにして、まことの食べ物としてご自身を差し出してくださった主イエスを食べ、噛み砕き、消化していき、実際の生活の中で信仰を働かせていくのです。

 晩餐式では、ほんの小さなパンしか差し出されません。しかし、実際は、この小さなパンと共にもっと大きなパンが差し出されているのです。イエス・キリストという大きなパンです。この晩餐式で、「命のパン」である主イエスを「食べる」ことによって信仰の命を養われたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストによって、わたしたちのために晩餐式を備えてくださいました。晩餐式をくりかえすたびに、主イエスが「わたしが命のパンである。…わたしを食べる者もわたしによって生きる」と言われたことの意味をさらに深く悟らせてください。そして、この晩餐式によってわたしたちを生かし、ここからはじまる一ヶ月を、主によって生かされ、主のために生きる日々へと変えてください。主イエスのお名前て祈ります。

6/5/2016