派遣の祈り

ヨハネ17:14-18

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17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

 一、とりなしの祈り

 今朝の聖書の箇所は、イエスが十字架の死を前にして祈られた祈りの一部です。イエスは最後の晩餐を終えてからこの祈りを祈られました。その祈りはほとんどが弟子たちのための祈りでした。イエスはこれから弟子に裏切られ、見捨てられ、十字架への道を歩んで行こうとしておられます。イエスは弟子たちに見捨てられるだけでなく、父なる神からも見捨てられ、罪びととなって十字架の上で神の怒りを身に受けようとしておられるのです。イエスはご自分のことを祈ってよかったのです。弟子たちにも、祈るように命じても良かったのです。しかし、イエスはご自分のことよりも弟子たちのことを祈りました。イエスのお心にはいつも弟子たちのことがありました。ルカの福音書でイエスはペテロに向かって「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31ー32)と言っておられます。「わたしは、…あなたのために祈りました。」とはなんと慰めに満ちたことばでしょう。私はいつもこのことばに励まされています。いつも弟子たちのために祈ってこられたイエス、世を去る前にはなおのこと弟子たちのために心を込めて祈られた主は、天に帰られた今も、ご自分を信じる者のために祈ってくださっています。

 イエスは私にとって祈りをささげる対象です。イエスは神ですから、私たちは「イエスさま」「主イエスよ」と言ってイエスに祈るのです。ところが、聖書はイエスが私たちのために祈ってくださると教えています。イエスは人となられ、私たちの立場に立って、私たちに代わって父なる神に祈ってくださるのです。ヘブル人への手紙には「私たちのためには、…偉大な大祭司である…イエスがおられる…私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。」(ヘブル4:14ー15)と書かれています。私たちは天で私たちのためにとりなしてくださる救い主を持っています。これは、私の知るかぎりでは他の宗教にはありません。他の宗教では、神は人間に祈りが足らないとその人を罰したり、見捨てたりします。それで、人々は神に罰されないように、見捨てられないようにと必死になって祈らなければなりません。しかし、キリストを信じる者はそんなふうに脅迫されて祈るのではなく、キリストが私たちのために祈っていてくださるその祈りに励まされて祈るのです。

 みなさんはときどき祈れなくなるほど落ち込んでしまうことがありませんか。あまりにも大きな出来事が起こったとき、ショックのため祈れなくなってしまうことがあります。榊原 寛先生はお子さんを亡くしたとき、長い間祈れなかったと話していました。ふだん祈っていないといざというときも祈れなくなるものですが、先生は今まで良く祈ってきた人でした。祈りがどんなに大切かをよく知っていました。「どんなときも祈りなさい。」と説教してきたのです。しかし、祈れなくなってしまう。そんな時が私たちにもあるのです。そんなとき、私たちはイエスが祈っていてくださるということを覚えたいと思います。キリストが祈ってくださるのだったら、私は祈らなくて良いということは決してありませんが、祈れないからもう駄目というのではないのです。そんなときも、イエスのとりなしに委ねましょう。ことばが出てこないときは心で祈りましょう。

 そして、私たちも大祭司であるイエスにならって小さな祭司になって、誰かのために、祈れなくなった人のために代わって祈ってあげましょう。私が日本にいたとき、大きな試練に遭った人がいました。その人が「先生、私はお祈りもできなくなりました。」と訴えてきたことがありました。それからしばらくしてその人は立ち直り、私もアメリカに来ることになりました。何年もたって以前の教会を訪ねたとき、その人が私にその時のことを話してくれました。「先生、私が先生に『私はお祈りもできなくなりました。』と言ったとき、先生が言ったことばを覚えていますか。」そう言われて私はドキッとしました。私はそのときのことをすっかり忘れてしまっていたので、何か変なことを言ったんじゃないかなと心配しました。その人は続けて言いました。「先生は、『祈れなければそれでいいよ。ぼくが代わりに祈ってあげるから。』と言ってくれました。私はそのことばで立ち直ることができました。」と涙を流して語ってくれました。私もとても感動しました。私たちは誰も直接神に近づくことができるのではありません。神に近づくには祭司が必要です。天の大祭司、そして、地上に立てられた祭司としての牧師、また、祭司としての兄弟姉妹たちです。聖書の「万人祭司」という教えは、よく誤解されるのですが、私たちにどんな祭司も必要ないという教えではありません。私たちの誰もが祭司を必要としており、また、キリストを信じる者は誰もが誰か他の人の祭司になってあげられるという教えです。親は子ども祭司です。年長者は若い人々の祭司であり、また、その逆である場合もあります。イエスはペテロに「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。ペテロのように失敗をしてもそこから立ち直った人こそが、より他の人々のために祈ることができ、人々を助けることができるようになります。私たちの教会がお互いがお互いの祭司となりあって祈りあっていく、そんな教会になれたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

 二、聖別の祈り

 イエスは世を去る前に弟子たちのために祈りました。何を祈られたのでしょうか。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17:15)と言って、弟子たちが世の悪から守られるようにと祈られました。弟子たちを聖め別つ聖別の祈りをささげられました。

 イエスは世を去ろうとしていますが、弟子たちは世に残ります。イエスが天から来られたお方であって、この世のものではないように、弟子たちも、この世から取り出されてキリストのものとなりました。「クリスチャン」という名に「キリストのもの」という意味があるように、クリスチャンはキリストのものであって、この世のものではないのです。この世はこの世のものは受け入れますが、この世のものではないものを受け入れません。それを憎み斥けます。人々は最初はイエスのことばを喜んで聞き、イエスのなさったことに拍手喝さいを送っていました。イエスがローマ帝国からユダヤを独立させてくれる人物だと思ったからです。イエスが五千人以上の群集にパンを与えたときには、イエスを王にしようという運動が起こったほどです。しかし、イエスはご自分の国がこの世の国ではなく神の国であると教えられました。人々はイエスが自分たちが期待したとおりの人物でないと知るとイエスを憎むようになり、ついに十字架に追いやったのです。なんと愚かなことだと思いませんか。確かにイエスは民衆が「期待した通り」の人物ではありませんでした。イエスは「期待以上の人物」、神の子キリストだったのです。人々はこともあろうに神の子を憎み、斥けたのです。日曜日に、ロバの子に乗ってエルサレムに入場するイエスを、棕櫚の葉を手に持って、「ホサナ! ホサナ!」と歌いながら迎えた群衆が、同じ週の金曜日には「十字架につけろ! 十字架につけろ!」と叫んだのです。イエスの十字架は神の愛のしるしですが、同時にそれはこの世の憎しみのしるしでもありました。今から二千年前のあの十字架のとき、この世の神の国に対する憎しみが最高潮に達したのです。しかし、神はその愛を豊かに注ぎ、憎しみのシンボルであった十字架を、愛と赦しのシンボルに変えてくださったのです。

 しかし、世はまだ世のままです。この世に残る弟子たちは、イエスが憎まれたように世から憎まれるでしょう。イエスが十字架にかけられたように弟子たちにも十字架が待っていました。ですからイエスは「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17:14-15)と祈られたのです。

 私たちもイエスのこの祈りを自分の祈りにしたいと思います。イエスは弟子たちが世にありながら世に染まらないこと、世から聖別されるようにと祈られましたが、「世にあって世に染まらない」ことは簡単にできることではありません。どうしたら、それができるのでしょうか。15節でイエスは「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。」と言われ、17節でも「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)と言われました。「真理」が、「神のことば」が私たちを聖別するのです。聖別というのはたんにギャンブルをしない、悪い遊びをしないとうことではありません。それは、外面のものばかりではなく、内面のものです。神のことばによって、今まで持っていた古い価値観がとりのぞかれ、ものの考え方が新しくされることなのです。神のことばが心に宿るとき、それが私たちのものの考え方、感じ方を変えていき、人生への態度を変え、生活を変えていくのです。

 この世は誘惑に満ちています。知らず知らずのうちにこの世の価値観が私たちのものの考え方を支配してきます。救われて心を新しくされたはずなのに、再び古い価値観に戻ってしまうことがあります。この誘惑から守られ、聖別を保っていくのに、祈らなくても良い人はだれもいません。イエスはゲツセマネの園で "Watch and pray!"「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。」(マルコ14:38)と言われました。私たちは他の人のためにとりなし祈るだけでなく、自分のためにも真剣に、熱心に祈っていきたいと思います。

 三、派遣の祈り

 イエスは次に「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)と祈られました。これは弟子たちをこの世に派遣する、派遣の祈りです。イエスは弟子たちが世の悪から守られるようにと祈られましたが、弟子たちが世から取り去られるようにとは祈られませんでした。弟子たちにとっては、イエスが世を去り天に帰って行かれるとき、いっしょに天に昇っていくことができたら、それにまさる喜びはなかったでしょう。しかし、そのようにして弟子たちが皆天に昇って行ったら、誰がイエス・キリストの十字架の救いを宣べ伝えるのでしょうか。誰がキリストの復活をあかしするのでしょうか。誰が神のことばを、真理を人々に語るのでしょうか。誰もいなくなってしまいます。この世は光を失ってしまい、闇のままで終わってしまいます。それでイエスは、弟子たちを世に遺していかれたのです。イエスは弟子たちにイエスが始められた伝道を引き継がせられたのです。

 イエスが直接伝道なさったのはわずか三年、その地域も今日のパレスチナのごく限られた地域にすぎませんでした。伝道の対象もほとんどユダヤ人だけでした。しかし、弟子たちはイエスの教えをアジアにヨーロッパに、アフリカに、そしてインドまでも伝えました。ユダヤ人ばかりではなく、ギリシャ人にも、ローマ人にも、あらゆる民族に伝えました。イエスは、20節で「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」と祈っておられますが、イエスは、このように福音が世界に広まり、もっと多くの人々がイエスの弟子になることを願い、またそれをあらかじめ見て、こう祈られたのです。イエスは一粒の麦となって死のうとしておられます。イエスが地上に遺していくのは、イエスが十字架にかけられたのを見て離散してしまうような弱い人々でした。しかし、イエスはご自分の死が死で終わることがないこと、弟子たちが弱いままでいることがないことを知っておられました。目の前に迫っている十字架にもかかわらず、イエスは将来を期待して祈っておられるのです。

 イエスは続いて21節で「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」と祈られました。最終的にはこの「世」が信じるようになるようにと祈っておられます。イエスを憎み十字架に追いやった「世」、弟子たちを苦しめた「世」、今も神に逆らい、キリストを拒んでいる「世」のために、主は祈られたのです。この「世」のまま終わり、神のさばきによって滅びてしまわないように、この「世」が神のことばに聞き、キリストを知り、罪を悔い改め、神の国となるようにと言っておられるのです。なんという大きな祈りでしょう。大きな愛でしょう。ヨハネ3:16が「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、『世』を愛された」というように、イエスはこの世を愛され、そのために命をささげ、そして、その愛を伝えるようにと、弟子たちを世に派遣されたのです。

 じつは私たちもイエスによって派遣されているのです。どこにでしょうか。私たちがこれから帰っていく家庭に、地域に、そして職場にです。私たちは、そこでキリストを語ることによって、キリストに従って生きることによって、キリストの十字架の愛を、復活の力をあかしするのです。毎週の礼拝は派遣式です。礼拝に来るとき私たちは、この世から取り出され、聖別されて神の前に立ちます。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)とのイエスのことばを聞くのです。礼拝から出て行くときには、「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)とのことばを聞きます。礼拝でいただいたキリストのメッセージを携えて遣わされていくのです。これはいつもの礼拝で繰り返されることですが、今週は、とくに、イエスが十字架を前にして祈られたこの二つの祈り、聖別の祈りと派遣の祈りに私たちの祈りを重ねあわせ、それにこたえていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスは十字架を前にしてなお、弟子たちのために祈られました。弟子たちが世から聖別されるように祈られました。そして、そのうえで弟子たちを再び世に遣わしてくださいました。主イエスは同じように、今も私たちのために祈り、私たちを聖別し、私たちを遣わしてくださいます。主イエスの祈りに込められた私たちへの厚い期待にこたえることのできる私たちとしてください。十字架に示されたあなたの愛、復活に表されたあなたの力こそ、今、人々に最も必要なものです。私たちがそのことをしっかりと確信し、それをあかししていく、キリストの証人となれますよう助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/5/2009