キリストにとどまる

ヨハネ15:4-6

オーディオファイルを再生できません
15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
15:6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。

 一、枝の役割

 キリストは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と、弟子たちに言われました。そして、枝である弟子たちに実を結ぶことを求められました。

 一般に、「実を結ぶ」というと、学校を卒業する、事業に成功する、競争で賞を得る、財産を築くなどといったことを指します。こういうことが出来た人は、人生で「実を結んだ」と言われるでしょう。しかし、キリストが「実を結ぶ」と言われたとき、それは、そうしたこと以上のことを指していました。

 ぶどうの木は、神の民の象徴です。「実を結ぶ」というのは、人が自分の満足の行く結果を残すということではなく、神の民が神の民としてふさわしい生活をして神を喜ばせ、神の愛やいつくしみという祝福をこの世界に届けることを意味しています。わたしたちが何かを成し遂げたとしても、それが自分のためだけであって、神のためでないなら、ほんとうの意味で実を結んだことにはならないと、キリストは言われるのです。キリストは神のために実を結ぶこと、そして、救いと祝福という実を人々に分け与えることを、弟子たちに求められたのです。

 ほとんどの木は、木の幹に直接実がなることはありません。枝になります。キリストの救いの実も、キリストにつながる枝である、クリスチャンを通して結ばれるのです。イエス・キリストという命の木はすでに世にあります。キリストを信じ、キリストに従い、キリストのために生きる者たちが、この命の木の枝となって、キリストの命を、この世界に届けるのです。

 木材として使われる木では枝よりも幹が大切です。材木を育てる人たちは、木の幹が太く、高く、まっすぐ伸びていくようにと、要らない枝を払います。しかし、ぶどうの木では、枝は幹に劣らず大切です。枝がなければ実を結ばないからです。皆さんはぶどうの木を実際に見たことがありますね。ぶどうの枝はとても細く、他の木の枝なら薪になるでしょうが、ぶどうの枝は焚付になるのがせいぜいです。火にくべるとすぐ燃え尽きてしまいます。ぶどうの枝は、実を結ぶ以外では、ほとんど役に立たないのです。

 キリストは、キリストにつながる枝であるわたしたちひとりひとりに実を結ぶことを願っておられます。実を結ぶのは、枝の役割です。わたしはどんな実を結んでいるだろうかと、振り返ってみるのは大切なことです。数多くの奉仕や捧げた金銭や時間といった目に見えるもの、量で計ることができるものは、点検しやすいでしょう。しかし、神のために結ぶ実の中には、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)といった、外側からだけでは見えないものや、かならずしも量で計ることができないものもあります。神は、私たちの実について、量だけでなく、質をも問われます。"Quantity" と "Quality" の両方から見る必要があります。

 また、自分が結んでいる実をチェックするとき、他の人と比べてがっかかりしないことも大切です。他の人から学び、良い模範に励まされることは必要なことです。けれども、自分を人と比べてばかりいると、励まされるどころか、がっかりしてしまうことが多くなります。同じぶどうの木でも、早く実を生らせる枝もあれば、少し遅れて実る枝もあります。時期がきたら、いっせいに実がなるわけではありません。ぶどうの実は順番に次々と実っていくのです。他の人はたくさんの実を実らせ、熟して甘い香りを放っているのに、自分のはまだ小さく、青くて、固いなどと言ってがっかりする必要はありません。時が来れば、必ず実るからです。神は、すべての人に実を結ぶことを期待しておられますが、それぞれの実りの時については、それぞれにユニークな方法で定めておられるのです。聖書に「時が来ると実を結ぶ」(詩篇1:3)とあるように、神の時を待ちましょう。キリストの枝であるなら、自分の人生においても、神のための奉仕においても、かならず実を結ぶ時が来ます。実を結ばせてくださるのはぶどうの木であるキリストだからです。

 二、枝に必要なこと

 では、枝が実を結ぶために必要なことは何でしょうか。それはキリストにつながっていることです。

 自分の家でぶどうを作っている人がいました。とても上手に栽培して、毎年、美味しいぶどうを育てていました。ところが、ある年、ある枝が全く実らなくなったというのです。その人が調べてみたら、ブドウトラカミキリという害虫にやられていたそうです。この虫はぶどうの新しい枝に卵を生みます。その幼虫は冬の間、樹皮の下に潜んでいますが、暖かくなると成虫になって木の芯に入って行き、そこを食べます。すると、そこから先の枝が突然枯れてしまうのです。ブドウトラカミキリにやられた枝を見せてもらいましたが、外側は木につながっているように見えるのですが、内側では木から切り離されていました。木につながっていなければ枝は実を生らせることができません。そればかりか、たちまち枯れてしまうのです。

 しっかりと木につながっていること、それが、枝が実を結ぶために必要なことです。では、わたしたちとキリストとはどのようにつながればよいのでしょうか。

 第一に、信仰によって、人格的につながることです。「信仰」というと、それは何かの「信仰箇条」を受け入れることや、教会で行われる儀式に従うこと、またクリスチャンに求められるライフスタイルを生きることのように思われがちです。そうしたことは、神とキリストとの生きた関係へとわたしたちを導き、それを育てるために有益なものです。しかし、神に対する信頼やキリストにたいする服従よりも、伝統や形式のほうが大事になってしまっては本末転倒です。人格である神との生きた関係よりも、何らかの「事柄」を守ることのほうが優先されてしまうなら、それは、信仰(faith)を信念(belief)に置き換えてしまうことになってしまいます。生きておられる神との人格の関係を持ち、それを求めることがなければ、それはたんなる「宗教的信念」になってしまいます。そこからは決して神の命が流れ出ることはありません。

 人格の関係というのは、「わたし」と「あなた」という関係です。テレビに出てくる政治家や著名人、それにスポーツ選手や俳優についてどんなに良く知っていたとしても、個人的なつながりがなければ、その人たちはわたしたちにとっては「彼ら」であり、「他人」です。決してその人たちに、「あなた」と、親しみを込めて呼ぶことはできません。同じように、信仰を持つまでは、わたしたちにとってキリストは「あの人」であり、「遠い人」でした。しかし、信仰を持ったとき、わたしたちは、キリストを、「あなた」と呼ぶことができる関係に入れられました。

 神は旧約時代、イスラエルを選んで「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト6:7、レビ26:12、エレミヤ11:14、24:7、32:38)と言われました。この約束は、キリストとキリストを信じる者たちによって成就しました。キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」と言って、わたしたちを「わたしとあなた」の関係の中に導いてくださいました。信仰とは、「あなたはわたしの神、わたしはあなたのものです」と言って、神を「あなた」と呼び、キリストと「わたしとあなた」の関係に入ることなのです。キリストと人格と人格で触れ合う、心と心でつながる、そんな関係に生きる。それが信仰によってキリストとつながるということなのです。

 第二に、それは相互のつながりによってです。キリストは「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」(4節)と言われました。また、「人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば」(5節)とも言われました。同じような表現は黙示録3:20にもあります。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」こうした表現は、キリストとわたしたちとのつながりが片方だけの努力によって成り立つものでないことを教えています。キリストがわたしたちとつながろうとし、わたしたちもキリストにつながろうとする。キリストがドアを叩き、わたしがドアを開けるのです。良く言われるように、キリストが叩いておられるドアには、内側にしか取っ手がなく、外にはありません。それを開けることはわたしたちの側ですることなのです。

 ヨハネ第一4:10に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とあるように、神がまず、わたしたちを愛してくださいました。愛はまず神から私たちに届けられます。しかし、神の愛は一方通行で終りません。それはUターンして神に返らなければならないのです。神は、わたしたちが神の愛に答えるのを待っていてくださいます。神の愛は「片思い」の愛ではありません。神は、わたしたちが神からいただいた愛で神を愛し返すことを期待しておられるのです。キリストとわたしたちとのつながりは、互いに愛を通わせる関係です。

 コップを水に浸すと、コップの中に水が入ってきます。しかし、同時にコップは水の中に入っていきます。そのように、わたしたちがキリストを心に迎えるとき、わたしちもまたキリストの中に迎え入れられます。キリストが差し伸ばしてくださる救いの手に向って、わたしたちも手を差し伸ばすとき、キリストはその手を握りしめてくださるのです。わたしがキリストの手を握っているだけでは、いつか力がつきて、キリストの手を離してしまうかもしれません。しかし、キリストがわたしの手を握ってくださっているなら、わたしの手の力が弱くなっても大丈夫です。キリストの力ある手の中で守られ、支えられるのです。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。」「わたしは彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にする。」こうした言い方は不必要な繰り返しではありません。それはキリストとわたしたちとのつながりがどんなに堅いものかを示すための繰り返しです。キリストはくどいと思えるような言い方で、キリストとわたしたちの関係が相互のつながりであることを教えておられるのです。

 第三に、それは生涯にわたるつながりです。決して一時的なものではありませんし、一時的なものにしてはならないのです。「つながる」という言葉は、他のところでは「留まる」と訳されています。文字通りには、ある場所から離れないでずっとそこにいる、ある場所に住みついているという意味があります。"stay" 、"dwell" などと訳されます。また、この言葉は、ある状態を継続するときにも使われ、"continue" 、"remain"、"abide" などと訳されます。テモテ第二3:14に「しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい」と書かれ、ヨハネ15章でも「わたしの愛のうちにとどまっていなさい」(9節)と言われています。

 聖書にあるように、キリストが宣教を始めた最初のころ、大勢の人々がキリストに従いました。しかし、キリストの受難の時が近づくにつれて、その大半は離れて行きました。キリストが復活し、天に帰り、弟子たちに聖霊が注がれて教会が始まりました。教会はまたたく間にローマ帝国内に広まりました。しかし、迫害が始まると多くの人が教会を去りました。今日でも、教会が建物を建てるなどといった大きな事業を始め、その責任や負担を求められたりすると、今まで集まっていた人たちがいつの間にかいなくなってしまうことがあります。困難に向いたくない、負担を負いたくないという気持ちに負けてしまうのでしょう。ところが、建物が出来上がると、そうした人たちが、いつの間にか戻ってきて、新しい建物を自慢しているということもあると、聞いたことがあります。

 労苦を共にしなかった人たちがまるで、自分がしたかのように自慢するのは、おかしな話ですが、信仰をもって労苦を共にした人たちは、ほんとうの喜びに満たされます。苦労した分だけ大きな満足を与えられます。そればかりでなく、神の奇蹟を見ることができます。困難の中でも信仰に踏みとどまるなら、問題を解決に導いてくだる神のわざを手にとるように見ることができます。神が今も生きて働いておられることを体験することができます。そして、そのようにして、神のわざを体験した人々の中に一致が生まれるのです。この信仰の一致は、キリストにとどまった人々にだけ与えられる神からの賜物です。わたしたちも、困難から逃げ出さず、神の力あるわざを見せていただける教会であり続けたいと思います。

 4節は「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」と訳すことができます。わたしたちがキリストにとどまるとき、キリストも私たちの中に、どんな時も共にいてくださるのです。わたしたちひとりびとりの内にキリストがいらっしゃらなければ、わたしたちの人生は、神のためにどんな良い実も結ぶことはできません。また教会にキリストがおられなければ、教会は、その枝を伸ばして、キリストの救いと祝福を人々に分かち与えることができないのです。キリストにとどまりましょう。信仰による、キリストとの生きた人格のまじわりを、生涯をかけて育てていきましょう。それを求めて祈り、励むことは、人間としてとても価値あることです。キリストにどどまる人生には必ず実りがあります。そして、その実りは永遠までもとどまり、残るのです。

 (祈り)

 父なる神さま、キリストは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語ってくださいました。それによって「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民となる」というあなたの約束が成就しました。キリストとの命の結びつきによって生かされたわたしたちが、「あなたはわたしの神、わたしはあなたの民です」と、常にお答えできますよう、導き、助けてください。まことのぶどうの木、イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/13/2014