主の傷跡に触れる

ヨハネ20:26-29

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20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。」

 一、主の復活

 主イエスは復活された後、四十日にわたって、弟子たちにご自分が生きておられることをお示しになりました。弟子たちは主イエスの声を聞き、その姿を見て、主が復活されたことを確認しました。

 主イエスの復活を信じない人たちは、主イエスの復活をたんに精神的なものだと考えます。主を失って意気消沈していた弟子たちの心の中に、主イエスの精神がよみがえり、弟子たちがそれによって勇気を出し、主イエスの遺志を受け継いだ、それが「復活」だというのです。確かに、弟子たちは意気消沈した状態から「復活」しました。ユダヤ人を恐れて逃げ隠れしていた彼らが、ペンテコステの日には「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(使徒2:36)と語り出しています。この弟子たちの大胆な宣教によって教会が全世界に建てられていきました。主イエスの復活を信じない人でも、この弟子たちの変化と教会の誕生が、復活を信じる信仰から来ていることを認めています。「初代教会は主イエスの復活を信じる信仰によって建てられた」というのです。では、この「復活の信仰」はどこから来たのでしょうか。何が弟子たちの「復活」をもたらしたのでしょうか。それは、「主イエスが生きておられたら…」という願望でしょうか。主イエスを失った悲しみゆえに見た幻影からでしょうか。いいえ、「復活の信仰」は「復活の事実」から来たということ以外には説明がつかないのです。

 では、復活とは何でしょうか。それは、たんに「生き返る」ということとは違います。聖書には、ラザロが死んで四日目に、主イエスによって生き返らせてもらったことが書かれています。死んですぐの人が生き返るということはあります。心肺停止でも、脳死に至っていない場合、蘇生することがあります。しかし、死んで四日も経てば、その亡骸は腐敗してしまっていて、生き返ることは不可能です。そんなラザロが生き返ったのですから、それは前代未聞の出来事で、主イエスのなさった奇蹟の中でもっとも大きなものでした。しかし、それでも、それは復活ではありませんでした。ラザロは、地上での命を伸ばしてもらいはしましたが、やがて時が来て、再び死んでいきました。ラザロが生き返ったときに受けたからだは、彼が死ぬ前のからだと同じもので、やがて朽ちていくものでした。

 しかし、復活は、蘇生とは違います。主イエスは、十字架にかかられる前のからだで墓から出てこられたのではなく、もう死ぬことも、朽ちることもない栄光のからだになって墓から出てこられたのです。主イエスは、たんに死ぬ前の状態に戻ったのではなく、死を打ち破って、もはや死ぬことのない者となられたのです。これが「復活」です。「復活」とは、死んでいた者が息を吹き返すということでも、たとえ死んでも人々に覚えられ、その心に「生きている」ということでもありません。死ぬことのないからだ、「復活のからだ」を得て、新しい存在になることです。それは、人知を超えたこと、人間の想像も及ばない出来事ですが、事実、主イエスは復活され、そのような存在となられたのです。

 二、復活のからだ

 この「復活のからだ」について、コリント第一15:42-44にこう書かれています。「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。」復活された主イエスのからだは、朽ちないからだ、栄光あるからだ、強いからだ、霊のからだです。それが具体的にどんなものであるかは、わたしたちには分かりません。しかし、わたしたちの復活の時が来るとき、わたしたちも主イエスがお持ちになったのと同じ「復活のからだ」を持つようになります。主イエスを信じるわたしたちもやがての日に主イエスと同じようになるのです。ヨハネ第一3:2にこう書かれています。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現われる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」また、エペソ5:26-27には「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」とあります。ここでいわれている「清くて傷のない栄光の姿」というのは、霊的なもの、内面的なものだけでなく、見えるものをも指しています。わたしたちは、復活の時、「清くて傷のない栄光の姿」に変えられるのです。

 こうしたことは、日常の事柄を、わたしたちの理解を超えています。わたしたちには、この地上の、限られた時間のことしかわかりません。しかし、こうしたことは、わたしたちにとって無関係なことではありません。人間には、誰も「永遠」を思う意識があります。わたしたちの将来がどうなるのか、永遠をどう過ごすのかによって、日常の生活が導かれ、地上の人生に意味や目的が与えられるからです。葬儀の時、人々は亡くなった方に「天国で会いましょう」と呼びかけます。しかし、主イエスの復活がなければ、また、それを信じることがなければ、天国の希望も根拠のないものになってしまいます。

 主イエスは、明日のことも分からない、ましてや永遠のことはなお分からないわたしたちに、ご自分の復活を通して、来世の確かな希望を与えてくださいました。死に打ち勝って復活されたお方、イエス・キリストだけが、わたしたちに来世を約束することができるのです。主イエスが復活の後、なお四十日も地上に留まられたのは、弟子たちが主イエスの復活を信じるためだけではなく、信じる者たちがこの希望を確信するためでした。「地上の人生がすべてではない、そのかなたにもう一つの生がある。それは、地上のものに勝るものである。」信仰者たちは、この確信によって人生を力強く生きてきました。初代のクリスチャンはそれによって迫害に耐え、殉教をもいとわなかったのです。この希望は主イエスの復活から来るのです。

 主イエスは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ11:25-26)と言われました。「たとい死んでも生きる」とは、復活の約束です。「いつまでも死なない」とは、主イエスを信じる者が永遠の命を受けることを言っています。主イエスを信じるわたしたちは、復活の時を待たずして、今すでに、復活の命で生かされています。主イエスを信じ、主イエスによって生かされて歩む歩みは死によって中断されることなく、わたしたちは永遠に主とともに生き続けるのです。みなさんは、この主の言葉を心から信じ、主イエスのいのちを日々に体験しているでしょうか。

 三、残された傷跡

 さて、今朝の箇所には、復活された主イエスがトマスに現れたときのことが書かれています。じつは、主が復活された日の夕方、主イエスは、弟子たちがいるところに現れ、十字架で受けた両手の傷とわきばらの傷を弟子たちに示しておられました。ところが、トマスだけがその時そこにいませんでした。トマスは、「わたしたちは主にお目にかかった」という他の弟子たちの言葉に納得せず、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言い張っていました(ヨハネ20:19-25)。

 そんな時に主イエスがトマスに現れ、その手の釘跡と、わきばらの傷をお示しになりました。それをお見せになるだけでなく、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」とさえ言われたのです。トマスがその傷跡に触れたかどうかは聖書に書かれてはいませんが、主イエスは「わが主よ、わが神よ」と言ってひれ伏しているトマスを立ち上がらせ、トマスの手をとって、ご自分の傷跡に触らせたと思います。ヨハネ第一1:1では、主イエスが、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」と描かれています。これは弟子たちが復活された主イエスの傷跡に触れたことを示していると思われます。主イエスの復活は、目で見て、手で触って確認できる確かなものだったのです。

 しかし、復活された栄光のからだに、なお十字架の傷跡が残されているというのは、とても不思議なことです。わたしたちを「しみも傷もない者」にしてくださる主イエスが、傷のあるからだを持っておられるというのは、どういうことでしょうか。それは、この主イエスこそ、「栄光の王」であるとともに「苦難のしもべ」であり、「その打たれた傷によって」わたしたちを癒す「傷つけられた癒し主」だからです。手話で、"Jesus" は、手のひらに指を立てるしぐさで示されます。これは、主イエスの手に残っている釘跡を示しています。主イエスのからだに刻まれ、復活のからだにさえ残っている十字架の傷跡、それは主イエスのアイデンテティそのものなのです。

 トマスは、他の弟子たちの言葉を信じなかったので、後の時代に「疑い深いトマス」(Doubting Thomas)と呼ばれるようになりましたが、トマスの主イエスへの思いは、決して他の弟子たちに劣るものではありませんでした。トマスが「その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言い張ったのは、自分自身で主イエスの復活を確かめたかったから、主にお会いしたかったからでした。トマスにとって主はそれほどにかけがえのないお方であり、トマスの心は主にお会いするまで安らぐことがなかったのです。

 わたしたちも、トマスと同じ熱意をもって主イエスを求めたいと思います。聖書を読んで、自分が好きになれそうな言葉をみつけて満足する。礼拝に来てみんなに会ってほっとする。日々の祈りや毎週の礼拝をそれだけで終わらせたくありません。「わたしたちは主を知ろう。せつに主を知ることを追い求めよう」(ホセア6:3)を年間聖句に掲げているわたしたちは、「主よ、あなたにお会いしたいのです。もっとあなたを信じたいのです。あなたに従い続けたいのです」という思いをもって、何度でも、繰り返し、主に近づきたいと思います。わたしたちが主に手を差し伸べるとき、主もまたわたしたちに手を差し伸べてくださいます。わたしたちが主に対して心を開くとき、主もまたその胸のうちを開いてくださいます。そして、わたしたちは差し伸ばされたその手に十字架の釘跡を見、開かれたその胸に傷跡を見るのです。その手の傷によって主の愛を確認し、主の胸の傷跡から響く愛のビートに平安を見出すのです。

 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」主は、今、わたしたちにも、そう語りかけておられます。心静かに、主の言葉に応答しましょう。「主の十字架の傷跡に触れたい。」そのような思いでこの週を歩んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスのからだに十字架の傷跡が残されていることを感謝します。わたしたちは肉眼でそれを見ることはできませんが、あなたは、「主の晩餐」のパンと杯の中に、それを見ることがでるようにしてくださいました。わたしたちが信仰によって、主の十字架の傷跡を見、そに触れることができるようにしてください。この恵みのうちに来ることをためらっている人々にも、信仰の決心をお与えください。バプテスマを経て、また、悔改めを経て、「主の晩餐」を共にすることができるよう導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/1/2016