キリストのもの

ヨハネ17:6-10

オーディオファイルを再生できません
17:6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
17:7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
17:8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。

 聖書は、私たちに二つのことを教えます。ひとつは、神とはどんなお方かということ、もうひとつは、「私」が何者なのかということです。人は神のかたちに造られました。人の心には、神しか埋めることのできない空洞があって、人は、意識するにせよ、しないにせよ、何らかの形で神を求めています。神を知ろうとしています。神を否定する人であったとしても、人生の目的や意味、いつの時代にも変わらない真理や真実を知りたいと願っています。また、多くの人は、自分が何者かということを知ろうと苦闘しています。デズニーの「ライオン・キング」は、とてもヒットした映画で、皆さんもご覧になったことと思います。動物しか出てこない映画ですが、どの動物もとても人間らしくて、動物の世界をとおして人間の世界のことが描かれています。その中に、"Know who you are." というせりふがありましたね。主人公のライオン、シンバが、自分が王の子どもであることを忘れ、やがて王になるべきものであるという運命を否定していた時、彼の父親が幻の中に、"Know who you are." と語りかけるのです。それによって、シンバは、自分が何者であるのかを知り、新しい世界を作るために行動を起こすというのが、映画のストーリーでしたが、自分が何者であるかを知る時、それが生きる力になるということは、人間にそのままあてはまります。しかし、自分を知ることは神を知ることとつながっています。人は、神を知ることなしに、自分を正しく知ることはできません。しかも、神を知ることは、キリストを知ることなしにはできないのです。クリスチャンは、もちろん、キリストを知っているはずですが、キリストをどのようなお方として知っているでしょうか。また、自分がクリスチャンであるということをどのようにとらえているでしょうか。キリストは誰なのかということとともに、クリスチャンとは何者なのかということを、はっきりと理解しているでしょうか。

 一、キリストを知る

 さて、今年のレントの期間は、ヨハネの福音書17章から、主イエスの祈りを学んでいますが、1-5節の祈りからは、キリストがどのようなお方であるかを学ぶことができ、今朝の箇所、6-10節からは、キリストを信じる者たちが何者であるかということを学ぶことができます。まず、キリストがどのようなお方であるかを、おさらいを兼ねて、1-5節から、もう一度学んでおきましょう。

 1節で、イエスは、「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」と祈っています。神を「父」と呼び、ご自分を「子」と呼んでいます。イエスは神の子なのです。2節では「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」とあり、イエスは王であり、主であると言っておられます。しかも、この世の王ではなく、神の国の王であり、永遠のいのちの与え主なのです。3節では「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあり、イエスはキリスト、神が人類に遣わした救い主であると言っています。4節では「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」とあって、イエスが父なる神のみこころに忠実に従われた神のしもべでもあることが分かります。5節で、「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」と、神とともに永遠のはじめから持っておられた栄光について触れていますが、イエスは神と等しいお方、人となられた神なのです。

 人の心は神を求めていますが、目に見えず、手でさわることのできない神を知ることはたやすいことではありません。ベートーベンは「月光」というピアノ曲を作りましたが、それは、目の見えない少女のために、月の光がどんなものであるかを音であらわそうとしたものです。目の見えない少女は、音楽を聴いて月の光がどんなものかをおぼろげに感じ取ることができたでしょうが、いくら大作曲家の音楽とはいえ、月の光のすべてを表わすことはできなかったでしょう。しかし、神は、ご自分を表わすために、ご自分のひとり子を、人間としてこの世界に遣わしてくださいました。キリストは、神をおぼろげにではなく、はっきりと、ほんの一部分ではなく、そのすべてを明らかにしてくださったお方です。このキリストを知る時、私たちは、神を知ることができるのです。クリスチャンであれば、キリストを知っているはずです。しかし、もっと深く知ることを求めましょう。聖書に、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」(ぺテロ第二1:5-8)と勧めています。そして、キリストを深く知ることによって、私たちは自分が何者であるか、クリスチャンとは何なのかをさらに深く知ることができるのです。

 二、世のものでないことを知る

 1-5節では、キリストがどなたであるかが明らかにされていましたが、次の6-10節には、キリストを信じる者、クリスチャンが誰であるかが明らかにされています。主は、クリスチャンについて、何と言っておられるでしょうか。

 6節で、主は、クリスチャンを「あなたが世から取り出してわたしにくださった人々」と呼んでいますが、ここでクリスチャンは「世のものではない」と言われています。14節にも「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」とあります。クリスチャンがこの世のものでないというのは、どういう意味でしょうか。クリスチャンも、クリスチャンでない人もみな、この世で生活しています。おなじように食べて、働いて、生きています。クリスチャンは霞を食べているわけではりませんせんし、昔荒野に降ったマナを食べて生きているわけではありません。クリスチャンは、どこの国、どの町に住んでも、そのところで良き市民として生きようとし、他の人と特別変わった生活をするわけではありません。しかし、クリスチャンの生きている原理が、聖書が「世」と呼んでいるものとは根本的に違うのです。

 14節で「世は彼らを憎みました。」とあるように、「世」というのは、神に逆らい、神から遣わされたキリストを憎み、キリストを信じるクリスチャンを嫌う人々をさしています。また、25節に「この世はあなたを知りません。」とあるように、神を知らない人々、いいえ、実は、神を知ろうとしない人々、神を否定する人々が作り上げている社会と言うこともできます。神を否定した社会であっても、何かの原理、原則がなくてはやっていくことができませんから、結局のところ、そこでは人間が神となり、人間の欲望が支配原理になるのです。それで、使徒パウロは、キリストの十字架に敵対する人々について、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:19)と言って嘆いています。

 クリスチャンは、他の人たちと同じように、この世で生きています。しかし、この世の原理に従っているのではありません。人々が自己実現を目指している中で、クリスチャンは神のみこころがなりますようにと祈りながら歩んでいます。人々が、自分の力を誇る時に、クリスチャンは、神に感謝をささげます。人々が強い者になびいていく時に、クリスチャンは弱い者、小さな者に目を留めます。人々が、見せかけだけのものにまどわされている時、クリスチャンは、ものごとの本質を見抜くのです。パウロは十字架に敵対して歩んでいる人々を嘆きましたが、それに続いてクリスチャンについては、「けれども、私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20)と言っています。クリスチャンは、天国の国民、天国に属するものです。地上でどんなに成功し、栄誉を得たとしても、それらはやがて色あせていくものです。クリスチャンは、地上のどんなものよりももっとすばらしいものが天にあることを望みみて生きています。天国をめざす旅人です。もちろん、だからと言って地上のことはどうでもよい、「旅の恥は掻き捨て」と言わんばかりの生活をするのではありません。むしろ、天の望みを証しするのにふさわしい生活をしようと努めるのです。聖書は「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあってりっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのその立派な行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」(ペテロ第一2:11-12)と教えています。

 イエスが「あなたが世から取り出してわたしにくださった人々」と言われたように、クリスチャンとは、この世の滅びから救い出された人々のことです。しかも、神のあわれみによって救い出されたものたちです。ノアの洪水の時、世界は全く堕落してしまいましたが、ノアとその家族は、箱船によって大洪水から救い出されました。しかし、ノアが救われたのは、彼の功績によってではありませんでした。ノアは、その時代にあって「正しい人」と言われていますが、それは、彼の功績というよりは、信じる者を正しい者としてくださる神の恵みでした。ロトは、ソドムとゴモラへの刑罰から救い出されましたが、ロトの場合は、娘婿たちに神を伝えず、町の人々と妥協していました。ロトは御使いに手を引っ張られ、かろうじてそこから、救い出されました。聖書は、ロトの救いについて「主の彼に対するあわれみによる。」(創世記19:6)と言っていますが、クリスチャンがこの世の滅びから救いだされたのも、ただ神の恵み、あわれみによるのです。キリストを信じる者は、自分が「神が世から取り出してくださった者」であることを覚え、感謝のうちに生きるのです。

 三、キリストのものであることを知る

 では、クリスチャンが「世のもの」でないなら、いったい、何のものなのでしょうか。主は、「彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。」(6節)と祈っています。クリスチャンとは、神のものであり、キリストのものとなったものです。主は、「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(6節)と言いました。「世」は神を知らず、神のことばを聞こうとはしません。しかし、キリストの弟子たちは、みことばに聞き、キリストを信じました。8節に「彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」とあるとおりです。ここで主は、弟子たちが、神のものであったから、神のことばに聞き、神の遣わされたキリストを信じたのだと言ってます。しかし、人間の側では、神のことばを聞き、それを信じたので、神のものとされたという体験をします。エペソ1:13には「またあなたがたも、キリストにあって真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」とあります。私たちが信じたから神のものとされたといういのと、神のものだったから信じるようになったというのと、どちらが正しいのでしょうか。どちらも正しいのです。クリスチャンの多くは、信仰を持つようになった背後に、不思議な神の導きがあったことを感じ、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)とのことばに、心から同意することができます。また、神がご自分のものとしてお選びになった人は、どんなに神から離れ、迷っていても、かならず神のもとに立ち返り、イエスを主、キリストと告白するようになることを信じることができるのです。

 神の選びは、私たちの理解をこえたもので、理性でとらえきれるものではありませんが、神の選びを信じる人には大きな励ましを与えてくれます。もし、救いが私たちの信仰だけにかかっているとしたら、それは、私たちが神の手にすがりついているだけのことです。私たちの信仰が弱くなって、その手を離したら、私たちはたちまち救いから落ちてしまうことでしょう。しかし、神が、キリストを信じるものを選んでくださっているというのは、私たちが差し出した信仰の手を、神のほうで握りしめていてくださるようなものです。ちいさいこどもは、ごはんを食べている時でも、道を歩いている時でも、眠ってしまうことがあります。(年配になってもそうなりますが…)私の娘も、ちいさいころ、歩いていて眠くなってしまったことがありました。その時、私は娘の手を握っていたので、大丈夫でしたが、もし、娘が私の手を握っていただけなら、ころんでいたかもしれません。親がこどもの手を握っていれば、こどもが親の手を離して、ころびそうになっても支えることができます。「わたしがキリストを信じた。」というだけでなく、「神がわたしを選んでくださった。」という確信を持つことはなんと幸いなことでしょう。主は、ヨハネ10:28-29で「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」と言われました。キリストを信じる者は、主イエス・キリストの手と、父なる神の手の、ふたつの大きな手でしっかりと握りしめられているのです。

 また、神の選びを信じる者は、伝道に励むことができます。「神が信じるものを選んでおられるのなら、伝道しなくてもいいのではないか。」という考えは、聖書によれば的をはずれた考え方です。使徒パウロがコリントの町で伝道をはじめた時、主はパウロに、言われました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。…この町には、わたしの民がたくさんいるから。」パウロはこのことばに励まされて、コリントに長く滞在して伝道を続けました。目に見えるところは、困難でも、神のことばを語り続けることができるのは、この町にも、神のことばに耳を傾ける神の民が多く与えれれているという確信から来るのです。日本の堀越暢冶牧師は「伝道とは、神のことばをもって神の民を呼び集めることである。」と言いました。伝道は、クリスチャンだけがするのではない、神がまずご自分の民を選び、キリストがクリスチャンとともにいて助け、聖霊が人々の心に働いてくださるものなのです。そう考えるなら、伝道は重荷にならず、楽しみにさえなりますね。

 「クリスチャン」と言う呼び名は、実は、人々からつけられたあだ名でした。「キリストこそ私たちの救いである、希望である」と言っていた弟子たちを、人々は「彼らはキリストにつく人々、キリストのものだ」という意味で、「クリスチャン」と呼んだのでした。人々は、軽蔑の意味でこう呼んだのですが、弟子たちは、この名を誇りにして使うようになりました。「クリスチャン」という名には、クリスチャンの本質が言い表わされています。クリスチャンであることの本質は、「キリストのもの」とされたことにあるのです。自分がキリストのものであることが分かる時、クリスチャンは、この世にあって、目的と、意義と、そして確信をもって生きることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、キリストを信じる者があなたのものであり、キリストのものであることを感謝いたします。人間の魂は、あなたの手の中に帰るまで平安を得ることができませんが、あなたのものとされ、キリストのものとされていることの中に、ほんとうの平安を見出すことができ、心から感謝いたします。キリストのものであることから来る平安は、私たちがキリストを信じるまでは、理解することはできません。今、あなたを求めておられる方々が、イエス・キリストへの信仰を言い表わし、この平安を体験できますように、また、すでにキリストを信じる者たちが、キリストのものであることの喜びの中に生かされますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/7/2004