キリストの栄光

ヨハネ17:1-5

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17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

 イースターから日曜日をのぞいて四十日をさかのぼった日は「灰の水曜日」と呼ばれ、その日から、受難節がはじまります。今年は先週の水曜日が、その灰の水曜日でしたから、今日は、受難節の最初の日曜日ということで、礼拝プログラムには、「受難節第一主日」となっています。今年の受難節は、ヨハネの福音書17章のキリストの祈りを学ぶことにしています。今朝は、その第一回目で、17章1-5節をとりあげます。ここからキリストの祈りについて、キリストの救いのみわざについて、そして、キリストの栄光について学んでみたいと思います。

 一、キリストの祈り

 ヨハネの17章では、主は三つのことを祈っておられます。1-5節で、主はご自身について祈り、6-19節では、ご自分の弟子たちのために祈り、そして、20-26節で、将来の弟子たちのために祈っておられます。イエスは、ご自分のためにも祈られましたが、イエスの祈りの大部分は、弟子たちのため、キリストを信じる人々のための祈りでした。

 私は、キリストが、何をどのように祈っておられるかを調べようとして、この箇所を読みはじめたのですが、ここを読みながら、ひとつの事実に心がとられられました。それは、キリストがキリストを信じる者たちのため、また、将来キリストを信じるようになる人々のために、祈っていてくださるという事実です。考えてみれば、キリストは私たちが祈りをささげる対象です。私たちがキリストに祈る、あるいは、キリストを通して父なる神に祈るのは当然のことです。ところが、私たちがキリストに祈る、あるいは、キリストを通して父なる神に祈る以前に、キリストが私たちのために祈ってくださっているのです。

 ルカの福音書22:31で、主は、シモン・ペテロに、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」と言われました。ペテロが、大きな試練にあって、キリストを否定することを予告されたのですが、それに続いて、こう言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)ふつうなら、「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられた。」ということばの後には、「だから目を覚まして祈れ。」といったことばが来るものですが、主は、そうは言わず、「わたしは、あなたのために祈った。」と言われたのです。主は、ペテロの弱さをご存知でした。ペテロの精一杯の頑張りによってはサタンの攻撃に打ち勝てないこと、また、彼の犯した罪や過ちから立ち直ることもできないことをご存知でした。それで、ペテロが主に助けを求めて祈る前に、主がペテロのために祈ってくださっていたのです。

 今も、キリストは、私たちの祈りを聞いてくださるというだけでなく、私たちのために祈っていてくださるのです。ローマ8:26に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とあります。聖霊は、私たちが、何をどう祈ってよいかわからない時、私たちの心の中で、祈ってくださるお方ですが、イエス・キリストもまた、私たちのために、私たちに代わって祈ってくださるのです。ヘブル人への手紙には、キリストが大祭司となって、私たちのために祈っていてくださるとあります。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17-18)「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:14-16)キリストご自身が、私たちのために祈っていてくださる、これは、なんという大きな慰めであり、励ましでしょうか。この事実に励まされ、私たちも、どんな時にも、あきらめず、祈り続けるものとなりたく思います。

 二、キリストの救いのみわざ

 第二に、キリストの祈りから、キリストの救いのみわざについて学びましょう。ヨハネの福音書17章の祈りで、主は、「父よ。時が来ました。」と祈られました。その「時」とは、キリストが十字架で死なれる時、復活される時、そして、父なる神のもとから降りてこられたキリストが、ふたたび、父なる神のもとに帰られる時のことをさします。カナの町の結婚式で、母マリヤから「ぶどう酒がなくなりました。」と言われた時(ヨハネ2:4)や、兄弟たちに「ガリラヤにいないで、ユダヤに行って奇跡ををやってみせたらどうだ」と言われた時(ヨハネ7:6)など、主は、これまで、「私の時はまだ来ていません。」と言ってきました。しかし、エルサレムに入城された後には、主は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」(ヨハネ12:23)と言われました。「この世を去って父のももとに行くべき自分の時が来たことを知られた」主は、最後の晩餐の時に、弟子たちへの愛を残るところなく示されたのでした(ヨハネ13:1)。それで、十字架を前にしたこの時、主は「父よ。時が来ました。」と祈られたのです。

 人間は生まれる時も、死ぬ時も自分で決めることはできません。また、苦難の時や幸いな時を自分で選ぶこともできません。詩篇に「私の時は、御手の中にあります。」(詩篇31:15)とあるように、私たちの時は、神の手の中にあります。しかし、キリストは、神の御子ですから、ご自分で、ご自分の時を定めることができたはずです。それを早めることも、遅らせることもおできになったでしょう。しかし、主は、そうはなさらずに、神が定めたままに、その時をお迎えになりました。「父よ。時が来ました。」この祈りの中には、キリストの父なる神への従順なお姿が表わされています。キリストがご自分の権利を捨てて、父なる神に従われたのは、私たちの救いを成就するためでした。罪を犯して神から離れていった人類を救うために、神は救いの計画を立て、それを長い歴史の中で推し進めてこられましたが、ついにそのご計画のクライマックスがやってきたのです。キリストが、全人類の罪のためにご自分をささげ、その犠牲によって、人類の罪を赦し、その復活によって、信じる者に永遠のいのちを与える時がやってきたのです。キリストは、父なる神への従順によって、私たちのための救いの計画を寸分違わず成就し、私たちのための救いを勝ち取ってくださったのです。

 主が、この祈りをささげられたのは、最後の晩餐を終え、ゲツセマネの園に向かって行かれる時でした。十字架にはまだあと数時間がありました。復活までは、なお三日があり、父なる神のみもとに帰る昇天の日までは四十数日がありました。しかし、主は、ここですでに、「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(4節)と言っておられます。十字架の出来事も、復活もまだ起こっていませんが、主にとっては、もうそれは起こったも同然のことだったのです。主は、十字架に向かわれる前に、十字架の苦しみや、死の力に、すでに勝利しておられたのです。ヨハネの福音書は、ゲツセマネの園での祈りのかわりに、この祈りを書き記しましたが、それは、ユダヤの指導者たちに捕らえられた時も、裁判に引き出された時も、決して、恐れたり、おびえたりすることなく、たとえ、人々からなぶりものにされても、神の御子としての威厳を保ち、すべてを耐え、父なる神のみこころに黙々と従われた、主の姿を描くためでした。

 主は十字架の上で「完了した。」と言って息を引き取られましたが(ヨハネ19:30)、これは、「わたしはあなたのわざを成し遂げました。」とのことばのこだまです。主が十字架の上で「完了した。」「すべてが終わった。」と言われたのは、神のみこころをすべてなし終えた勝利の叫びであり、救いのわざを成し遂げた、満ちたりた喜びの叫びだったのです。そして、この叫びの声は今も消えることはありません。私たちの救いのために必要なことはすべて、成し遂げられています。主がすべてを成し遂げてくださったのです。私たちがしなければならないことは、それを、信仰によって受け取ることだけです。自分で自分を救おうとしてジタバタする必要はないのです。成し遂げられたキリストの救いに、しっかりと立てば良いのです。救われた者のことを、「この人は、救われるために何をしたのか。」と神の前で責める者があったとしても、キリストが、「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」と言って、神に対してとりなしてくださるのです。キリストが成し遂げてくださった救いを、こころから感謝しようではありませんか。

 三、キリストの栄光

 さて、第三に、キリストの栄光について学んでおきましょう。キリストはここで「わたしの栄光をあらわしてください。」と祈りました。キリストは、神のわざを行い、神の救いの計画をもらさず成就しました。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(4節)とある通り、キリストは、神への従順によって、神の栄光をあらわしたのです。今度は、父なる神が、キリストの栄光を表わす番です。それで、キリストは「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(5節)と祈られたのです。キリストは、もとから、父なる神と等しい栄光を持っておられました。しかし、キリストは、私たちの救い主となるために、その栄光の一切を天に置いて、地上に、降りてこられたのです。ピリピ人への手紙2:6-7に「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」とある通りです。ピリピ人への手紙は続いて「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:7)と言っています。キリストが最も低くなられたのが、あの十字架だったのです。神の御子である方が、その栄光を捨て、罪人となって、恥と罰の中に苦しまれたのです。キリストのこのへりくだりは、人間がどんなにへりくだっても、決して真似ることができないものです。最も正しいお方が罪人となり、最もきよいお方が汚れた者となり、いのちの主が死なれたのです。それは、簡単には理解できないものです。しかし、事実、主は、最も低い所までくだってこられたのです。それゆえ、神は、キリストを最も高いところまで引き上げてくださいました。ピリピ2:9-11はこう言っています。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」キリストが、「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(5節)と祈られたのはこの栄光のことだったのです。

 しかし、キリストが「わたしの栄光を表わしてください。」と祈られたのは、ご自分のためではありません。それは、私たちの救いのためでした。キリストがその栄光を天に置いてこられたのが、人類の救いのためであったように、キリストがその栄光を表わされるのもまた、私たちの救いのためなのです。キリストは、罪人の身代りとなるためにその栄光をお捨てになりましたが、キリストを受け入れる者を救い、信じる者に永遠の命を与え、従う者を守り、導くために、キリストは復活し、父なる神とともに天の王座に着く必要があったのです。それで、主は、2節で「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」と祈られたのです。「もし、キリストが天の栄光を捨てて、この地上に来てくださらなかったら、十字架でその命をささげられなかったら…」と考えてみたことがありますか。もし、そうなら、私たちの救いはなかったのです。おなじように、キリストが復活し、昇天し、その栄光の中に帰ることがなかったら、永遠のいのちは、私たちのものとはならなかったでしょう。ある人が「永遠のいのちとは、私たちのうちに働く神のいのちである。」と言いましたが、そのいのちは、栄光のうちにおられるキリストをあおいで、「イエス・キリストは主である。」と告白する者たちのうちに働くのです。

 主が十字架を前にして、ご自分の栄光について祈られたのは、弟子たちに、キリストが苦難のしもべであると共に、栄光の主であることを教えるためでした。3節でキリストは、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」と言っておられます。永遠のいのちを受ける道は、神とイエス・キリストを知ることから来ます。言い替えれば、神をキリストを通して知ることです。キリストを知ることなしに、神を知ることはできないのです。しかも、キリストを知るとは、キリストを、人となって十字架の上で苦しまれたお方としてだけでなく、神の子として栄光のうちにおられるお方として知ることでもあるのです。ヘンデルはメサイアという名曲を作りましたが、彼は、その中で、キリストの預言、その十字架の苦しみだけでなく、復活と永遠のいのちをも歌っています。キリストの受難だけでなく、キリストの栄光が歌われてこそ、メサイア、救い主を歌うことができると考えたのです。ヘンデルは、メサイアの演奏会のプログラムにかならず、次の聖書のことばを書きました。「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(テモテ第一3:16)私たちも、人としてこの世に来られ、私たちの救いのために、神のご計画のすべてを成し遂げてくださり、今、その天の王座で私たちのために祈っていてくださるお方を賛美しようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、今年も、キリストのご受難を思い見る時がやってまいりました。この受難節に、キリストの苦難とともに、キリストの栄光をも理解することができますよう、助けてください。キリストのお名前で祈ります。

2/29/2004