わたしがそれです

ヨハネ4:25-26

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4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 一、永遠のいのち

 イエスがサマリヤの町の井戸端に腰をおろして休んでおられると、ひとりの女性が水を汲みにきました。イエスは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と声をかけました。彼女は、その言葉に驚いて、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と答えました。当時、ユダヤの人は、サマリヤの人々を見下げており、サマリヤ人と袖を触れ合っただけで、入念に手を洗って、きよめの儀式をしたほどでした。サマリヤの女は、ユダヤ人であるイエスのほうから自分に語りかけてきたので、それに驚いたのです。

 そんなサマリヤの女に、イエスは「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(ヨハネ4:10)と言われました。イエスが言われた「神の賜物」というのは「永遠のいのち」のことです。「永遠のいのち」、それは、ヨハネの福音書のテーマです。ヨハネの福音書は、「永遠のいのち」とは何か、どうしたらそれを受けることができるのかを教えるために書かれたと言ってもよいでしょう。

 「永遠のいのち」と聞くと、多くの人々は、「不老不死」を連想するかもしれません。「いつまでも若く、長生きしたい。」これはいつの時代の、どの国の人たちにも共通した願いです。中国の秦の始皇帝は、家来に不老不死の薬を作らせ、それを飲みましたが、それには水銀が入っていて、始皇帝は水銀中毒のためかえって命を縮めました。「竹取物語」ではかぐや姫が天皇に不死の薬を送りますが、天皇はそれを日本で一番高い山の上で焼くように命じました。それで、その山は「不死の山」(富士の山)と呼ばれ、そこからはいつも煙が立ち上るようになったとあります。アメリカにも、フロリダに「若返りの泉」があるという伝説があります。

 しかし、聖書が教える永遠のいのちは「不老不死」ではありません。古代ローマの哲学者セネカは『人生の短さについて』という文章の中で、「人生は短いのではない、人間がそれを短くしてしまっているのだ」と言いました。一日一日を大切に生きていない、一日一日を活かしきっていないという意味です。それは、聖書が教えていることで、イエスは「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:31-34)と言われました。使徒ヤコブは、神を度外視して、まるで何年でも生きられるかのように思っている人々に対して、こう教えています。「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」

 セネカは、思い煩いや、欲望にとらわれて、日々を真剣に生きていないことを「怠惰な多忙」と呼びました。「怠惰な多忙」とは、少しドキッとさせられる言葉です。それは「多忙な怠惰」と言い換えることもできます。忙しくはしているけれど、ほんとうに人を生かすもののためには怠惰であるという意味です。アメリカ人や日本人は勤勉な働き者で、決して「怠惰」ではありません。忠実に仕事をこなした上で、さらにスキルを高めるため勉強を続け、こどもにも、学校の勉強以外に様々な習い事をさせています。ソーシャル・グループの会合に顔を出し、人とのつながりを保つ努力をしています。なにより家族を大切にし、家族の絆を強めるためのものには努力を惜しみません。情操を養うためさまざまな芸術や文化活動にも参加しています。決して「怠惰」ではありません。生活の質を高めるために努力しているのですが、そこには、霊的ないのちを養うものが欠けています。イエスは「人のいのちは持ち物にはよらない」(ルカ12:15)と言われました。イエスが言われた「持ち物」には、目に見える「財産」のことだけでなく、趣味、スポーツ、芸術、教養、社交、エンターテーメントなども含まれるでしょう。人々は、たくさんのものを生活に取り込み、毎日が忙しければ、それで生活が豊かになる、人生が充実すると思い込んできました。しかし、そうしたものの中にはほんとうの豊かさがないこと、忙しくすることがかえって、心を滅ぼしていることに気付きはじめています。そして、本当の意味で自分を生かしてくれる霊的な「いのち」を求めはじめています。

 聖書が教える「永遠のいのち」とは「不老不死」のことではありませんし、また、「生きがい」や人生を楽しむことができる「心の余裕」などといったものでもありません。それは、人が神に向って生きるためのいのちです。聖書が「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」(エペソ2:1)と言うように、人は、罪によってこのいのちを失っていました。人はからだを持った霊ですから、霊のいのちとからだの命の両方が必要なのですが、罪によって、霊のいのちを失っていたのです。からだは生きていても、その霊は死んでいたのです。死んだ人にはいくら呼びかけても返事をせず、どんなにゆすっても動きません。そのように、人は霊的に死んでいたときには、神のことばが語られてもそれに耳を傾けることも、神のことばに込められた神の愛を理解し、それを感じることも、まして、その愛に答えて、神のために生きることもありませんでした。しかし、人が永遠のいのちを受けるなら、それは、その人の中で成長していき、その人は神のことばを喜び、神の愛を知り、感じ、神を愛して生きるようになっていきます。からだの命は、生まれたときは、誰もが100パーセントを持っています。しかし、この命は減っていく命です。いつかはゼロになり、人は死を迎えます。しかし、霊のいのちは、増えていくいのちです。生きている間にこのいのちを受けた人は、からだの命が無くなっても、このいのちによって生き続けるのです。このいのちによって、神とともに永遠を過ごすことができるのです。それで、聖書は、この霊的ないのちを、「永遠のいのち」と呼んでいます。これこそが、イエスが私たちに与えようとされた「神の賜物」です。

 二、キリスト

 イエスは、サマリヤの女に、「もしあなたが神の賜物を知り…」と言われたあと、「あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら…」と言われました。サマリヤの女は、自分に「水を飲ませてください」と言った人が、ユダヤ人であることは知っていました。ユダヤ人なのにサマリヤ人に声をかける変わり者だと思ったでしょう。サマリヤの女はイエスを最初「あなた」(9節)と呼びました。少しよそよそしい、警戒と敬遠の響きがします。しかし、イエスと話しているうちに、イエスが「ラビ」(教師)であることが分かり、尊敬の意味を込めて「主よ」(11、15、19節、原語)と呼びました。イエスが自分のことを言い当てたので、彼女はイエスが「預言者」(19節)であると思いました。そして、イエスの教えが、いままで聞いたこともないものでしたので、彼女は、思わず、「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」と言いました。すると、イエスは言われました。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」イエスは、ご自分がキリストであることを、包み隠さず、サマリヤの女に示されました。そして、サマリヤの女は、イエスがキリストであることを知ったのです。

 イエスが誰であるかを知ることが永遠のいのちを受ける道です。イエスは「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と言っておられます。イエスがキリストであることを知ること、そこに永遠のいのちがあるのです。

 ヨハネの福音書には、イエスが、七回、「わたしは…です」と言われたことが書かれています。それは「七つの "I am" ステートメント」と呼ばれます。イエスは、「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35)、「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)、「わたしは羊の門です」(ヨハネ10:7)、「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:11)と言われました。人はパンによって命を保ちます。光がなければ命は育ちません。また、羊飼いであるイエスは羊を囲いに入れたあと、その入り口に腰をおろして、羊の命を守ります。良い牧者であるイエスは羊を生かすためご自分の命さえお捨てになります。こうした言葉はみな、イエスが私たちに永遠のいのちを与えるお方、キリストであることを示しています。そして、イエスは「わたしはよみがえり、いのちです」(ヨハネ11:25)、「わたしが道、真理、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と、比喩のことばを使わず、ご自分がいのちであると、はっきり語っておられます。そして、七つ目に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です」(ヨハネ15:5)と言って、私たちはイエスにつながり、イエスに留まることによって、永遠のいのちに生かされ続けるのだと教えられました。

 「わたしは…です」とイエスが言われた言葉は、と呼ばれていますが、じつは、今朝の箇所には、もうひとつの "I am" ステートメントがあります。26節の「わたしがそれです」ということばです。これは、もとの言葉で「エゴー・エイミィ」とあります。イエスが「わたしはパンである」と言われたときは「エゴー・エイミィ・ホ・アルトス」、「わたしは光である」と言われたときも「エゴー・エイミィ・ト・フォース」と言われました。「エゴー・エイミィ」のあとにそれぞれの言葉がついて、イエスがどんなお方かを表したのです。しかし、イエスがサマリヤの女に答えられたときは「エゴー・エイミィ」とだけしかおっしゃりませんでした。そして、その場合、「エゴー・エイミィ」("I am")という言葉は特別な意味を持ちます。神がご自分を "I am that I am"(わたしはあってあるもの)と言われたことを指します。「わたしはあってあるもの」から神のお名前「ヤハウェ」が生まれました。神はさまざまなお名前で呼ばれますが、「ヤハウェ」のお名前で呼ばれるときには、人々と共にいて導き、救い、人々を生かす神を表わしています。イエスは「エゴー・エイミィ」という言葉で、ご自分が「ヤハウェ」の神、人が神と共に、神のために生きることのできる霊のいのち、永遠のいのちを与えるお方であることを、示されたのです。

 三、信じる

 イエスがキリストであると聞いたサマリヤの女は、持ってきた水瓶を井戸に置いたまま、町に戻り、「来て、見てください。私のしたことを全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか」(29節)と、人々に語り出しました。「この方がキリストなのでしょうか」という言葉は控え目ですが、サマリヤの女は、イエスがキリストであることを信じたに違いありません。そうでなければ、今まで、自分の過去を隠し、人々を避けていた彼女が町中の人々に「来て、見てください」と語ることができるはずがありません。サマリヤの女は、イエスがキリストであることを知りました。そう知っただけでなく、イエスをキリストと信じました。そして、そう信じて、イエスから永遠のいのちを受けたのです。

 ヨハネ20:30-31に「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」とあります。サマリヤの女は、この言葉どおり、イエスがキリストであると信じました。そして、信じて、永遠のいのちを受けました。

 永遠のいのちの賜物を知らず、それを与えるお方に出会うまでは、サマリヤの女は、神のいのちから遠く離れていました。彼女は、彼女なりに、自分の人生を一所懸命生きてはいたでしょう。しかし、そのたましいは神に対しては死んでいました。そのため、彼女は、生きる意味や目的を見失い、自分を見失っていました。彼女は、不幸な境遇の中で生き抜くたくましさや、器用さは持っていたかもしれません。しかし、たましいを生かす力は持っていませんでした。

 それは、このサマリヤの女だけに限りません。生きてはいても、生きる力を失った人たちが何と多いことでしょう。今年(2012年)6月8日、日本政府は「自殺対策白書」を発表しました。それによると、日本では年間3万人もの自殺者があるのですが、とくに15歳から39歳の人たちでは、病気でも事故でもなく、自殺が死因の第一位になっています。また、20歳台の自殺が10年前にくらべ25%も増えています。若さと力にあふれ、将来も希望もあるはずの人たちが、なぜ死を選ぶのでしょうか。さまざまな理由があるでしょうが、この人たちが生きる力を失っているのは、人を生かす永遠のいのちがある、そして、それがイエス・キリストによって与えられるということを、彼らが知っていたらと、残念に思います。

 ある青年が教会で「私は、神さまを知らなかったときは、まだ25歳なのに、その心はまるで老人のようでした。死んだ人のようでした」と証ししていたのを思い出します。しかし、その人はイエス・キリストを知りました。キリストが自分を永遠のいのちで再び生かしてくださることを信じました。そして、神の子どもとして、永遠のいのちによる新しい誕生、「ボーン・アゲイン」を体験しました。この世に生まれて25年、それまでは、両親を通して与えられたいのちでだけ生きてきました。しかし、キリストを信じたときからは、もうひとつのいのち、キリストを通して与えられるいのちによって生きるようになったのです。そして、この青年は、永遠のいのちに生かされて、神と人とを愛し、数多くの人々にその愛を伝えてきました。今、難しい病気を持っていますが、それを乗り越え、毎日を感謝のうちに生きています。

 永遠のいのちは、死んでから受けるものではありません。死んでからでは遅いのです。この地上に生きているうちに、イエス・キリストを信じ、それを受けるのです。また、永遠のいのちは、死んでからはじめて働くものではありません。この地上で生きているときから働き、私たちを神に向けて成長させてくれます。そして、それは、私たちの地上のいのちをも強め、支えてくれるのです。

 ヨハネ20:31を、もう一度心にとめましょう。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」 あなたは、イエス・キリストが永遠のいのちの与え主であることを知り、信じていますか。そう信じて永遠のいのちを受け取っていますか。先に話したように、永遠のいのちは、地上のいのちのある間に受け取り、育てるものです。地上のいのちが明日も続くという保証は誰にもありません。聖書は、「今は恵みの時、今は救いの日です」と言っています。きょうのこの日から、永遠のいのちで生かされていく人生を始めましょう。今、この時、永遠のいのちを受けていることを確信する恵みの時としようではありませんか。

 (祈り)

 私たちの創造主である神さま、あなたは、土のちりから造られた人にいのちの息を吹き込み、人を生きた者としてくださいました。しかし、人は、その罪のために、あなたから離れ、あなたからのいのちを失ってしまいました。そんな私たち、罪びとの罪を赦し、もう一度生かすために、あなたは、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。どうぞ、私たちが残らず、イエスが神の子キリストであることを信じて、イエスの御名によっていのちを得ることができますように。また、永遠のいのちを受けた者たちが、地上のいのちだけに心を奪われることないように、永遠のいのちの豊かさを忘れることがありませんように。むしろ、キリストを知り、キリストに結ばれて、その豊かさを体験できるようにしてください。そして、それによって、この世を力強く生き、永遠のいのちと、その与え主であるイエス・キリストを証ししていくことができますように。主イエスによって祈ります。

8/12/2012