婚礼のぶどう酒

ヨハネ2:1-5

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2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

 一、愛のしるし

 ヨハネの福音書には、いくつもの特徴的な言葉がありますが、その一つが「しるし」です。「しるし」(サイン)とは、実際のものではないけれど、それを指し示すものです。たとえば、人が土を掘っているサインがあれば、この先で道路工事をしているのだと分かります。他にも危険を知らせるサインがあり、そこに立ち入るな、そこから離れよと警告します。しかし、神が与えてくださり、イエスが示してくださった「サイン」(しるし)は、人をそこから遠ざけるものではなく、呼び寄せ、近づけるものです。

 ルカ2:11-12にこうあります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」これは、救い主であり、主であり、キリストであるお方の誕生を知らせる言葉です。そんな立派な方なら、宮殿におられるのが当然でしょうが、羊飼いたちが、夜中に、宮殿に出入りできるはずがありません。ところが、救い主キリストは「飼葉桶に寝ている」というのです。飼葉桶があるところといえば、家畜小屋です。家畜小屋なら、羊飼いにとっては勝手の知った所、自由に入ることができる場所です。羊飼いたちは、おそらくベツレム中の家畜小屋をすべて知っていて、赤ちゃんのイエスを見つけることができたことでしょう。赤ちゃんをこわがる人はいません。誰もが恐れなく近寄ることができます。飼葉桶に寝ている赤ちゃんのイエスは、神が私たちに、「恐れなく近づきなさい」と、呼びかけておられる「愛のしるし」だったのです。

 イエスご自身が神の「愛のしるし」なのですが、イエスのなさった数々の奇跡もまた、「愛のしるし」でした。奇跡というと、それは人を驚かせるもののように思われていますが、イエスがなさった奇跡で、ご自分が注目を浴びるため、人を驚かせるようなことをしたというものは何一つありません。試みる者がイエスを神殿の頂に連れて行き、「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから」と言ったとき、イエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」と仰って、断固として、そうした、パフォーマンスとしての奇跡を行うことを拒否なさいました(マタイ4:6-7)。イエスが数多くの病人を癒やされたのは、決して、ご自分の力を見せびらかすためではありませんでした。病気に苦しむ人たちを深くあわれまれたからでした。マタイ14:14に、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた」とある通りです。

 イエスはガリラヤのカナの町の婚礼で水をぶどう酒に変える奇跡をなさいましたが、それは、ひっそりと行われました。婚礼の宴会でぶどう酒が切れたとき、イエスは給仕をする人たちに、水がめに水をいっぱい入れ、それを汲んで婚礼の世話役のところに持って行くよう言われました。水がめに注がれた水は即座にぶどう酒、しかも上等のぶどう酒になっていて、彼らはそれを婚礼の世話役に渡し、それが客にふるまわれたのです。イエスがなさったことは、給仕場にいたわずかの人しか知りませんでした。この奇跡は、晴れの婚礼で、花婿や花嫁、婚礼の世話役が恥ずかしい思いをしないようにとのイエスの暖かい心から出た愛の奇跡でした。

 イエスは、はじめから人々にぶどう酒を与えようとしておられたのですが、母マリアがイエスに「ぶどう酒がありません」と言ったとき、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません」と答えておられます。とても冷たい言葉に聞こえます。ところが、母マリアは、その言葉に気を悪くするどころか、給仕をしている人たちに「あの方が言われることは、何でもしてください」と言って、願いが聞き届けられたことを確信しています。母マリアとイエスのやりとりは、決してちぐはぐなものではなく、きちんと噛み合ったものだったのです。

 それを解く鍵は、イエスが言われた「わたしの時はまだ来ていません」との言葉にあります。イエスが言われた「わたしの時」とは何でしょう。それは、ご自分の栄光を天に残し、地上に降られたイエスが再び天に帰り、もとの栄光に戻られる時を指しています。その時、イエスは信じる者たちの花婿となって聖徒たちを花嫁として迎えてくださるのです。聖書はそれを「子羊の婚宴」(黙示録19:9)と呼んでいます。イエスとイエスを信じる者は、今も、愛の関係で結ばれていますが、やがての時には、さらに強い愛の結びつきに入れられるのです。イエスが、わざわざ婚礼の場で「わたしの時」と言われたのは、それが「子羊の婚宴」の時を意味していたからだと思われます。イエスはカナの婚礼を祝福することによって、信じる者たちの花婿として、ご自身の者たちを最後まで愛し通す、その愛をお示しになったのです。

 天での「子羊の婚宴」の時は、まだ将来のことです。しかし、だからといって、今、イエスの愛を受けることができないのではありません。その愛はすでに十字架によって示され、聖霊によって注がれています。「子羊の婚宴」の時を待ち望み、地上で過ごす中にも、「水がぶどう酒に変わる」ような体験が与えられます。私たちの罪の性質が聖いものに変えられる、私たちのトゲトゲした人間関係がまろやかなものに変えられる、また、味気ない日々の生活が喜びに満ちたものに変えられるといったものです。イエスは、今も、私たちの人生に「水をぶどう酒に変える」奇跡を起こしてくださるのです。

 二、力のしるし

 次に、この奇跡は、イエスの「力のしるし」でもありました。ヨハネは、多くの奇跡から7つを選んでいます。第1は「水をぶどう酒に変えたこと」(2:1-11)、第2は「役人の子を癒やしたこと」(4:46-54)、第3は「長年、病気だった人を癒やしたこと」(5:1-9)、第4は「5千人にパンを与えたこと」(6:1-14)、第5は「水の上を歩いたこと」(6:16-21)、第6は「盲人の目を開けたこと」(9:1-13)、そして、第7は「ラザロを生き返らせたこと」(11:1-46)です。これら7つは、イエスの神としてのお力を、別々の面から示しています。では、「水をぶどう酒に変えたこと」には、イエスのどのような力が示されているのでしょうか。

 水をぶどう酒に変えること、それは、物質の変化の奇跡です。水を熱すれば水蒸気になり、冷やせば氷になります。けれども、それは水の姿・形を変えているだけで、水そのものを、別のものに変えたことにはなりません。ぶどう酒はぶどうを発酵させて作るもので、ぶどうが何ヶ月もかけて発酵し、またそれが何年も保存される間に、より美味しいものに変わっていきます。それで、この奇跡は、ぶどう酒が作られる過程を一瞬の間に行われたのだという人もありますが、水がめにはひと粒のぶどうもありませんでしたから、この奇跡は、水を、同じ液体ではあっても、全く別のものに変化させたことになります。

 科学技術を駆使すれば、さまざまなものを組み合わせて、新しいものを作ることができますが、何の組み合わせるものもなしに、一つのものから、全く別な物を作り出すことはできません。古代から中世にかけて「錬金術」というものが盛んに行われました。金を含む鉱石を精錬してより純粋な金を取り出すというのでなく、ありふれた金属から金などの貴金属を作り出そうとする試みでした。錬金術師たちは、「物質は単一の元素からできていて、そこに加わる力によってさまざまなものに変化する。それを人工的に行えば、望むものを作り出せる」と考えたのです。錬金術は化学の実験に発展をもたらしましたが、やがて、それは魔術的なものに変わっていき、現代の科学では否定されています。

 神の創造のみわざは、無から有を生じさせるものですが、それには、ひとつの物質から様々な物質を生み出させることもあったかもしれません。ともかく、「水をぶどう酒に変える」ことは、創造者である神にしかできないことであり、この奇跡は、イエスが「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」(1:3)と言われている通りのお方であることを示す「しるし」だったのです。

 三、信じるためのしるし

 カナの婚礼での奇跡は、第一にイエスの「愛のしるし」でした。第二に「力のしるし」でした。そして第三に、それは、「信じるためのしるし」でした。

 この奇跡によって、婚礼の世話役は驚き、花婿や花嫁は面目を保ち、客たちは喜びました。「めでたし、めでたし」というのですが、それがこの奇跡の結論ではありません。この奇跡の結末は2:11にあります。「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」イエスがなさった奇跡は、それよって、イエスがまことの神であることを知り、信じるためのものだったのです。

 「しるし」と「信仰」は、ヨハネの福音書のテーマです。ヨハネはこう言っています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(20:31)ガリラヤのカナでイエスのなさった「しるし」を見た弟子たちがイエスを信じたように、ヨハネが記したことを読む私たちも、またイエスを信じるためでした。

 人は言うでしょう。「信仰を持っても、持たなくても何も変わらない」と。そんなことは決してありません。信仰を持たない人は、順調なときには大丈夫でも、逆境のとき、困難が押し寄せるときには、おろおろしたり、落ち込んだり、自暴自棄になり、我を失ってしまうことが多いのです。しかし、信仰を持つ人は、順境のとき神に感謝し、逆境のときも希望を失いません。曲がった世にあっても、不正に染まらず、神のみこころに従い、社会のために忍耐して働きます。神を信じない人はこの世では成功しても、心に平安を持っていません。神を信じる人は、必要な物が与えられ、生活が守られるだけでなく、その内面に信仰の富を豊かに蓄えることができます。そして、私たちが世を去るとき、あるいは、イエスが再び来られるときには、その違いはもっと明らかになります。信じる者は、永遠のいのちによって、神と共に永遠に生きるのです。

 ヨハネ20:31 にある「いのち」は、「永遠のいのち」のことです。永遠のいのちによって生かされるのは、死後になってからではありません。地上にいる間も、意味と目的をもって、神と人とを愛して生きることができるようにしてくれるのが、「永遠のいのち」です。人は、本来は、愛に生きるように造られたのですが、罪のために、愛も、平安もない惨めな生き方をしてきました。しかし、イエスは十字架によってご自分のいのちを差し出すことによって、人が永遠のいのちを持つことができるようにしてくださいました。復活によって、信じる者にいのちを与える者となられたのです。このいのちを受けることなしに、人はほんとうの意味で愛に生きることはできません。

 イエスは、私たちが「信じて、いのちを得る」ために必要で、十分な「しるし」を残してくださいました。イエスの奇跡(しるし)を見ながら信じなかった人々もありましたが、イエスのなさった「しるし」は、本来は私たちが信じるため、信じて永遠のいのちを得るためのものなのです。イエスがなさった「しるし」に、私たちが応える方法は唯一つ、イエス・キリストを信じることです。あなたは、イエスを信じて永遠のいのちを受けたでしょうか。すでに信じた者は、「しるし」に示されているイエスの愛に応え、そこに現されているイエスの力に信頼しているでしょうか。信じていのちを受け、そのいのちによって歩むお互いでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、イエスがなさった最初の「しるし」から、それが、イエスの愛のしるしであり、力のしるしであり、私たちが信じて生きるためのしるしであることを学びました。信じて生きる者の人生には常に平安と希望と光があることを、あなたは約束してくださいました。もし、日々の生活でそうしたものを見失ったときは、私たちも、母マリアのように「ぶどう酒がありません」、「平安がありません」、「希望がありません」、「光がありません」、「力がありません」と、正直に申し上げます。それに答え、私たちの不安を平安に、嘆きを喜びに変えてください。あなたがそうしてくださると信じ、イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/21/2024