愛のうちに

ヨハネ17:24-26

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17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

 2001年9月9日、それは、あの9月11日の直前の日曜日でしたが、私は、ヨハネの福音書からのメッセージを開始しました。途中で他の箇所からのメッセージもしましたので、ヨハネの福音書16章までたどりついたのは2003年6月8日で、二年近くかかってしまいました。それ以来、しばらくヨハネの福音書からのメッセージを中断していましたが、今年は17章をとりあげ、今日でやっとそれを終えようとしています。私は牧師になって30年間、様々な箇所から説教してきましたが、ヨハネの福音書からまとまったメッセージをしたのはこれが始めてです。ヨハネの福音書は、他の福音書にくらべてとても単純なギリシャ語で書かれています。語彙の数も少ないので、ギリシャ語の基礎を学び、いよいよ聖書をギリシャ語で読む時には、きまってヨハネの福音書から始めます。私も神学校でヨハネの福音書をギリシャ語で学び、また、教えもしましたが、その時、ヨハネの福音書が良く分かったかというと、そうではありませんでした。ヨハネの福音書は、言葉遣いは単純でも、その内容は深く、その意味を理解し、自分のものとするのは、私には簡単なことではありませんでした。ヨハネは、自分のことを「主に愛された弟子」(ヨハネ21:20)と呼んでいます。ヨハネは、いつもイエスのそば近くにいた人でした。母マリヤとともにイエスの十字架のもとにまで、近づいています。最後の晩餐の時も、イエスのすぐ右に、まるでイエスの胸によりかかるようにして座っていました。それでヨハネは「イエスの心臓の鼓動を聞いた人」とも呼ばれています。ヨハネは弟子たちの中でも、とりわけイエスのおこころのうちを深く悟り知った人だったのです。ですから、ヨハネの福音書には、他の福音書にはないイエスのおことばがたくさんしるされており、そのひとつひとつがとても意味深いのです。私が、長い間ヨハネの福音書からメッセージをするのを躊躇してきたのは、はたして、イエスの心臓の鼓動を聞いていただけるような説教ができるだろうか、イエスのおこころのうちを間違いなくお伝えできるだろうかという思いがあったからです。ヨハネの福音書17章の学びは、今日で終わりますが、この祈りの中にちりばめられた大切な宝の多くを落してしまったのではないかと、今も心配しています。しかし、先に進まなければなりませんので、今日の学びで一応のくぎりをつけたいと思います。

 一、主とともに

 ヨハネの福音書17章は、イエスが世を去られる前に弟子たちのために祈ってくださった祈りです。イエスは弟子たちの、世にあっての守りを祈り、きよめを祈り、そして一致を祈ってくださいました。そして、その祈りの最後に「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。」(24節)と祈られました。ここで「わたしのいる所」と言われているのは、どこでしょうか。イエスは、天から、神のもとからこの地上に降りてこられたお方です。そして、地上で父なる神のみこころを成し遂げて天に帰ろうとしておられます。しかし、イエスは、ここではもう天に帰られたものであるかのように祈っておられます。イエスが天にお帰りになった後のことを、イエスはここで、先取りして祈っておられるのです。主イエスは、父なる神に祈る時は、地上にはおられても、その心は神のもとにあって、まるで、天で神とともにあるかのように、神との親しい語らいの時を過ごされました。主は、それと同じことを、地上に残っていく弟子たちが体験するようにと祈っておられるのです。私たちが世を去る時、あるいは、キリストが再び世に来られる時、私たちは、主イエスとともにあることができます。テサロニケ第一4:16-17に「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。「いつまでも主とともにいる」――このことが実現する時、すべての悲しみは慰められ、嘆きは賛美に変わり、疑問は答えを得、今は手探りであっても、その時には確かなものをつかみとることができるのです。けれども、主は、私たちがその時まで待たなくても、今、この地上にあっても天の喜びを味わうことができるように、悲しみの中にあっても天の慰めを得ることができるようにと祈ってくださり、そのことを実現してくださったのです。私たちは、地上にはいても、信仰によって天で主とともにあることができるのです。

 そのことについて、エペソ人への手紙は、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4-6)と言っています。キリストに従うものは、信仰によってすでに天にいるのです。事実、弟子たちは地上にありながらも、天の喜びで満たされていました。使徒ぺテロは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(ぺテロの手紙第一1:8)と言っています。このことばは、この地上にありながらも、そのたましいは天の喜びに中に生きているクリスチャンの姿をよく表わしています。主は「あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と祈られましたが、使徒パウロは「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(コリント第二3:18)と言っています。この地上にあっても、私たちは、信仰によって主の栄光を見ることができるのです。主が祈られた祈りは、最初の弟子たちから今にいたるまで、キリストを信じる者たちのうちに実現しています。キリストを信じる者たちは、その信仰によって、いつも主とともにいる、慰めと、喜びと、力とを体験することができるのです。

 二、私たちとともに

 「あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。」との祈りは、主の深い愛から出た祈りです。主は、私たちを「ご自分のもの」として愛しておられるゆえに、常にご自分のそばにおいておきたい、ご自分の栄光を表わしたいと思われ、そう祈られたのです。皆さんも、ひとりで、あるいはお友だちとどこかに行って楽しい思いをした時、奥さんが一緒だったら、ご主人が一緒だっら、こどもも一緒に連れてきてやればもっと良かったのにと思いませんでしたか。素晴しいところには、愛する人を伴っていきたいと思うのは当然です。また、学生なら卒業する時、両親に卒業式に来てもらいたいと思い、社会人なら何かの賞を受ける時は、配偶者といっしょに授賞式に出たいと思うでしょう。何かの都合で、両親や配偶者に来てもらえなかったら、きっとがっかりすることでしょう。そのようにキリストも、私たちへの愛のゆえに、私たちをご自分のいるところにいてほしい、私たちにご自分の栄光を示したいと願っておられるのです。

 25節で、主は、「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。」と言っておられます。イエスは、私たちに神を教えるため、この世に来てくださいました。神とはどんなお方か、神が私たちをどれほど愛しておられるかを弟子たちに教えてくださいました。イエスは「神について」何かを教えるというよりも、神の御子として、神そのものを弟子たちに示してくださったのです。しかし、弟子たちは、イエスが地上におれる時には、イエスの教えを完全には理解できませんでした。それで、主は「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。」と言われて、天に帰られた後も、聖霊によって弟子たちの心を照らし、真理を知らせ続けてくださったのです。私たちは、愛する人には、自分の思いをすべて知ってもらいたいと願いますが、同じように、主は、私たちを愛しておられ、私たちに、そのみこころを、聖書と、聖霊によって知らせようとしておられます。私たちも、もっと、神を知りたい、みこころを悟りたいとの願いをもって主に近づきたいと思います。

 さて、イエスはここでの祈りを「わたしが彼らの中にいるためです。」という言葉でしめくくっています。さきに、主は私たちがイエスと共にいるようにと、祈ってくださいましたが、ここでは、主が私たちと共に、私たちのうちにいることができるようにと祈っておられます。事実、イエスは天に帰る前に「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束され、その約束は、聖霊によって実現しました。天に帰られた主は、そこから聖霊を弟子たちに注ぎ、聖霊によってその約束を果してくださっているのです。私は、イエス・キリストの救いをお話しするとき、「イエスは天におられたが、私たちの救いのためにこの地上に降りてきて、十字架に死に、三日目に復活し、そして、天に帰られたました。」ということを中心にお話しします。「天から降りてきて」とはクリスマスのこと、「十字架に死に」というのは、グッドフライデーの出来事、「復活し、天に帰り」とはイースターと昇天日のことです。イエス・キリストのなさったことをお話しすればそれがそのまま救いのメッセージになるのです。そして、イエス・キリストを心に受け入れるようお勧めし、一緒に祈ります。そして祈りが終わった後、こう聞きます。「イエス・キリストは今、どこにおられますか。」「天におられます。」との答えが返ってくることがあります。私は「そうです。正しい答えです。でも、他に答えはありませんか。」と言うと、「私の心の中におられます。」と、多くの人は答えてくれます。キリストは天におられる、それは、正しい答えです。キリストが天におられるからこそ、天は私たちのものになるのです。しかし、もうひとつの答えがあります。「キリストは私のうちにおられる。」これはさらに素晴しい答えです。キリストが共にいてくださるので、私たちは、神に従い、神からの使命を果たすことができるのです。主は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる。」とも言ってくださっています。主は、私たちを愛して、私たちと共に、また、私たちのうちにいてくださることを、心から願っておられるのです。

 三、愛のうちに

 キリストは、私たちとご自分とともにおらせたいと願い、私たちのうちにいたいと願っておられます。クリスチャンは、このキリストの願いを自分の願いとして生きていきます。キリストが私たちをご自分とともにおらせたいと願っておられることを知る時、私たちは、私たちももっとキリストに近づきたい、神とのまじわりの中に生きたいとの願いが、より一層強くなります。主ご自身が、常に、父なる神と語り合う時を大切にされたように、私たちも、祈りの時、礼拝の時をしっかりと守っていきたいと思います。日々の祈りの時間にもっともっと主を深く知ることができるように、主の日の礼拝で、主の栄光を仰ぐことができるようにと、さらに求め、励みたいと思います。

 そして、キリストが私たちのうちに留まりたいと願っておられるのですから、私たちも、キリストが私たちと共にいることを喜んでくださるような者になりたいと思います。主は、どんな時も私たちを見捨てず、私たちとともにいてくださるお方ですが、主が私たちを喜んでくださる場合と、私たちを悲しまれる場合とがあります。エペソ人への手紙4:30-31に、もし、私たちのうちに「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり…悪意」があれば、聖霊が悲しまれるとあります。では、聖霊を悲しませることがないように、キリストに喜んでいただくにはどうすれば良いのでしょうか。エペソ4:32-5:2はこう言っています。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」ひとことで言えば愛のうちに生きることによって、私たちは主を喜ばせることができるというのです。私たちひとりびとりが、キリストがどんなに大きな愛で私を愛してくださったかを、しっかりと心に受けとめる時、また、その愛を実践していく時、キリストはその愛のうちに、私たちと共にいてくださるのです。私たちが愛に生きる時、私たちは、キリストが共にいてくださることを実感し、また、人々も、私たちと共にキリストがおられることを知るようになるでしょう。「主はぶどうの木」の賛美に「みことばにとどまり 愛に生きるなら この世は 知るでしょう 主の救いと いやし」とある通りです。

 もちろん、ここで言っている「愛」は人間的な愛ではありません。エペソ人への手紙に「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」とあるように、それは、キリストの愛です。ご自分を犠牲にしてまで私たちを愛してくださった愛です。ヨハネは、迫害を受け、高齢になってから強制労働のために鉱山に送られましたが、そこでも、人々に愛を説き、みずからも愛を実践しました。彼は、死を迎える日まで口を開けば「互いに愛し合いなさい。」と語ったと伝えられています。ヨハネが口にした愛は、キリストの愛、しかも十字架の愛でした。ヨハネは言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として神子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)ヨハネは、この愛、キリストの愛をもって愛し合えと教えたのです。イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)と言われましたが、私たちがとどまっていなければならないのは、この主の愛です。主の愛に留まる時、主も私たちとともに留まっていてくださいます。互いに愛し合うことを、家族や教会の家族という身近なところからはじめましょう。キリストに愛されていることを知り、キリストを愛し、互いに愛し合うことによって、主が私たちとともにいてくださることを体験させていただきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま。主イエスがご自分のためにではなく、弟子たちのため、また、後にキリストを信じる者たちのため、また、やがて、キリストを信じるようになる人々のために祈ってくだった、その祈りをこころから感謝いたします。私たちも、この祈りをみずからの祈りとしてあなたに近づきたいと願っています。「私たちをキリストとともおらせてください。」「キリストが私たちとともにいてください。」と日ごとに祈る私たちとしてください。十字架の愛で私たちを愛してくださっている、主イエスのお名前で祈ります。

4/4/2004