御名の中に

ヨハネ17:11-15

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17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
17:13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

 礼拝では、ヨハネの福音書17章の主イエスの祈りを学んでいますが、この祈りは、おおきく三つにわけることができます。1-5節は主イエスご自身についての祈り、6-19節は、弟子たちのための祈り、そして、20-26節は、将来のクリスチャンたちのための祈りです。6-19節の弟子たちのための祈りの10節までは、キリストとキリストを信じる者たちの関係が示されていました。キリストを信じる者は、神のもの、キリストのものだということを、主は明らかにしてくださいました。そして、11-15節では、主は、弟子たちが世にあって守られるようにと祈り、16-19節では弟子たちがきよめられるようにと祈っておられます。今朝は、11節を中心に、弟子たちが世にあって守られるようにとのイエスの教えを学びましょう。

 一、神の御名

 主イエスは、この祈りの後、ゲツセマネの園に向かい、そこで捕まえられ、大祭司カヤパの裁判、総督ポンテオ・ピラトの裁判に引き回され、鞭打たれ、十字架を背負ってゴルゴタの丘を上り、そこで、両手両足を釘付けされて十字架にかけられます。イエスが息を引き取られたのは、午後三時ごろでした。ですから、主はこの祈りをささげてから十数時間のうちに世を去ることになります。11節で「わたしはもう世にいなくなります。…わたしはあなたのみもとにまいります。」と祈っておられるように、主は、これから起こることをすべてご存知だったのです。私たち人間は、明日何が起こるか分からない存在です。しかし、主は、全知全能の神ですべてを知っておられるお方です。主は、ご自分の身に起こることをご存知のうえで、ご自分のことよりも弟子たちのことをこころにかけておられます。「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。」と、弟子たちのために祈っておられます。私たちは自分がつらい時、苦しい時、わがままになったり、不平不満が出てきたり、他の人のことを思いやる余裕がなくなってしまうことがあります。しかし、主は、歴史の中で、世界の誰もが味わったことのない極限の苦しみを味わっておられるにもかかわらず、弟子たちのことを深く心にかけていてくださったのです。ヨハネ13:1は、口語訳では「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」となっています。文語訳では「きわみまで愛したまえり。」とあります。弟子たちを「最後まで愛し通された」愛を、この祈りから感じることができます。私たちには明日はわかりません。しかし、私たちの明日を知っておられる主に、ものごとを委ねていく時、私たちは、明日を思いわずらうことから解放されるのです。

 ところで、主イエスが単に「弟子たちを守ってください。」と言うだけでなく、「あなたの御名の中に、彼らを保ってください。」と祈っておられるのはどういう意味でしょうか。聖書には、神の御名が多く出てきます。クリスチャンが祈る時も、「イエス・キリストの御名によって祈ります。」と言いますね。聖書では「名前」、とくに神のお名前は、とても大切にされ、特別な意味をもって使われています。英語では "He has a very good name." というと、「彼は、たいへん評判がよい」という意味になりますし、日本語でも、「その名に恥じないように。」とか「名前を傷つけられた。」と言うふうに使われます。名前は、たんに個人を識別する ID というだけにとどまらず、その人の人格を表わすものとして使われているのです。神の「名前」という時には、とくにそうです。神の「名前」は目に見えないものを表わすものであり、私たちは、神の名を知ることによって、神を知るのです。神の名とは、明らかにされた神の本質であると言うことができます。

 創世記32章にあるように、ヤコブは夜通しひとりの人と格闘しました。夜があけて、その人が去ろうとした時、ヤコブは「どうかあなたの名を教えてください。」と願っていますが、それは、自分と格闘した人が誰であるかを知るためでした。名前を知らせるというのは、その人の本質を明らかにすることであり、名前を知るというのは、相手の本質を知るということになります。ヤコブと格闘したその人は「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言ったままヤコブから離れていきました。その人は、ヤコブがすでにその名を知っていた神だったのです。

 出エジプト記3章ではモーセが神にその名を尋ねています。その時、神は「わたしはある」という者であるとおっしゃり、「ヤーウェ」という名で、ご自分を表わしてくださいました。ユダヤの人々は神の名をみだりに唱えることを恐れて、「ヤーウェ」とあるところを、「わが主」という意味の「アドナイ」と読みかえるようになりました。それで、英語の翻訳では「ヤーウェ」は大文字で "LORD" と書かれ、新改訳では太文字で「主」と書かれるようになりました。神がモーセに現われるまで、神はご自分を「全能の神」として表わしてこられましたが、モーセには「ヤーウェ」、「あってあるもの」という名をもってご自分を表わしてくださいました。この名から、神が他のどんなものにも依存することなく、ご自分で存在しておられるお方であることが分かります。人間はみな、他のものに依存して存在しています。私たちは誰ひとり自分の力で生まれてきた者はありません。両親に生んでもらったのです。母親の胎内にいた時から、他の者に依存せずには生きてこれませんでした。生まれてからも、家族に、社会に、また自然環境に依存しながら生きています。何より、その命は神に依存しています。しかし、神は、すべてのものをお造りになりそれを支えておられるお方であって、何者にも依存する必要がないのです。人間は「あってなきがごときもの」ですが、神は「あってあるもの」です。私たちは、皆、自分の名前は自分でつけたものではありません。親につけてもらったものです。ペンネームはどうかわかりませんが、雅号や芸名なども、ふつうは師匠やパトロンにつけてもらいます。しかし、神は、「わたしは全能の神である。わたしはあってあるものである。」と、ご自分でご自分に名づけられるお方です。

 また、このお名前は、神が永遠に変わらないお方であることを表わしています。イスラエルは四百年間、エジプトで奴隷でしたが、神は、その間イスラエルを忘れておられたわけではありません。神は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた約束を決して反故にはなさらないで、時いたって、イスラエルをエジプトの奴隷から救おうとされたのです。人は変わります。しかし、神は変わりません。人の名は、有名な人でも、年十年かは覚えられていてもやがて忘れられていきます。しかし、神の名は変わることはありません。神の真実も、愛も、約束も決して変わることはないのです。

 「わたしはあってあるもの、ヤーウェである」という名は、神が、常に、神の民と共にいてくださるお方であるということを表わしています。神はイスラエルが奴隷として苦しめられている時、そこにいてくださったお方です。イザヤ63:9に「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とある通りです。イスラエルが荒野を通る時も、主は、彼らと共におられました。神がご自分の名を「ヤーウェ」「あってあるもの」「存在する者」と呼ばれたのは、神が、神の民と「ともにいてくださるお方」だったからです。神の御名は、このように神の本質を表わしています。

 二、神の御名とキリスト

 主は、弟子たちのために、「あなたの御名の中に、保ってください。」と祈りました。イエスは、弟子たちを世にあって守るのは、神の御名であると告げています。しかも、神の御名について「あなたがわたしに下さっているあなたの御名」と言っています。キリストが神の御名を持っておられるというのですが、これは、いくつかのことを意味しています。まず第一は、キリストが父なる神からすべての権限を与えられているということです。アメリカの駐日大使は、ハーワード・ベーカー氏ですが、彼は、日本で、ブッシュ大統領にかわって、アメリカ政府の意向を伝えることができるのです。同じように、いいえ、もっと完全な形で、イエス・キリストは父なる神から、すべての権限を委ねられているのです。マタイの福音書に「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:29)とあります。ある人は、この箇所について「イエスは語り、律法学者たちは口ごもった。」というコメントをつけています。律法学者たちは、先輩の学者たちが神について何と言ったか、聖書のある箇所をどう解釈したかを、長々と、しかも回りくどく説明するだけで、「神のみこころはこうだ。」と明快に語る者は誰もいなかったのです。しかし、神のみこころのすべてを知り、神からの全権を託されたイエスだけが、はっきりと神のことばを語ることができたのです。

 第二に、キリストが神の御名を持っているというのは、キリストだけが完全に神のご性質を表わされたお方だということを意味します。名がその人の本質を表わし、神の御名が神のご性質を表わすのですが、イエスご自身が神の「名」となって、神ご自身を表わしてくださったのです。ヘブル人への手紙に「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル1:1-3)とあります。一度読んだだけでは、すぐには理解できないような箇所ですが、ここで注目していただきたいのは、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われである。」ということばです。罪あるものには見えない神の栄光、また神の本質を、目で見て理解できるようにしめしてくださったのが、キリストです。ヨハネの福音書は、このことを、もっとわかりやすく、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:1)と言っています。イエスも、弟子のピリポが「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と言った時、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14: 8-9)ということばもまた「キリストに与えられた神の御名」の意味をよく言い表しています。

 第三に、キリストが神の御名を持っているというのは、キリストこそ神そのものであるという意味です。旧約でヤーウェは「主」と読み替えられましたが、新約ではヘブル語の「ヤーウェ」はギリシャ語の「キュリオス」、「主」と訳されています。「イエスは主である。」というのは、クリスチャンの一番基本的な信仰告白ですが、これは、「イエスはヤーウェである。」という意味なのです。聖書は「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと、神はわたしたちとともにおられる、という意味である。」(マタイ1:23)と言っていますが、キリストこそ人なって私たちと共にいてくださるヤーウェなる神なのです。

 三、神の御名とクリスチャン

 では、弟子たちはどのようにして、この神の御名の中に保たれるのでしょうか。神の守りは決して自動的ではないことは、弟子たちのしたさまざまな失敗から見てわかりますね。今日のクリスチャンも含めて、キリストの弟子たちは、決して、この世の力の届かない安全地帯にいるわけではありませんし、クリスチャンの周りには、どんな誘惑も跳ね返す強力なバリヤーが張られているわけでもありません。英語に "vulnerable" という言葉があります。「攻撃にさらされやすい」とか「もろい」とかいう意味なのですが、弟子たちは、決して人並み外れて強い人々ではなく、むしろ、"vulnerable people" でした。しかし、彼らは、まったく無防備ではありませんでした。人間的には強くはありませんでしたが、それを補ってあまりある神の御名があったのです。イエスは、すでにそのことを16章で明らかにしておられました。 主は弟子たちに「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。…わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」(ヨハネ16:23-28)と言われました。今までは、イエスが弟子たちと共にいて、弟子たちを守ってこられ、弟子たちに代わって、イエスが父なる神に祈ってくださいました。しかし、イエスが天に帰る時がやってきました。イエスは、世から去っていかれます。もはや目に見える形では、弟子たちとともにはいません。しかし、イエスはご自分の名を弟子たちに残していかれました。イエスが去っても、キリストの名は、弟子たちと共にあるのです。キリストの名で祈る時、父なる神の大きな力が働いて、弟子たちをあらゆる攻撃から守り、困難の中で支えるのです。神はキリストに神の名を与え、キリストは弟子たちにキリストの名を与えてくださいました。キリストを信じる者、「クリスチャン」の名を持つものは、キリストの名を持っているのです。キリストの名がクリスチャンを守ります。

 キリストの名は、弟子たちを守るだけではありません。弟子のペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」といって、足のきかない人を立ち上がらせました。ペテロは、ユダヤの指導者たちを前にして「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と宣言しています。主の名によって、力強い働きをしていったのです。

 しかし、神の名やキリストの名は、それを胸につけていれば、警察官のバッジのように力を発揮するというものではありません。神の御名によって守られるためには、まず、何よりも、私たちが神の御名を知る必要があります。ヨハネ17:6でイエスは「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。」と言っています。8節に「彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」とあります。弟子たちは、神の御名を知り、それを受け入れ、それを守りました。同じように、今日のクリスチャンも、みことばに聞き、信じ、それを守ることによって、神がどんなお方であるか、キリストがどんなお方であるかをより深く知っていきます。そして、それによって神の御名による守りを体験することができるのです。西行法師は伊勢参りをした時「何ごとのおはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」と歌いました。よくわからないからありがたい、というのは、いかにも日本的な心情で、私たちも、そうした気持ちを理解できないわけではありません。しかし、キリストを信じる信仰は、神がどんなお方かわからなくても良い、キリストがどんなお方が知らなくてもよいというものではありません。神をより正しく知り、キリストをより深く知る時、私たちが知り、信じ、信頼している神の御名によって守られるのです。全能の神の名、私たちと共にいてださる主の御名、なによりも素晴らしいキリストの御名をさらに深く知り、それを愛し、それを誇り、その御名に頼るものとなりましょう。その時、イエスが「あなたの御名の中に、彼らを保ってください。」との祈りの答えを体験するのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたの御名に守られること以上に確かなこと、それにまさって豊かな平安を与えるものはありません。私たちが、神の御名を忘れて思いわずらったり、恐れに取り囲まれたりする時、私たちをあなたの御名のもとに引き戻してください。私たちに与えられた力あるキリストのお名前で祈ります。

3/14/2004