愛の戒め

ヨハネ15:9-11

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15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

 ぶどうの木はキリスト、わたしたちはその枝です。ぶどうが実を結ぶためには枝が木につながっていなければなりません。そのようにわたしたちもキリストにつながっていなければ実を結ぶことができません。「キリストにつながる」の「つながる」という言葉は、英語では "abide" と訳されています。日本語ではヨハネ15章の4〜7節では「つながる」、9〜10節では「いる」、16節では「残る」となっていますが、もとの言葉はみな同じで「とどまる」という意味です。キリストにつながることは、キリストの言葉にとどまることであり、キリストの言葉にとどまることはキリストの愛にとどまることなのです。

 では、キリストの愛のうちにとどまるとはどうすることなのでしょうか。キリストはそのことを、「父がわたしを愛されたように」と、「わたしが父のいましめを守ったので」というふたつの言葉で表わしておられます。

 一、愛を受ける

 まず、「父がわたしを愛されたように」という言葉から学びましょう。主イエスが「父がわたしを愛された」と仰ったとき、それはわたしたちの知恵や知識を超えた神秘、あるいは奥義を指し示しています。父なる神が御子を愛された。それは、いつ、どこでのことでしょうか。それは、時間や空間が造られる以前の永遠のはじめ、神ご自身の存在の中でのことです。「神は世界を造られる前に、何をしておられたか」という質問に、「神は、そのようなことを考える者のために、地獄を造っておられた」という意地悪な答えがあります。アウグスティヌスは、そんな意地悪な答えではなく、「そのとき神は愛しておられた」と、正しく答えています。聖書は「神は愛である」と教えています。愛である神は常に愛するお方です。神は世界を造り、人間をご自分の愛の対象として造られましたが、その以前から神は御子を愛し、愛のまじわりの中におられたのです。

 主イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した」と仰って、わたしたちもまた、神の永遠の愛という、とてつもなく大きく、決して変わらないもの、裏表のない純粋なもので愛されていると、教えてくださいました。

 人間の愛には、どこか打算的で自己中心的なところがあります。自分の好む人や、自分に良くしてくれる者は愛するが、そうでない人は愛さないといった面があります。また、人の愛は一定していません。ちょっとしたことで愛が壊れ、いつしかそれが消えてしまいます。人の愛はじつに不確かで、そのために多くの人が傷つき、苦しんでいます。

 しかし、神の愛は違います。神は言われます。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」(イザヤ43:1-2)日本語には、「たとえ火の中、水の中」という言葉がありますが、神は、わたしたちが「火の中、水の中」を通るときも見捨てず、支え続け、愛し続けてくださるのです。

 この言葉のあとに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4新改訳)という、よく知られている言葉が続きます。神の愛を心に留めず、それに逆らうようなことをしてきたわたしたちには、神に愛される資格も権利もありません。聖なる神の目には、欠けだらけで、申し訳けのない者です。なのに、神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言ってくださるのです。神が「わたしの目」と言われた「目」は、温かい愛の目です。人の目にはときとして冷たい目があります。実際に刃物で傷つけられることはなくても、冷たい目に刺され、痛い思いをしたことは、皆さんにもあると思います。しかし、神の優しいまなざし、愛の目は、人の冷たい目に傷つけられたわたしたちをいやし、生かし、慰めてくれるのです。

 神はまた、こう言われます。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46:4)こんな言葉もあります。「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(エレミヤ31:3)

 このような愛こそ、わたしたちに必要な愛です。人間の愛は、自分の愛も含めてとても不安定です。不安定な愛からは不安定な生活しか生まれません。変わらない神の愛によってわたしたちははじめて安定した生活ができます。イエス・キリストは、ご自身が父から愛されていることを決して疑いませんでした。主はバプテスマのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)との声を聞き、変貌の山でも、もう一度、同じ言葉を聞いておられます(マタイ17:5)。主イエスは父の愛を知り、確信しておられたので、自分を十字架につけた人々を赦し、主イエスを見捨てた弟子たちをも愛し続けられたのです。主は、人々に父なる神への信頼を教えられましたが、人々にそれを教える以前に、ご自身が父の愛への絶対の信頼をもって生きられました。

 主イエスが「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した」と言われたように、わたしたちも、まず、自分自身が神に愛されていることを知ってこそ、他の人を愛することができるようになります。他の人に優しい人は、多くの場合、こどものころ、親やまわりの人々に十分に愛されてきた人がほとんどです。もう少し正確に言えば、自分が愛されていることを知り、感じ取ってきた人たちです。客観的に見て十分な愛を受けてきたのに「自分は愛されていない」と感じる人もあれば、不幸にしてこどもの頃、親の愛を十分に受けることができなかったとしても、その後、親の愛にまさる神の愛に触れ、愛の人へと変えられていった人もたくさんいます。

 今から百年と少し前、ニューオリンズの貧しい地域で生まれたひとりの少年がいました。父親は家族を捨て、母親は売春婦になりました。彼とその姉妹は祖母に育てられました。彼には音楽の才能があり、他の三人の子どもと一緒に路上で歌い、コインをもらって報酬を得ていました。少年が7歳のとき、リトアニアから移住してきた夫婦に養子としてもらわれました。彼は育ての親からロシアやユダヤの歌を習い、音楽の才能を伸ばしていき、やがて「ジャズの王様」と呼ばれるようになりました。この少年とは、ルイ・アームストロングです。彼は不幸な境遇に生まれましたが、多くの人から愛を受け、与えられた愛を素直に受けとめることによって、多くの人々に愛を分け与える人になったのです。

 わたしたちがキリストにつながっているなら、わたしたちは神の愛を受けます。そして、神の愛を多く受け、深く感じとることによって、他の人を愛することができるようになります。わたしたちには他の人を愛せるほどの豊かな愛はありません。神から愛を受けることなしには、身近な家族でさえも、ほんとうの意味では愛することができないのです。わたしたちが人を愛そうとして愛せないで苦しむのは、自分のうちにはない愛を絞りだそうとするからです。そうではなく、神の愛をたくさん受ければよいのです。神の愛が流れていく管となれば良いのです。キリストが「わたしの愛のうちにいなさい」と言われたのは、わたしたちに、「神の愛をたくさん受けなさい、神から多く愛していただきなさい、その愛を感じとり、その愛で満たされなさい」ということなのです。神の愛で満たされる。これこそが、人にとって最も幸福なことであり、他の人を幸せにする道なのです。

 二、戒めを守る

 神に愛されていることを知るなら、わたしたちはさまざまなものから自由になれます。それによって劣等感や卑屈な思いから解放されます。神が「わたしの目に、あなたは高価で尊い」と言ってくださるのですから、もう、どんな劣等感を持つこともないのです。また、それはわたしたちがまちがった優越感に陥らないように防いでくれます。なぜなら、わたしたちが神に愛されているのは、自分が優れているからではなく、ただ神の恵みやあわれみによるからです。また、神の愛を知る人は恐れや不安、また、あせりから解放されます。神の愛は、わたしたちが要求して与えられるものではなく、わたしたちが信頼して受け取るものだからです。

 神の愛はわたしたちを自由にします。しかし、その自由は、神の愛から離れて勝手気ままなことをする自由ではありません。愛は、わたしたちを神に結びつけます。神に結びつけられたわたしたちは、神の戒めを守り、その戒めに生きるようになります。主イエスが「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」と言われたとおりです。

 「戒めを守る」と言っても、それは、戒めにしばられて、いやいやするということではありません。神の戒めを喜び、それに従うのです。法律の力に強制されてではなく、愛の力によって進んでそうするのです。最近の日本では親がこどもの育児を放棄したり、虐待して死なせてしまったりということが多くなりました。それで、こどもを守る法律がいくつも作られました。しかし、こどもを愛している親は、法律があるからこどもの世話をするのではなく、こどもがかわいいから、愛おしいからそうするのです。赤ちゃんを抱いている母親は、こどもが泣いてうるさいから、重くて手がしびれるからといって、決して赤ちゃんを投げ出しません。もし、危ない目に遭いそうになったら、自分の身を危険にさらしてでも赤ちゃんを守ろうとします。誰かに強制されてそうするのではありません。愛の力によってそうするのです。愛によってこそ、親は、親としての責任を果たし、法律が命じているすべてのことを満たすことができるのです。

 主イエスが「もしわたしのいましめを守るならば」と言われた、「わたしの戒め」とは、具体的には何でしょうか。主イエスは、ある時、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」という質問を受けました。主イエスはそれに答えて、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイ22:37-39)と言われました。神を愛し、人を愛する。この両者に共通しているのは、「愛する」ことです。主イエスはヨハネ15:12で「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と言われました。わたしたちが神の愛、キリストの愛のうちにとどまっているため守るべき戒めもまた、「愛」なのです。「愛されて、愛する。」これが、神の愛にとどまることのすべてです。

 ヨハネ3:16に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあるように、主イエスは、ひとびとを愛するという「父のいましめ」を受けて世においでになりました。主イエスは、父への愛とひとびとへの愛のゆえに、十字架を負うという、神からの使命を果たされたのです。

 主イエスは、最後の晩餐でこの愛を示されました。ヨハネ14:1に「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」とあります。晩餐会が催されるとき、その来客の足を洗うのはしもべの仕事でした。しかし、そこには、足を洗うしもべはいませんでした。いや、ほんとうのしもべがひとりいらっしゃいました。それは主イエスです。主イエスは神のしもべ、また人のしもべとして生き、また死のうとしておられました。主イエスは着物の腕をまくり、裾をからげ、腰に布を巻き、水の入ったたらいをもって現れました。丈も裾も短い服に、前掛けを身につけている姿は、しもべの姿です。主であるイエスはこの時、しもべとなって弟子たちに、そしてわたしたちに仕えてくださったのです。主イエスはしもべの「ふり」をしたのではありません。ほんとうに「しもべ」となられたのです。聖書に

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリピ2:6-8)
とあるとおりです。本物の愛は、このような謙遜な姿の中にあります。聖書に「愛は高ぶらない」(コリント第一13:4)とあるように、隠れたところで神に仕え、人に仕え、「しもべ」となって生きる、そこに「愛の戒め」に生きる道があります。

 クリスチャンとはキリストにつながっている人、キリストの愛にとどまっている人です。キリストの愛を受け、それによって人を愛して生きる人のことです。そして、人を愛するとは、人のしもべとなって仕えることであり、この「愛の戒め」に生きる人が、いつまでも残る、豊かな実を結ぶのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、御子を愛されたのと同じ愛で、わたしたちを愛してくださいました。キリストにつながることによって、キリストが受けたものと同じものを、わたしたちも受けることができるようにしてくださいました。何という幸い、恵みでしょうか。そのことを心から感謝します。父なる神さま、わたしたちにはまた、あなたが御子にお与えになったのと同じ戒めが与えられています。わたしたちが、あなたから受けた愛によって、愛の戒めを守り通すことができますように。愛の戒めの中に生きることによって、なお、あなたの愛を深く知ることができますように。愛のゆえにしもべとなられた主イエスのお名前で祈ります。

7/27/2014