みことばを信じて

ヨハネ4:46-50

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4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。
4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。
4:48 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」
4:49 王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」
4:50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。

 ヨハネの福音書には、イエスが行われた数えきれないほどの奇跡の中から、7つの奇跡が選ばれ、書き残されています。第1は「水をぶどう酒に変えたこと」(2:1-11)、第2は「役人の子を癒やしたこと」(4:46-54)、第3は「長年、病気だった人を癒やしたこと」(5:1-9)、第4は「5千人にパンを与えたこと」(6:1-14)、第5は「水の上を歩いたこと」(6:16-21)、第6は「盲人の目を開けたこと」(9:1-13)、そして、第7は「ラザロを生き返らせたこと」(11:1-46)です。奇跡は「しるし」と呼ばれていて、それはイエスがどんなお方であるかを示すものでした。

 第1の奇跡で、イエスは水をぶどう酒に変え、ご自分が創造主であることを明らかにされました。そればかりでなく、その奇跡を婚礼のときに行われることによって、ご自分を信じる者を「花嫁」とし、ご自分が「花嫁」愛し通される「花婿」であることをも示してくださったのです。第1のしるしは、まさにイエスの「愛のしるし」でした。

 では、第2のしるしは、私たちに何を教えているのでしょうか。

 一、父親の願い

 イエスが再びカナに行かれたとき、カペナウムから「王室の役人」がやってきました。「王室」というのは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの宮廷のことです。ヘロデ・アンティパスは、自分の兄弟の妻を奪い自分のものにしたので、バプテスマのヨハネから責められた人物で、民衆からは嫌われていました。その宮廷の高官が、田舎町の民衆の民衆のところにやって来たのです。彼は民衆を嫌い、民衆も彼を嫌っていたかもしれません。しかし、この役人は、真剣でした。子どもの病気が悪くなり、生きるか死ぬかの瀬戸際だったからです。イエスがカナにおられると聞いて、カペナウムから急いでやってきたのです。

 カペナウムとカナとは、およそ40キロメートル、25マイル離れています。今では、車に乗れば何でもない距離ですが、この時代、徒歩では、山沿いの道で8時間、海沿いの道なら9時間かかりました。この役人がイエスに会ったのは「第七時」、つまり、午後1時ごろですから(52節)、彼は、まだ夜が明けないうちにカペナウムを発ったことになります。その熱心には、ヘロデの宮廷の高官の姿はなく、子どもを愛してやまない一人の父親としての姿が見られます。

 聖書には、子どものために癒やしを願った父親や母親のことが多く書かれています。会堂司であった父親(マタイ9:18-23)、カナン人の母親(マタイ15:21-29)、てんかんの子の父親(マタイ17:14-18)などが、わが子の癒やしを熱心にイエスに願っています。天の父が、子を思う「親の心」をご存知でないわけはありません。そして、御子イエスが御父のみころをご存知でないわけはないのです。自分のためではなく、他のために心を込めて祈る「とりなし」を、神は聞いてくださり、イエスはそれに答えてくださいます。

 二、父親への言葉

 ところが、イエスは、この父親に、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません」と言われました。イエスらしくない冷たい言葉に聞こえますが、イエスは本当に冷たい心でそう言われたのでしょうか。いいえ、それは、この父親をほんとうの信仰に導くための言葉でした。

 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」この言葉の主語が「あなた」ではなく、「あなたがた」となっているように、これは、この父親一人に語られたものではなく、当時のユダヤの人々、ひいては、聖書を読むすべての人に向けて語られたものです。コリント第一1:22に「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します」とあるように、人は、「奇跡を見せてくれたら、神を信じよう」、「神の存在を理性で証明できたら信じよう」などと言います。それは、自分が神の上に立って、神の存在やご性質、また、みわざを判断しようとするもので、決して信仰の態度ではありません。「しるしを要求する」ことは、自分にとって都合の良いこと、つまり、「ご利益」を求めることにつながります。「ご利益信仰」という言葉がありますが、それは、自分の都合の良いように、神を利用しようとする態度のことを言います。

 イエスは、この父親の願いを聞き入れ、その子どもを癒やそうとしておられましたが、この父親の信仰が、他の人々と同じように、「しるし」だけを求め、ほんとうには神を受け入れようとしない「ご利益信仰」にならないようにと願われました。イエスを病気治癒の祈祷師としてではなく、救い主、主として信じるよう求められたのです。

 イエスは、カペナウムに行くことをいとわれなかったと思いますが、それでは時間がかかりすぎ、その子の命が失われてしまうかもしれません。それで、遠く離れたところにいる病気の子どもを、その場で、すぐさま癒やされました。そして、「行きなさい。あなたの息子は治ります」と言って、父親を家に返しました。

 この奇跡(しるし)では、イエスが「癒やし主」であることが示されています。しかし、この時、カナから25マイル離れた病気の息子を癒やしておられますから、この「しるし」は、イエスが、空間を超えて働かれる神であることをも示すものだったのです。

 神は、空間を造られたお方ですから、ご自分がそれに縛られることはありません。神は、場所に縛られることなく、どこにでも存在されます。そのことを「遍在」(omnipresence)と言います。分かりやすく言えば、「神はどこにでもおられる」ということです。詩篇139にこう言われています。「私はどこへ行けるでしょう。/あなたの御霊から離れて。/どこへ逃れられるでしょう。/あなたの御前を離れて。たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って/海の果てに住んでも。そこでも あなたの御手が私を導き/あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7〜10)

 イエスは、弟子たちを地上に残して昇天されるとき、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われました。このお言葉の通り、イエスは天におられながら、同時に弟子たちと共におられました。マルコ16:20に、「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」とあります。福音が全世界に伝えられ、信じる人々がどんなに増えても、イエスは、いつでも、どこででも、その一人ひとりと共にいてくださいます。私たちが遠くにいる人たちのために祈ることができるのは、イエスが空間を超えてその祈りを働かせてくださるからです。祖国のために、また遠い国々のために、遠くにいる家族や友人のため、イエスのお名前によって祈る祈りは海を越え、山を越えて働きます。イエスのお名前はなんと力強いことでしょうか

 三、父親の信仰

 さて、この父親は、イエスをカペナウムに連れて来ることはできませんでしたが、「あなたの息子は治ります」と言われた、イエスの「言葉」を信じて帰りました。「イエスの言葉」を持ち帰ったのです。その帰り道、自分のしもべに会い、息子が治ったことを知りました。その時間を尋ねると、それは、イエスが「あなたの息子は治ります」と言われたその時と、ぴったり一致していました。父親は、最初、イエスの言葉を信じて、家に帰りましたが、癒やされた息子を見て、イエスご自身を、全家族と共に信じる者となりました。イエスが空間を超えて働かれるように、イエスの言葉も、空間を超えて、イエスの語られた通りのことを実際に起こすのです。御言葉を信じることは、なんと大きな力でしょう。このようにして、この父親は「しるし」に基づく信仰ではなく、「御言葉」に基づく信仰へと導かれました。イエスのお力だけでなく、イエスご自身を、神として信じる、人格の信仰へと導かれたのです。

 神の言葉を信じる信仰。それは、神が、はじめから人に求めてこられたものです。ローマの百人隊長は、自分のしもべの癒やしをイエスに願い、イエスは「行ってあげよう」と言われたのですが、百人隊長は言いました。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(マタイ8:8)この百人隊長は、ローマ人でありながら、「しるし」よりも、「御言葉」を求めたのです。それでイエスは、「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」(同8:10)と言って、その信仰を褒められました。

 使徒パウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します」と言った後で、「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです」(コリント第一1:23、24)と言っています。キリストを宣べ伝える「福音の言葉」、「神の言葉」が人を救うのです。神は、宣教の拡大のために、それぞれの時代に様々な「しるし」を与えてくださいました。しかし、マルコ16:20は、「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」と、第一のものは「みことば」で、「しるし」は、私たちが御言葉をより一層確信するための補助的なものであると言っています。

 「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った」(50節)とあるように、私たちも、御言葉を信じ通して、御言葉が実現するのを体験したいと思います。「彼自身も家の者たちもみな信じた」(53節)とあるように、御言葉の証しによって、家族が、身近な人たちが信仰を持つように祈り、励みたいと願います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなは、私たちが救われ、成長し、ついには御国に入ることができるために「御言葉」をくださいました。不確かな人の言葉や、自分の考えではなく、聖霊が聖書によって与えてくださった確かな「御言葉」を信じ、「御言葉」を日々の生活の光として歩む私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/28/2024