まことの礼拝

ヨハネ4:15-24

4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 前回は、イエスとサマリヤの女との会話の最初の部分を学びました。今日は、その続きを学びましょう。「水を飲ませて下さい」というイエスからサマリヤの女への呼び掛けから始まったこの会話は、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」との、イエスの約束のことばに発展しまた。サマリヤの女が「その水をわたしに下さい」と言うと、イエスは、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」と、彼女の私生活に切り込みます。いのちの水、つまり神の救いを得るためには、誰も、自分の罪を正直に認めなければならないのです。それで、イエスは彼女の本当の問題に触れたわけです。すると、サマリヤの女は、当時の宗教問題を持ち出します。その宗教問題というのは、人々はどこで神を礼拝すべきかという議論です。ユダヤ人はエルサレムで礼拝すべきだと言い、サマリヤ人はゲリジム山が礼拝の場所だと主張していたのです。

 しかし、サマリヤの女が人々はどこで神を礼拝すべきかということを本当に悩んでいたとは思えません。彼女がそれを持ち出したのは、自分の問題に触れられたくなかったからであり、イエスの追求をかわすためだったでしょう。私も、同じようなことを体験しました。聖書の話しをしていると、特に、罪について話し出すと、その人にとってそれがキリストを信じるための妨げになっているとは思えないのですが、「なぜキリスト教には教派がたくさんあるのですか」などという話題を持ち出して来られるのです。そういう話題によって、予防線を張られてしまうのですね。私たちは誰かにキリストを伝えようとする時には、あまり枝葉の問題にそれないで、神が、その人の個人的な問題に光をあててくださるよう、祈りたいと思います。しかし、その人が持ち出した疑問にも、丁寧に答えてあげられたら、もっと良いと思います。

 イエスも、サマリヤの女が弁解のために持ち出してきた質問であっても、それに丁寧にお答えになりました。そして「神は霊ですから、神を礼拝をする者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)という礼拝についての、大切な教えを語ってくださいました。この個所の主題は「いのちの水」ということだったのですが、私たちはサマリヤの女の弁解のおかげで、イエスから礼拝についての大切な教えを聞くことができるようになったのです。神は人間の言い訳や弁解を越えて、いつも素晴しいことをしてくださいます。

 一、神の求める礼拝

 23節に「父は、このような礼拝をする者たちを求めておられる」(口語訳)とあるように、神は、神を礼拝する者たちを求めておられます。たしかに、教会には、リーダーになれる人、責任を持って仕事が出来る人、人の世話ができる人などが必要でしょう。私たちも、そういう人が教会にもっと大勢いたらいいと思います。しかし、神は、なによりもまず、神を礼拝する人々を求めておられます。

 神は、私たち人間を、神と語りあうもの、心を通わすことのできるもの、神を礼拝するものとして造ってくださいました。創世記には神が、六日間で全世界のすべてのものをお造りになったと書かれています。神はあらゆるものをすべて造り終えられてから、最後に、人間を、いわば創造の冠として、「神のかたち」にお造りになりました。そして、七日目に神は創造のわざを休まれました。それは、この七日目に、ご自分が造られたすべてのもの、とりわけ、神のかたちに造られた人間を、一日かけて祝福するためでした。私たちが六日の間働いて、一日を礼拝の日とするのは、神の創造わざに起源があり、神は、私たちが七日のうち一日を礼拝の日として、神を賛美し、神に感謝し、神の声を聞き、神に語りかけることを、人類の歴史のはじめから、人類に願い、求めておられたのです。

 しかし、人間は、神から離れ、神への礼拝を忘れてしまいました。そんな人類に神の栄光を示すため、神はユダヤの人々を選んで、神の民、イエスラエルとされました。ユダヤ人、イスラエルを通して、世界の人々がまことの神を知るためです。神はイスラエルがエジプトの奴隷であった時、そこから救い出して、彼らに、七日のうち一日を礼拝の日とするように、命じられました。十戒の第四戒目「安息日を覚えて、これを聖とせよ」ですね。神は、神の民に、まず第一に礼拝を求めておられるのです。この命令について、あるユダヤの学者がこのように言いました。「奴隷は休みなく働かされる。神がイスラエルに安息日を守るように命じられたのは、神がイスラエルをエジプトでの奴隷の生活から救い出して、自由にされたからだ。安息日を守らないのは、奴隷や家畜のようになることだ。」

 神は私たちに礼拝を求め、礼拝を命じていてくださいます。しかし、それは、私たちにとって決して重苦しい要求ではありません。エジプトで奴隷だったイスラエルが、いっさいの奴隷の仕事から、煉瓦造りの苦役から解放されて神を礼拝した時、そこには大きな喜び、感謝があり、彼らは、自由と解放を、その礼拝で心ゆくばかり味わったことでしょう。現代の私たちも、神を礼拝することによって、この世の思い煩いや、罪の重荷から解放されます。礼拝は「しなければならない」苦しい義務ではなく、特権です。それによって身も心もリフレッシュされるのです。テキサスの大学の研究によれば、定期的に礼拝に出席している人は、そうでない人にくらべて五年以上も元気で長生きできるそうですです。それも礼拝の祝福のひとつでしょう。神が私たちを礼拝に招いておられるのは、私たちに礼拝が必要だからです。私たちの本当の必要を最も良くご存知なのは神です。私たちは神の命令に従って、神を礼拝する時、最も祝福された人生を送ることができるのです。

 二、まことによる礼拝

 神は、まことの礼拝者を求めておられます。そして、まことの礼拝者は「霊とまことによって」神を礼拝します。「霊とまことによって」礼拝するとは、どういうことでしょうか。まず、「まことによって」礼拝するとはどういうことかを考えてみましょう。

 イエスが「霊によって」に続いて「まことによって礼拝する」と言われた時、きっとサマリヤ人の礼拝を念頭においおられたことでしょう。サマリヤは、イスラエルが南北に分裂した時の北王国の首都でした。サマリヤは南王国ユダから分かれることによって、当時流行していたバアルの神を礼拝する町になってしまいました。サマリヤの人々は、聖書のすべてを受け入れず、聖書の最初の五つの書、「モーセの五書」しか信じていませんでしたので、その礼拝も神のことばから、その真理から離れてたものとなっていました。

 サマリヤは紀元前722年、アッシリアの王サルゴン二世によって滅ぼされた後、彼によって他の占領地から連れてこられた人々がそこに住みました。その時以来、サマリヤの人々の礼拝は、他の宗教の教えも混じった、異教的なものになってしまいました。イエスは22節で「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」と仰って、サマリヤ人の礼拝がみことばの真理、「まこと」から離れていると言っておられます。

 ほんとうの礼拝は、ただ熱心であるとか、礼拝する気分に浸っていれば良いというだけのものではありませんね。預言者エリヤがバアルの預言者と対決した時、バアルの預言者たちは、大声で祈り、自分の身体に傷をつけて、熱心に祈りました。しかし、バアルの神は、彼らの祈りに答えることはなく、彼らの礼拝は単なる自己満足で終わってしまいました。「まことをもって礼拝する」とは、聖書の真理にもとづいて神を礼拝する、知識に従って礼拝することを意味します。ですから、礼拝では、神の真理である、みことばが中心とならなければなりません。

 英国の神学者ジョン・ストットはこう言っています。「みことばと礼拝はお互いに切り離せない。礼拝とは神の啓示に対して、知性と愛とをもってこたえることである。神に受け入れられる礼拝は説教なしには成り立たない。説教は主の御名を知らせることであり、礼拝は知らされた主の御名をほめたたえることである。私たちの礼拝が貧弱なのは私たちの神を知る知識が貧弱だからである。」(John Stott, "Between Two Worlds", p.82)

 今日、いくつかの教会では、聖書が中心になっていません。Los Angeles Times Magazine に、あるルター派の教会で、礼拝の後ラインダンスがあって、牧師もそれに加わって踊ったと書いてあったそうです。その日の説教は「クリスチャンのセックス―Rated R」だったそうです。別の教会では、礼拝の時に教会のスタッフがレスリングの試合をしたというのです。それは、信徒に、悪魔との戦いを教えるためだったというのです。(John McArthur, "The Coming Evangelical Crisis", pp.175-6) 礼拝には、主にあって共に喜び、楽しむという要素があっていいのですが、聖書のメッセージがそっちのけで、そうしたことに終始してしまっては、それは礼拝ではなくなってしまいます。神のことばが、神のことばとして語られ、神のことばとして聞かれる場所、それが礼拝です。そうでなければ、礼拝は単なるエンターテーメントになってしまい、礼拝では、人々は演劇の観客のように、礼拝で行われることを眺めて、それを批判して終わってしまいます。

 「まことをもって礼拝する」と言う場合、この「まこと」、真理は、キリストを指しています。キリストが教会のかしらとして、主として、礼拝の中心にいてくださる礼拝を私たちは目指しています。そして、そのために、私たちがどう礼拝すべきかを、イエス・キリストに聞き、キリストに学びましょう。サマリヤの女は、「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」と言いました。イエスは彼女に答えて、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と言われました。イエスこそ、私たちに、まことの礼拝を教えてくださるお方、私たちをまことの礼拝者にしてくださるお方です。

 三、霊による礼拝

 次に、「霊によって礼拝する」とはどういうことかを考えてみましょう。

 イエスが「まことをもって」「真理にしたがって」礼拝すると言われた時、サマリヤ人の礼拝が念頭に置かれていたように、「霊によって」と言う場合は、ユダヤ人の礼拝が念頭にありました。

 イエスご自身は、エルサレムの神殿を「わたしの父の家」と呼び、そこで礼拝をしておられます。初代教会もエルサレムの神殿から始まり、初代のクリスチャンも神殿で祈り合っていました。しかし、イエスの目からご覧になって、エルサレムは、もはや、神のみこころを行う町、まことの礼拝をささげる所ではなくなっていました。確かにエルサレムの神殿はふんだんに黄金がちりばめられ、壮麗なもので、そこで執り行われている儀式も厳かなものでした。しかし、そこで執り行われている礼拝は形ばかりで、心も、魂もこもったものではありませんでした。イエスはそのような礼拝をごらんになって「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる。」(マタイ15:8-9)と嘆いておられます。

 もちろん、これは礼拝に形式がいらないと言っているわけではありません。霊的なこと、信仰的なことは、目に見えない世界のことだけに、何かの形がなくては表わせません。水は器に入れなければ、それを保つことができないのと同じです。礼拝に祈りをもって備えること、時間を守ること、私語を慎むこと、元気良く賛美すること、共に礼拝する人のことを気遣うことなど、ごくごく当然のことばかりですが、やはり、形を整えることによって心が整えられるということもあるものです。しかし、当時の祭司たち、パリサイ人たちは、ただ形式だけを守り、器だけを豪華にして、そこにいのちの水の一滴も入っていない、無味乾燥な礼拝をしていたのです。イエスが「霊によって」礼拝するように教えられたのは、当時の形式主義的な礼拝、偽善的な礼拝に対して、形だけではなく、真心からの礼拝をささげるよう教えてくださったのです。

 しかし、私たちがどんなに真心をこめ、全身全霊を打ち込んだとしても、私たちの礼拝は、完全に神のみこころにかなうものとなることはできません。神の基準は高く、私たちはそれに足らないのです。しかし、聖霊によって礼拝するなら、聖霊みずからが、私たちの礼拝の足らないところを補ってくださるのです。聖霊は、本来は、私たちが礼拝をささげるべきお方であるのに、私たちの霊とともにいて、私たちの立場に立って、神への礼拝を共にささげてくださるのです。神の御子イエスが地上では人として、私たちと全く同じように父なる神をあがめ、聖霊に服従されたように、今は、聖霊が、私たちの立場に立って、私たちと共に父なる神をあがめてくださるのです。ピリピ3:3に「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」とある通り、私たちクリスチャンは、聖霊によって霊なる神を礼拝しているのです。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とイエスは言われましたが、イエスは私たちに聖霊を遣わして、聖霊によって霊なる神を礼拝することができるようにしてくださったのです。御霊により、イエス・キリストを通してささげられる礼拝を、父なる神がさらに豊かに祝福してくださいますように!

 (祈り)

 父なる神さま。あなたは、御子イエス・キリストによって罪の奴隷から救い出し、私たちを神の民とし、自由にあなたを礼拝することができるようにしてくださいました。心から感謝いたします。私たちが救われたのは、あなたを礼拝するためであったことをさらに深く教えてください。あなたは私たちに、まことの礼拝者となるように求めていてくださいます。私たちを御霊によって導き、みことばによって養い、霊とまことをもって礼拝する者としてください。私たちの礼拝が、真実な公同の礼拝となることによって、人々にあなたの変わらない栄光を告げ知らせてください。主イエス・キリストの名によって祈ります。

2/17/2002