恐れのない人生

ヨハネ6:16-21

6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
6:18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
6:19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

 母の日おめでとうございます。今年の母の日は、男性の賛美でとても盛り上がりましたね。心のこもった賛美をありがとうございました。

 母の日は、喜びの日ですが、ある人にはすこし寂しい思いをする日かもしれません。私は、小学生の時に母親を亡くしましたので、母の日はとても複雑な思いで過したことを覚えています。また、子どもさんを持っておられない方々にとって、「母の日」はすこし心痛む日かもしれません。しかし、聖書は、母親になるのは、出産を通してだけではない、むしろ、人々を愛し、守り、人々に仕えることによって、誰でも精神的、霊的な意味で母親になることができると教えています。私たちの神は「父なる神」と呼ばれていますが、教会は「母なる教会」と呼ばれてきました。私たちの多くは、教会で、霊的な「お母さんたち」に祈られ、導かれて、信仰を持ち、クリスチャンとして成長してきました。そのような霊の「お母さんたち」に感謝すると共に、私たちもそのようなひとりびとりになって、「母なる教会」の役割を果たしていきたいと思います。母親の顔を知らない人でも、母親を早く亡くした人でも、教会で母親のような人に出会うことができます。子どもを産まなかった人でも、子どもを亡くした人でも、キリストにあって母親としての役割を果たすことができます。そんな意味で、今日の母の日を、すべての人の祝日としてご一緒にお祝いいたしましょう。母の日の祝福のために一言お祈りして、今朝のメッセージをとりつがせていただきます。

 「父なる神さま、あなたは、私たちを母の胎内で組み立て、私たちを母親を通してこの世に生まれさせてくださいました。そして、母の保護と養いによって、肉体の命をはぐくんでくださいました。心から感謝をいたします。同じように、あなたは、私たちを聖霊によって新しく生み、霊的な命を与えてくださり、母なる教会で、信仰の母たちを通して、ここまで信仰をはぐくみ、信仰の生活を守ってくださったことを感謝いたします。この母の日に、私たちにそのような母たちを与えてくださったあなたの恵みをおぼえます。そのような母たちにあなたからの豊かな報いと祝福を与えてください。私たちに、あなたの戒めのとおり、父、母を敬い愛する思いを与えてください。あなたから来る愛で、私たちをも多くの人の信仰の父とし、母としてください。主イエスの御名で祈ります。」

 一、人生の嵐

 先週は、イエスがわずかなパンで五千人もの人々に十分な食べ物をお与えになったことを学びました。イエスは、パンの奇跡に続いて、今度は、湖の上を歩き、嵐を静めるという奇跡をなさいました。この奇跡を体験したのは、十二人の弟子たちだけでしたが、この奇跡も、先のパンの奇跡に劣らず、大きな奇跡であり、私たちに多くのことを教えています。

 イエスが嵐を静めた奇跡が教える第一のことは、私たちの人生にはかならず嵐がやって来るということです。弟子たちが舟を漕ぎ出した時には、静かだった湖が、急に荒れ、舟が沈みそうになりました。そのように、平穏無事だと思っている矢先に、嵐がやってきて、私たちの人生を根底から揺るがすようなことがあるのです。昨年9月11日以来、アメリカはその嵐に巻き込まれ、私たちの生活も大きな影響を受けました。アメリカの経済の象徴であるワールド・トレード・センターの二つのビルが、そこで働いていた何千もの人々とともに崩れ去ったことは、富も繁栄も、決して私たちに襲ってくる嵐から私たちを守ることができないということを物語っているようです。シリコンバレーの景気が絶頂期のころには、多くの学生たちが学校をやめて、情報技術関係の会社に入りました。多額の給料をもらい、高級車を支給されて、生活をエンジョイしたのですが、その人たちが今ではレイオフに遇い、残ったのは、大学のローンだけという話を聞いたことがあります。どんなに経済的に恵まれても、多くの場合、それは一時的なものにすぎません。また、どんなにお金があっても、それで人は幸福を買うことができません。お金がありすぎると、それが、夫婦の不和や家庭の問題の種になるということもよく聞きます。多くの資産家たちが、どんなに惨めな晩年を過したか、皆さんもよくご存知でしょう。それに、お金があって、家庭が恵まれていても、いつ病気という嵐が襲ってくるかもしれません。健康に気をつけ、エクササイズに励んでいたとしても、どの人にも、かならず最後の嵐、死がやってくるのです。それは誰にも避けることはできないのです。

 イエスの弟子たちの多くは、ガリラヤ湖の漁師たちでした。ガリラヤの湖は、まるで自分の庭のように知り尽くしていました。そこで舟を操ることは、ほとんど苦労しないでもできることでした。しかし、弟子たちは、自分たちの慣れ親しんだ場所で、しかも、一番得意としていたはずのこと、舟を走らせるということができなくなったのです。そして、前にも進めず、後ろにも退くことができず、湖の真中で、嵐に巻き込まれて立ち往生してしまったのです。多くの人は「ここなら安心」、「このことだったら大丈夫」、「他の人はいざ知らず、私だったら十分切り抜けられる」と思っているかもしれません。「日本だたら自分の国だから大丈夫」と思っている人にも、「アメリカはクリスチャンの国だから安心」と思っている人にも、人生の嵐は吹き荒れ、私たちの自信を吹き飛ばしてしまうのです。

 人生の嵐は、神を信じる人にも信じない人にも同じように襲ってきます。イエスは、「岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人」とのお話をなさいました。「岩の上に家を建てた人」というのは、キリストを信じ、キリストに従い、みことばを実行して生きる人々のことで、「砂の上に家を建てた人」というのは、そうでない人々のことを指します。キリストとそのことばは、私たちの人生の土台だということを、イエスはそのお話の中で教えておられます。イエスは、砂の上に建てられた家には雨や、洪水、風が打ちつけたが、岩の上に建てられた家には、雨も降らず、洪水も及ばず、風も吹き付けなかったと言ってはいませんね。岩の上に建てられた家にも、砂の上に建てられた家と変わらず、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた」と言いました(マタイ7:25)。キリストを信じる者にも、信じない者にも同じ人生の嵐は吹きつけるのです。しかし、キリストを信じる者とそうでない人とでは、嵐に耐える力が違うのです。神を信じる人は、神を信じない人よりも、健康で長生きし、幸せな生涯を送っている比率が高いという統計がありますが、それは、神を信じる人たちが災いに合うことがあまりなく、苦労も少ないからではなく、同じような精神的、経済的な危機を迎えても、また、もっとひどい病気になっても、神を信じる者は、そうしたものを乗り越えていく力を持っているからです。神は、神を信じる者にそのような力を与えてくださるのです。

 二、人生の主

 イエスの奇跡が教える第二のことは、イエスが人生の嵐をもコントロールしておられるということです。イエスは、嵐に悩む弟子たちのところに、水の上を歩いて近づいてこられました。しかし、舟が沈まないようにするのが精一杯の弟子たちは、自分たちに近づいて来る人影がイエスだとは知るよしもありません。弟子たちは、それを見て、恐ろしさのあまり「わーっ、幽霊だ。幽霊だ。」と叫び声を上げたとマタイの福音書は言っています。大の男たちが、しかも、イエスの弟子たちが船底に頭をつけて、がたがた震えている様子を想像することができますか。彼らはつい先ほど、イエスが五千人の人々に食べ物を与えたという奇跡を体験したばかりです。イエスの偉大な力を目にしたばかりです。なぜ、神に祈らなかったのでしょう、イエスの御名を呼ばなかったのでしょう。弟子たちは、嵐の真っ只中で、イエスのことを忘れてしまったのです。人は、あまりにも苦しい状況に陥ると、分かっているはずのことも分からなくなり、今まで見えていたものが見えなくなることがあります。吹き荒れる嵐が、あたかもすべてであり、それが自分たちを完全に支配するものであるように感じてしまうのです。病気や不幸、そして、人の冷たい態度や、自分の心を傷つけた言葉などに打ち負かされると、知らず知らずのうちに、そうしたものに自分を支配させてしまうようになってしまいます。

 しかし、病気や不幸は、それがどんなに大きなものであっても、それが私たちの人生の主になってはならないのです。人の態度や言葉に支配されてはならないのです。私たちの本当の主は、イエスです。イエスが問題の嵐や、自分を苦しめるものの上におられる主なのだということを覚えましょう。イエスはそのことを教えるために、水の上を歩いて弟子たちのところに近づいてこられたのです。ヨブ記に「彼が日に命じられると、日は出ない。彼はまた星を閉じこめられる。彼はただひとり天を張り、海の波を踏まれた。彼は北斗、オリオン、プレアデスおよび南の密室を造られた。彼が大いなる事をされることは測りがたく、不思議な事をされることは数知れない。」(ヨブ9:7-10)と書かれています。「彼は…海の波を踏まれた。」とあるように、イエスは、文字通り、弟子たちを悩ましているガリラヤ湖の大きな波を、叱るようにして踏みつけ、弟子たちを恐れから解放してくださったのです。今も、イエスは、同じように、私たちを取り囲む人生の嵐を、その大波を踏みつけて、私たちのところに来てくださるのです。そして、イエスが来てくださるなら、私たちは嵐の中から救い出されるのです。

 私たちは、イエスの力を知らず知らずのうちに制限してしまうことがあります。この奇跡は、イエスの力が、悩んでいる者を慰めるという精神的な分野、病気の人を治すという医学的な分野だけでなく、自然界にも働いているということを示しています。ヨハネの福音書2章で、イエスが水をぶどう酒に変えた奇跡は、物質の性質を変化させた奇跡ということが出来ます。イエスは、ケミストリー、化学の分野を知り尽くし、支配しておられるのです。先週学んだパンの奇跡では、イエスがわずかなパンを大きく増やしました。それは、物質の質量を変える物理的な分野にもイエスの力が及んでいるということを表わしています。そして、今朝の個所に描かれている、イエスが嵐を静めた奇跡は、イエスの力が自然界のすべてに及んでいることを宣言しているのです。イエスが主であるのは、宗教や道徳の分野だけではありません。イエスは、生物の世界も、化学の世界も、物理の世界も、気象も、自然も、天体も、世界のありとあらゆる力の上におられるお方で、すべてのものは、イエスの支配のもとに置かれます。私たちのところにイエスを来させないようにすることができるものは何一つありません。どんな問題であれ、苦しみ、痛みであれ、イエスは、それを踏みつけ、その中から、私たちを救うために近づいてこられるのです。あなたの周りの嵐にだけ目を留めず、すべてのものの主であるお方があなたに近づいて来てくださっているのを、信仰の目をもって見つめようではありませんか。

 三、人生の同伴者

 この奇跡が教える第三のことは、このすべてのものの主が、私たちと共に人生を歩んでくださるということです。イエスは、恐れ、おびえている弟子たちに、「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけてくださいました。暗い夜の湖の上でイエスの顔は見えなかったかもしれませんが、弟子たちは、その声を聞いて、ほっとしたことでしょう。もちろん、弟子たちは「イエスを喜んで舟に迎え」ました。イエスが舟にのりこまれると、先ほどまでの嵐がまるで嘘のように静まり、「舟はほどなく目的の地に着いた」のです。詩篇107篇にこの21節とそっくり同じ表現が出てきます。「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」(詩篇107:28-30)ヨブ記の「海の波を踏む」という表現、詩篇の「主は、彼らをその望む港に導かれた」という表現は、いずれも、神の全能のわざと、あわれみのわざを言い表わしているのですが、それがそのままイエスのなさったことにあてはめられているのは、イエスが全能の神であり、私たちの人生を導いてくださる主であるということを表わしています。

 しかし、新約聖書には、旧約の時代には十分に明らかにされていなかったことがもっとはっきりと示されています。それは、神が天にいて、私たちの上から私たちを導いてくださるというだけでなく、神が私たちの側に来て、私たちを導いてくださるということです。イエスは、弟子たちの舟に乗り込んでこられ、弟子たちと一緒に向こう岸まで行ってくださいました。そのように、イエスは、私たちに天から命令や指令を与えるのでなく、悩み、苦しんでいる私たちの側に来て、「わたしだ。恐れることはない。どんな苦しみや悩みが襲ってきても、あなたはひとりではない。わたしが一緒にいる。」と語りかけてくださるのです。イエスは、人間のあらゆる苦しみをなめられたお方です。イエスは貧しさを知っておられます。誤解され、中傷された人の痛みを知っておられます。イエスは裏切りさえも体験され、そして、私たちがとうてい理解できない十字架の苦しみを耐え忍ばれたお方です。イエスは全能の神であると共に、人生の喜怒哀楽のすべてを私たちと共に味わってくださったお方です。このお方が、私たちと共に人生を歩んでくださる、それが、新約で明らかにされたメッセージなのです。

 イエスと共に歩む人生、それこそが恐れのない人生です。人生の嵐は誰にもやってきます。しかも、私たちひとりびとりは、どんな嵐にも耐えられるほど強くはありません。しかし、イエスが私たちと共にいてくださいます。私たちは、このイエスに守られ、導かれて、人生の目的地に向かうのです。この夏、多くの方々が、他の州に、日本に、また他の国に向かっていかれます。新しい環境に向かっていく時、不安があり、恐れを感じることでしょう。しかし、主が共にいてくださることを覚えてください。弟子たちがイエスを喜んでその舟に迎え、イエスがその舟に乗り込まれように、おひとりびとりの新しい旅立ちに、イエスが共にいてくださるよう心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神さま、世界は恐れに満ちており、私たちの人生もそうです。あなたは、私たちに「恐れるな。」と命じるだけでなく、「わたしだ。恐れるな。」と、イエスさまによって、あなたが私たちの側にいることを示して、私たちを恐れからお救いくださいました。私たちは、人生の中で、これからも、さまざまな恐れを持つことでしょう。そのつど、イエスさまが私たちに「わたしだ。恐れるな。」と語りかけていてくださることを思い出すことができますよう、今朝、このことばを心に留めさせてください。私たちと共にいてくださるイエス・キリストの御名で祈ります。


5/12/2002