わたしは渇く

ヨハネ19:28-30

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19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

 一、たましいの渇き

 両手を広げ、左右の親指と親指をくっつけます。何になるでしょう。"W" という文字になりますね。こうやって野菜や果物、木や花を見ている写真が San Jose Water Company の宣伝で使われていました。"W" は "Water" を表わしているのです。水がなければどんな植物も育ちません。動物も水なしには生きていけません。水はいのちのみなもとです。人類最初の宇宙飛行士が「地球は青かった」と言ったも、地球が水によっておおわれているからです。地球は私たちが知るかぎり宇宙でただひとつの水でおおわれた星です。神は、この水をもとに地球にいのちを生み出されました。創世記に「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」(創世記1:1-2)とあるとおりです。すべての生物のいのちはこの水によって支えられています。

 地表のおよそ三分の二が海ですが、人体のおよそ三分の二も水です。体重の60%から70%が水分です。人は食べ物がなくても何日かは生きていけますが、水分が不足すると命の危険にさらされます。ですから医者は患者が脱水状態になるとすぐ点滴をして水分を補給します。ふつうの成人は一日2リットルの水を体外に出していますので、その分を補給しなければなりません。2リットルというとペットボトル4本、グラス8杯にあたります。ただし、一度にたくさんの水分をとりすぎると水中毒になりますので、すこしづつ分けて飲むようにとドクターが言っていました。個人差がありますので、くわしくはご自分のドクターに聞いてみてください。とにかく、私たちのからだはいつも渇いてており、水を求めているのです。

 さきほど地表のおよそ三分の二が海だといいましたが、海の水はそのままでは飲めません。飲み水として使うことができるものは地上の水のわずか2.5%にすぎません。先進国では水道が完備され、いつでもどこでも飲み水が手に入りますが、世界には清潔な飲み水が簡単には手に入らない地域がまだまだ数多くあり、そういったところでは何マイルも歩いて水を汲みにいかなければなりません。水汲みはこどもたちの仕事で、そのためこどもたちが学校に行けないでいます。しかも、手に入る水は泥水のような不潔な水で、さまざまな病気の原因になっているのです。深い井戸を掘れば、きれいな水が手に入るのですが、そのようなところに井戸を掘る技術も機械もありません。そんなところに出かけて行って、井戸を掘ってあげるボランティアの人々がいます。私に井戸を掘る技術があれば行ってあげたいと思うほどです。尊い働きです。世界の多くの人々が渇いており、水を求めています。

 地球は今、さまざまな原因でどんどん砂漠化しています。砂漠化を食い止めるためにさまざまな努力がなされていますが、中国でも、アフリカでも、中東でも、それを食い止めることができず、毎年600万ヘクタールという土地が砂漠になっていると言われています。北海道の面積が834万ヘクタールですから、それに近い土地が砂漠化しているわけです。このままでは、人類は渇きのために滅びるのではないかと心配されています。私たちのからだや世界の人々だけでなく、この地球も渇いており、水を求めているのです。

 聖書には、こうした自然の渇きについての描写がありますが、それとともに、霊的な渇き、人間のたましいの渇きについて多くのことが書かれています。このことばは賛美でよく歌いますので、みなさんも知っていると思いますが、詩篇42篇に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)とあります。イスラエルの気候はカリフォルニアの気候と似ていて、雨季と乾季に分かれています。雨季には水が一杯だった川も乾季には枯れてしまいます。それで、動物たちは、乾季にもまだ水が残っている谷底の川まで下っていくのです。谷底に降りる道は険しく、肉食動物の餌食になるかもしれません。鹿は、そんな危険を冒してまでも、水を求めて谷川に下っていきます。鹿は水に渇くと喉の粘膜がくっついてしまい、呼吸ができなくなって死んでしまうので、命を守るために必要な水をあえぎながら求めるのです。人間のたましいにも、同じような渇きがあるのです。

 この「渇き」は「欲望」とは違います。お金を得たい、名声を得たい、快楽を欲しいままにしたいというのはたんなる欲望です。たましいの渇きというのは、たとえどんなに財産を得ても、名誉を得ても、思いのままのことができたとしても、それによっては満たされることのないもの、神によってしか満たされることのないものなのです。モーツアルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」は地獄に落ちるまで快楽を求め続けても、それによっては決して満たされない男の姿を描いています。ゲーテの「ファウスト」では、学問や名声、恋愛によってもたましいの渇きをいやされない人間の姿が描かれています。聖アウグスティヌスは「神は人間を神に向かって造られた。人間には神によってしか満たすことのできない空洞がある。」と言いましたが、私たちのたましいは、自分で気付くか気付かないかにかかわらず、常に、永遠の真理を、人生の意義を、そして真実な愛を求めて渇いているのです。そして、その渇きは、永遠の真理、人生の意義、真実な愛そのものである神、イエス・キリストによってしか満たされないのです。みなさんはイエス・キリストを知らなかったとき、この世のものでは決して満たされることがなく、心が渇いていたという経験がありませんでしたか。そんなたましいの渇きが、あなたを神に近づけたのではなかったでしょうか。

 二、渇きをいやすお方

 「喉が渇いていない牛を水辺に連れていくことはできても、無理矢理水を飲ませることはできない。」ということばがあります。人は自分の渇きに気付かないうちは、それをいやされようとはしないのです。人はだれもがたましいの渇きを持っていますが、それに気付かない人は不幸です。自分では「すべてのものに満ち足りている」と思っていても、その内面は空っぽで、そこに恐れや怒り、不満などがうずまいているのです。また、たましいの渇きに気付いても、それを他のものでごまかしている人は気の毒です。外側は元気そうにふるまっていても、その内面に力がないので結局は回りのものに流される生き方しかできないのです。しかし、たましいの渇きに気付いている人は幸いです。渇きをいやされるからです。イエスは「義に飢え渇いて者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と約束しておられます。イエスは「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)と言われました。イエス・キリストは私たちのたましいの渇きをいやすお方です。私たちは、イエス・キリストを信じることによって、他のどんなものも満たすことのできない真実や愛、平安や力に満たされるのです。

 イエスはこうも言われました。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(黙示録21:6,17)黙示録にあることばですが、私はこのことばにいつも感動しています。イエスはいのちの水を「価なしに」、「ただで」くださるというのです。もし、神が私に「どんな罪も犯してはいけない。これだけの良い行いをせよ。そうしたらいのちの水を与えよう。」「きよく立派な人間になれ。そうしたらいのちの水を飲ませよう。」と言われたとしたら、私は神がせよと言われたことを成し遂げることができなかったでしょうし、神が期待されるような人間にもなれなかったでしょう。ところが、イエスは「いのちの水」を価なしに、ただで与える、恵むと言っておられるのです。求めて、受け取るだけでよいのです。私は高校生のときにイエス・キリストを信じました。それまでにつらいことや悲しいこともありましたが、それで毎日悩んでいたわけではありません。人生に疲れ果てていたわけでもありませんし、頭がおかしくなるほど考え込んだわけでもありません。けれども、勉強によっては分からないもっと深い真理を探していました。自分が何のために生きているかを知りたいと思っていました。自分を変わらず愛してくれるものを求めていました。神はそんな私に、イエス・キリストを示してくださったのです。神はこの私にこころをかけてくださり、私はイエス・キリストを信じて、たましいの渇きをいやされたのです。今もいやされ続けています。

 私は、私の渇きをいやす「いのちの水」をただで受取りました。神に恵んでいただいたのです。「恵んでもらう」というのはへりくだることなしには出来ることではありません。人には誰もプライドがありますから、立派な人、能力のある人、頭の良い人ほどへりくだるのが難しいでしょう。でも、私は特別すぐれたところが何もないごくふつうの高校生でしたから、素直に受け取ることができたのです。立派な人、能力のある人、頭の良い人は自分は誰かから恵んでもらわなければならないほどおちぶれていない、自分の努力で何とかできる、自分の知識で判断できると思って神の恵みを無駄にしてしまうのです。罪びとである私たちは、神のあわれみと恵みなしに救われることはありません。神のあわれみと恵みだけが私たちを救うのです。なのに、どこかで「私」の努力、「私」の良さ、「私」の信仰を誇ろうとしていませんか。「罪(SIN)」という言葉の真ん中には「I」(「私」)がありますね。このように「私」(「I」)が中心になることが「罪」なのです。私たちは信仰によって救われましたが、その信仰を誇ることはできません。信仰とは神が恵んでくださるものを受け取ることであって、信仰は功績にはならないからです。

 私たちは「いのちの水」を「価なしに」「ただで」受けました。しかし、それはもともと「ただ」でも「値打ちのないもの」でもありません。それはとてつもなく貴重なものです。誰もそのための代価を払うことができないほど高価なものです。しかし、イエス・キリストは、ご自分のいのちという代価を払ってそれを買い取ってくださいました。それは神の御子の命と引き替えに与えられた高価な「いのちの水」です。こんなに素晴らしいものが、私やあなたに、代価なしに提供されているのです。

 イエス・キリストは十字架の上で「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)と言われました。最後の晩餐を終えてからイエスはゲツセマネの園に行き、そこで夜を徹して祈られました。祭司長たちや長老たちから送られた群衆が闇に紛れてイエスを捕まえ大祭司のところに引いていきました。イエスは総督ピラトのもとに送られ、鞭打たれ、十字架を背負わされて街中を引き回されたうえ、十字架にかけられました。この間、イエスには一滴の飲み水も与えられませんでした。イエスが「わたしは渇く。」と言われたのは金曜日の午後3時ごろでしたから、前の日の晩餐の後から数えると、すくなくとも20時間は経っています。体中に傷を受け、大量の血を流した人が20時間一滴の水も与えられない、その苦しみは想像を絶しています。イエスが「わたしは渇く。」と言われた「渇き」は極限の渇きでした。

 イエスが味わった渇きは、肉体の渇きだけではありませんでした。 ヨハネ19:28 に「聖書が成就するために」とあります。「聖書が成就するために」とは別の言い方をすれば、神の救いの計画が成就するためということです。イエス・キリストの渇きは私たちの救いのための渇きだったのです。イエス・キリストは、決して渇くことのないお方です。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)と言うことのできたただひとりのお方です。そのお方が「わたしは渇く。」と言われ、実際に渇いてくださったのです。罪ある者が受けなければならない永遠の渇きを罪びとに代わって味わってくださったのです。イエスはご自分が渇くことによって私たちの渇きをいやしてくださいました。ご自分のいのちを注ぎ出すことによって私たちにいのちの水をくださったのです。恐ろしい刑罰の杯を飲み干すことによって、私たちに救いの杯をお与えくださったのです。

 これから守り行う聖餐で、私たちはキリストのからだであるパンとともに、キリストの血である杯をいただきます。これをいただくたびに、イエスが私たちに代わって神の裁きの杯を飲み干し、十字架の上で罪の刑罰のすべてを受けてくださったことを思い起こしましょう。また、それと同時に、イエスが私たちのためにご自分の命を注ぎだし、それによって罪の中に死んでいた私たちを生かしてくださったことを心にきざみましょう。このイエス・キリストのいのちが私たちの渇きをいやします。現代は、うるおいのない心の渇いた時代です。私たちの回りにはたましいの渇いた人々が大勢います。この聖餐によって、まず私たち自身がいやされましょう。満たされましょう。生かされましょう。そして、私たちの回りの人々に、ほんとうのいやしが、満たしが、生きる力がキリストにあることを知らせていこうではありませんか。

 (祈り)

 私たちのたましいの父よ、あなたは、私たちのたましいを満たし、私たちの渇きをいやすために、御子イエスを私たちに与えてくださいました。今、私たちは聖餐によってイエス・キリストをお受けしようとしています。キリストこそが私たちのまことの食べ物、まことの飲みものです。キリストのからだが私を満たし、キリストの血が私の渇きをいやすものでありますように。私たちのたましいは他の何ものよっても満たされることはありません。私たちを神の子羊によって満たしてください。主イエスのお名前によって祈ります。

3/29/2009