聖霊とあかし

ヨハネ15:26-27

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15:26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。

 一、あかし

 皆さんには、聖書を読んだり、教会に来てはじめて目にし、耳にした言葉や、一般とは違った意味で使われている言葉がたくさんあったと思います。「愛」、「贖い」、「罪」、「罪びと」、「聖徒」、「兄弟」、「三位一体」などの「キリスト教用語」と言われるものです。「あかし」はその中のひとつだと思います。

 「あかし」は、英語で testimony と言います。「証言」という意味です。法廷での証言などに使われる改まった言葉ですが、「推薦の言葉」という意味でも使われます。製品や会社の宣伝パンフレットなどに Testimonials という項目があって、この洗剤を使ったらバスタブがとてもきれになった、この薬を飲んだら症状が軽くなった、この会社ではトラブルに迅速に対応してくれたなどといったことが書かれているのを、皆さんも目にしたことがあると思います。

 「あかし」の英語には witness という言葉も多く使われます。witness には「証言」ばかりでなく「目撃者」、「証人」という意味もあります。テレビニュースなどで、事件や事故が報道されるとき、アナウンサーに続いて、その事件や事故を直接見た人が witness、または eyewitness として紹介されて、ああだった、こうだったということを話しますが、そのとき画面の下に John Smith, Witness などと紹介されるわけです。

 このように「あかし」というのは、目撃や体験などといった直接の知識に基づいて語ることを意味します。あることがらについて、どんなにくわしく説明されても、それは頭だけの理解で終ります。しかし、実際にそのことを体験した人から話しを聞くと、心から納得することができます。たとえば、70年前の戦争のことは、歴史を学べば、それがどんなものであったかが分かります。詳しく調べれば、日本が始めた戦争がどれだけ回りの国々を苦しめ、自国の国民を苦しめたかが良く分かります。しかし、実際に戦争をくぐり抜けてきた人々の体験を聞くとき、戦争の悲惨さや残酷さが身にしみて分かります。戦争は、もう二度としてはならないという気持ちに導かれます。実際に体験した人たちの「証言」には大きな力があります。

 信仰のことも同じです。わたしたちが信仰を持ち、それを成長させるためには、聖書を正しく教える人が要ります。そうした人からきちんと学ぶ必要があります。しかし、それと共に「わたしはイエス・キリストを信じて、このように変えられました」、「神に信頼して祈っていたら、このような恵みを与えられました」などの「あかし」が必要です。そうした「あかし」に触れることによって、聖書で語られていることが、真実であり、神の言葉には力があることが、よく分かるようになるのです。さまざまな集会で、メイン・スピーカーの話よりも、そのときの「あかし」で話された身近な信仰の体験のほうが心に強く響き、それによって聖書が教えていることがよく分かるということもあるほどです。「あかし」は決して、説教の「前座」ではありません。短く、単純でも大切なものなのです。

 二、聖霊のあかし

 さて、今朝の箇所には「聖霊のあかし」と「クリスチャンのあかし」のふたつのことが書かれています。26節の「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」というのは「聖霊のあかし」についてであり、27節の「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである」というのは「クリスチャンのあかしです。

 さきほど触れましたように、「あかし」とは、直接の知識や体験を分かちあうことです。弟子たちはイエスの宣教のはじめから行動を共にしました。イエスがなさったことをその目で見、語ったことをその耳で聞きました。ですから、弟子たちはイエスの「目撃証人」であり、人々にイエス・キリストを「あかし」するのです。

 弟子たちがイエスの宣教のはじめからずっとイエスと共にいたので、その証人となるのだとしたら、聖霊はもっとそうです。聖霊は、弟子たちがイエスに出会い、行動を共にするはるか以前から、永遠の先から、御子であるイエスと共におられたからです。イエスは聖霊によって母マリヤに宿られたのですから、聖霊は、神の御子が人となられたその瞬間からずっと共に常におられたことになります。イエスのなさった力あるわざはすべて聖霊によるものでした。ですから、聖霊がいちばんイエス・キリストをよく知っておられ、イエス・キリストを最もよくあかしすることがおできになるのです。聖霊にまさって、イエス・キリストをわたしたちにあかししてくださるお方はないと言ってよいでしょう。

 聖霊はわたしたちにイエス・キリストをあかししてくださるだけでなく、わたしたちがイエス・キリストにあって何者であるかをもあかししてくださいます。ローマ8:15-16にこう書かれています。

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
神はイエス・キリストを信じる者を聖霊によって新しく生み、神の子どもとしての身分を与えるばかりが、信じる者の内に神の子どもとしての性質を与え、それを育んでくださいます。神は、そのようにして、父が子を愛し育てるように、信じる者の父となり、ご自分の子どもを愛し育ててくださるのです。

 わたしたちは自分が神の子どもとされたことを、聖書の言葉によって知ります。知識には力がありますが、知識として知っているだけでは、力にならないことがあります。わたしたちは弱く、誘惑に乗って罪を犯したり、失敗したりします。ささいなことでいらいらしたり、不信仰になって祈りをやめてしまうことがあります。人の話を最後まで聞けば、誤解も争いも生じないのに、先入観でものを判断して人を傷つけてしまうことがあります。もう少し忍耐すれば解決するのに、ちょっとしたことに我慢できないで怒りを表わしてしまうことがあります。最初から喜んでものごとをすれば自分も他の人も気持ちよく過ごせるのに、つい不満を口にして、自分の心を暗くし、回りを冷たくしてしまうことがあります。そうやって罪を犯したり、失敗したあとは、そのことでいっそう落ち込んでしまいます。しかし、そんな自分でも、自分が神の子であり、神に愛されているということが分かり、それを確信することができたら、どんなに助けになることでしょうか。

 昔、ある国に、普段から落ち着きのない王子さまがいました。馬車で町に出るときも、そこから身を乗り出してあちらをキョロキョロ、こちらをキョロキョロ眺めまわすのです。そんなときは、おつきの人が王子さまの上着を引っ張って、「殿下、ご身分を」と言います。すると、その王子さまは、ハッとして、背筋を伸ばし座席に座り直したというのです。同じように、わたしたちも、自分が神の子どもであるという確信に立ち返るとき、自分を取り戻すことができます。人は、自分が何者かが分からないため、迷った人生を歩むのです。聖霊は、弱く、迷いやすいわたしたちに、いつも「おまえは神の子だ」と語りかけ、導いてくださるのです。これにまさる、励ましや慰めはありません。聖霊は信じる者を新しく生んでくださったお方です。このお方が「あなたは神の子どもだ」と証言してくださるのですから、これ以上に確かな「あかし」はありません。

 では、この「聖霊のあかし」はどのようにして与えられるのでしょうか。第一に、それは神の言葉を通してです。聖書をたんに客観的に勉強するだけでなく、「わたしに与えられた」言葉として読み、吸収していくとき、わたしたちはその中に聖霊の「あかし」を聞くことができるようになります。

 第二に、聖霊の「あかし」は祈りの中で与えられます。いや、祈りそのものが、聖霊の「あかし」であると言ってもよいでしょう。ローマ8:15にあるように、わたしたちが神を「アバ、父よ」と呼んで祈ることができるのは、聖霊がわたしたちのうちであかししていてくださることの証拠なのです。わたしたちはあるときは、「神さま、どうしてこんな小さな者を、そんなに大きな愛で愛してくださるのですか」という気持ちで「父よ」と呼びます。また、あるときは、「神さま、あなたの子どもにしていただいたのに、わたしはなんとぶざまなのでしょう」という気持ちで「父よ」と呼ぶこともあります。あるいは、「あなたはわたしの父となってくださったのに、どうしてわたしをこの苦しみから救ってくださらないのですか。どうぞ、あなたの子どもを見捨てないでください」という気持ちで「父よ、わたしの父であるお方よ」と祈ることもあります。どの場合でも、「父よ」という呼びかけは、聖霊の「あかし」です。わたしたちが他の人といっしょに祈って励まされるのは、「父よ」という聖霊の「あかし」をたくさん聞くことができるからです。御言葉と祈りにより、また教会でのクリスチャンのまじわりの中で、聖霊の「あかし」に聴き続け、神の子とされた確信を保ち続けたいと思います。

 三、クリスチャンのあかし

 最後に、クリスチャンのあかしについて見ておきましょう。

 26節は「聖霊のあかし」について、27節は「クリスチャンのあかし」についての言葉でした。このふたつがこの順序で語られているのには理由があります。それは、「わたしたちのあかし」は「聖霊のあかし」によってはじめて可能になるからです。わたしたちは、聖霊のあかしを受けてはじめて、他の人にキリストをあかしすることができるということです。

 イエス・キリストの十字架と復活によって罪が赦された体験を持たないで、福音を語ったとしても、それは「あかし」にはなりません。神の子どもとされ、新しい命に生かされている喜びがその人のうちになければ、それは単なるステートメントで終り、人の心には届かないのです。「あかし」とは体験したことの証言です。だから、イエス・キリストの救いを体験し、日々、その救いの中に生かされていなければ、誰もキリストをあかしすることができません。イエス・キリストの救いをわたしたちに体験させ、それを確信させてくださるのは聖霊です。わたしたちは聖霊の「あかし」を受けてこそ、他の人にキリストの救いをあかしできるようになるのです。

 ですから、他の人にキリストをあかしする以前に、キリストについて、さらには自分自身について、聖霊のあかしにしっかりと耳を傾けなければなりません。御言葉と祈りによってキリストの救いを確信し、自分が神の子どもであることを喜ぶ。そこから他の人へのあかしが始まるのです。

 わたしが日本で働いていたとき、教会を株分けして伝道所を始めました。それぞれが自分の家の近くにトラクトを配って、伝道所の案内をしようということになりました。そのとき、ひとりの姉妹が、こんなふうに言ってきました。「先生、ほかの奉仕はなんでもしますから、トラクト配布だけは勘弁してください。そんなことをしたら近所の人に自分がクリスチャンだと分かってしまいます。」わたしは、「近所の人にクリスチャンであることを知ってもらうのが、あかしの第一歩じゃないですか。トラクト配布はいい機会ですよ」と答えました。彼女はかなり躊躇しましたが、わたしの言葉に従ってくれました。そして、キリストの「あかしびと」のひとりとして成長していきました。きっと、その時、わたしの言葉だけでなく、聖霊の「あかし」に耳を傾けることができたのだろうと思います。

 キリストをあかしするには勇気が要ります。自分のうちに聖霊の「あかし」を持っていないと、それが苦痛になり、圧迫になることもあります。しかし、聖霊の「あかし」を内側に持つとき、「あかし」は喜びになります。イエスは迫害を間近に控えていた弟子たちに言われました。

そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。(マルコ13:11)
アメリカに住む現代のわたしたちには権力者の前で信仰の弁明するということはなくても、家族や友人、他の人にキリストをあかししようとするとき、「何をどう語ったらいいのか」心配になるのは、わたしたちも同じです。そんなとき、「語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である」との言葉が励ましとなります。自分の知識や言葉の巧みさによるのではない、聖霊がわたしに与えてくださる、救いの確信、恵みの体験を伝えればよいのだということを知っていたいと思います。

 家族の中に、友人、知人の中に、職場の同僚や学校のクラスメートの中に、あなたの「あかし」を待っている人がいます。「あかし」は何も立派である必要はありません。ほんとうなら自分ひとりでは生きていけない、そんな者がイエス・キリストに支えられて平安の中に、希望を抱いて今生きている、いや生かされていることを分かちあえばよいのです。わたしたちも誰かの「あかし」によってキリストを知り、信仰を持ち、目的をもって生きる人生を見出したのです。聖霊がわたしのあかしを助けてくださる。あかしをするのは聖霊である。そう信じて、キリストをあかしすることに励んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちには聖霊のあかしが必要です。そして、聖霊のあかしは、わたしたちがキリストをあかししたいと願うところに与えられます。どうぞ、わたしたちを聖霊のあかしで満たしてください。そして、家庭で、職場で、グループやサークルの中で、なによりも教会の中で、聖霊のあかしを分かち合うことができますように。主イエスのお名前で祈ります。

8/31/2014