あかしする御霊

ヨハネ15:26-27

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15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
15:27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

 イエスは、十字架にかかられる前の夜、弟子たちと過越の食事を守りました。いわゆる「最後の晩餐」ですね。弟子たちとともに過ごす最後の夜、イエスには弟子たちに教えたかったこと、話したかったことが数多くあったことでしょう。しかし、残された時間はわずかしかありません。そのような中で、イエスは、弟子たちに、聖霊について、くりかえし教えています。それは、聖霊がいかに大切なお方であるか、イエスがどんなにか弟子たちに、聖霊を知って欲しいと願っておられたかを示しています。私たちも、イエスの思いを知って、聖霊について知りたい、もっと聖霊ご自身を知りたいという願いを持ちましょう。

 14章では、聖霊が人格を持ったお方であり、イエスと等しいお方であり、私たちと共にいてくださるお方であることを学びましたが、15章では、聖霊が「あかしする」お方であることを学びましょう。

 一、あかしする聖霊

 聖霊は「あかしする」お方ですが、何をあかしするのでしょうか。26節に「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」とあるように、聖霊は、キリストをあかしするのです。

 今、私は「聖霊がキリストをあかしする」と言っていますが、そもそも「あかしする」とはいったいどうすることなのでしょうか。聖書には、普段使わない独特な言葉がいくつかあって、はじめて聖書を読む人には、謎のように聞こえ、長く聖書を学んでいるクリスチャンにとっても、わかったつもりで分かっていない場合が多いのです。「あかし」という言葉はその中のひとつだと思います。

 広辞苑で「あかし」という項目を引くと、「確かなしるしとすること、証拠、証明」となっており、「あかしびと」は「証人」、「あかしぶみ」は「神仏に願を立てる文」「証明書」となっています。日本語には「あかす」という言葉もあります。「証明」の「明」の文字を使います。「あかす」「秘密をうちあける」「疑わしいことを明らかにする」という意味になります。

 ユダヤの人々は神から与えられた律法によって生活していましたので、聖書で使う「あかし」や「あかしする」という言葉は、日本語で言うよりももっと法律的な意味合いが強く入っています。「あかし」は「法廷での証言」の意味で、「あかしする」というのは「法廷で証言する」という意味になります。「あかしする」とは、真実を、あやふやなところが少しもないまでにあきらかにし、権威をもって確定するということになります。

 イエスは、仮庵の祭の時、神殿で人々に向かって「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と、大声で叫びました。これは、イエスが、真理であり、命であり、私たちの希望であるということを宣言している大変重要なことばなのですが、イエスに反対していたパリサイ人は「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」といって、イエスのことばの意味を考えてみようとせず、イエスの宣言から目をそらしました。彼らは「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記19:15)という律法のことばを引きあいに出して、「イエスがひとりで何を言おうが、叫ぼうが、そんなことばに耳を傾ける必要はない。」という態度を取ったのです。しかし、実際は、イエスには、イエスのことばを「あかしする」もの、それが正しいことを「証言するもの」が数多くあったのです。

 まずイエスの先駆者となったパプテスマのヨハネがそうでしたし、イエスによって病気を直してもらった人々、悪霊を追い出してもらった人々、らい病をきよめてもらった人々、イエスによってわずかなパンと魚から満腹するまで食べた人々など、数多くの証人がいたのです。しかし、なにより、父なる神ご自身がイエスをご自分の御子であるとあかしするお方でした。ですから、イエスは、パリサイ人に「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」(ヨハネ8:18)と言って、「証人は父なる神と、その子であるわたしのふたり以上いるではないか。」と、パリサイ人に答えているのです。「あかし」は「法廷での証言」という意味だと言いましたが、最高の法廷は、すべてのことを正しく裁かれる神の法廷です。神の法廷の審判者である方が、証人となるのですから、これ以上に確かなものはありません。

 「聖霊がキリストをあかしする」というのは、父なる神がキリストをあかしするのと同じ意味をもっています。父なる神が、イエスが神の御子であることを、公に、権威をもって証明するように、聖霊もまた、イエスがキリストであることを、権威をもって公に証明するのです。イエスは、自分で自分を救い主であると主張した狂信的な人物でも、人々によって救い主にまつりあげられた伝説上の人物でもありません。父なる神と聖霊とによってあかしされている、正真正銘の救い主なのです。あなたは、このように確かにあかしされているお方を、あなたの心に、受け入れているでしょうか。

 イエスは神の御子でしたが、地上にある間は、しもべとして父なる神に服従しました。しかし、父なる神が御子を「あかしする」時には、イエスは、神の御子として持っていた栄光を現わしました。イエスがあかしされるとは、イエスが神の栄光というスポットライトをあびて、人々の間であがめられることも意味するのです。聖霊は、イエスの生涯に主導権をとっておられましたが、イエスが天に帰られた後には、むしろ、イエスに仕え、イエスの栄光を表わすものとして働いています。「御霊はわたしの栄光を現わす。」(ヨハネ16:14)というのは、聖霊がイエスを「あかしする」というのと同じ意味になるのです。父なる神も聖霊も栄光のスポットライトをあててさししめしているイエス・キリストに、私たちは目を向け、このお方をあがめているでしょうか。神に近づく者はキリストのもとに来るはずであり、聖霊を求める者は、キリストに従うはずだからです。神のあかし、聖霊のあかしを受け入れ、キリストを人生の主とし、キリストの栄光をたたえましょう。

 二、聖霊のあかし

 では、聖霊はどのように、キリストをあかしするのでしょうか。聖霊は神であり、主権者ですから、「思いのままに」、自由にものごとをなされるのですが、いくつかの段階を踏んで、私たちに働きかけてくださることが聖書に示されています。

 第一は、私たちに罪を認めさせ、悔い改めと回心 (Conversion) に導くという働きです。このことについて、イエスはヨハネ16:8-9で「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」と言っています。私たちは皆、聖霊の働きを受けるまでは、頑固で自分の罪を認めることをしませんでした。自分が不完全であることを知っていても、プライドが邪魔をして、神の前にへりくだって、罪を認めることができないでいたのです。私たちが罪を認め、救いを求めることができたのは、聖霊の働きによったのです。

 第二に、聖霊は、私たちを信仰の告白 (Confession) に導きます。聖書は「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と言っていますが、人前で「私はイエスをキリスト、救い主と信じます。」ということは、決して簡単なことではありません。よく考え、理解し、自分の人生をキリストにまかせる決断をするのです。それは、ひとりの人を選び、生涯を共にするという結婚の決断と似ています。とても大切な決断で、私たちは、それを自分の意志で、責任でしなければならないのですから、たいへんなことです。しかし、それを聖霊は助けてくださいます。コリント第一12:3にこうあります。「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語るものはだれも、『イエスはのろわれよ。』とは言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』ということはできません。」聖霊は、私たちに罪の悔い改めに導くとともに「イエスは主です。」との信仰の告白に導いてくださるのです。

 第三に、聖霊は、信仰を言い表した者たちに、神の子とされているとの確信 (Confidence) を与えます。ローマ人への手紙8:14-16にこうあります。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」聖霊のあかしで一番素晴しいあかしは、このあかしです。聖霊は、キリストを信じた者のこころに住んで、その内側から「あなたは神に愛され、神のものとされ、神の子とされている。」と語りかけてくださるのです。私たちが神の子となるのは、イエス・キリストを信じたその瞬間ですが、その時はまだ生まれたばかりの赤ん坊のようなもので、神の子とされたということが何を意味するのかを十分に理解するには至っていませんし、神の子であるという確信もまだ育っていません。神に従うことができた時には、「やはり私は神の子にされたのだ。」と感じるかもしれませんが、神に従うことができなかった時には「私は本当に神の子になったのだろうか。」と心配してしまったりするのです。しかし、そのような時も、聖霊が、イエスを信じる者の心の奥深くに、「私は神の子とされている。」という確信を与え、神を「父よ」と呼んで祈ることができるようにしてくださるのです。「アバ、父よ」という祈り、これこそ聖霊が与えてくださる「神の子のあかし」です。

 信仰の生活はいつも順調とはかぎりません。疑いの霧がかかり、山のような困難を乗り越えなければならない時や、試練の谷間をくぐらなければならない時があります。そのような時も聖霊はイエスを信じ、神に頼る者とともにいて、神を「父よ」と呼ぶことができるようにしてくださるのです。神の子とされた者たちは、聖霊によって日ごとに神を父よと呼びながら、徐々に神の子らしくされていくのです。ですから、私たちは、聖霊のあかしをよりどころにして、神の子として成長していこうではありませんか。

 三、聖霊によるあかし

 聖霊は、このように、人々のこころに働きかけてあかしをしてくださいますが、それでは私たちは何のあかしもしなくてよいのでしょうか。そうではありませんね。私たちもあかしするのです。クリスチャンは「あかしびと」として立てられているのです。ですから、イエスは「御霊がわたしについてあかしします。」と言われただけでなく、「あなたがたもあかしするのです。」と言われたのです。

 聖霊は私たちと共にあかしし、私たちも聖霊と共にあかしします。聖霊は、おひとりであかしをするのではありませんし、私たちも聖霊なしであかしをするのではありません。聖霊は私たちを使って、人々を悔い改めに、信仰告白に導き、そして、クリスチャンには信仰の確信を与えてくださっています。旧約時代には、聖霊は預言者たちを使って人々に悔い改めのメッセージを語り、現代も、説教者たちを使って、人々を導いておられるのです。聖霊は人々を信仰告白に導き、救われた者の信仰を育てるために牧師、伝道者や信徒を用いてきました。私たちも、多くの人の信仰のあかしを聞いて励まされ、また、私たちのあかしが他の人の救いのために用いられてきたのを体験してきました。

 「あかし」は「証言」ですから、やはり言葉が必要です。「すべてのクリスチャンはよい『あかしびと』になるよう召されているのです。」とお話ししますと、かならず、「私は、他のことならいくらでも話ができますが、信仰のことはできません。信仰について語らなくても、行いでもあかしができるのではありませんか。私は行いであかしをします。」という応答を聞きます。「行い」であかしをすることはとても大切なことです。クリスチャンのあかしには必ず、言葉だけでなく、行いがともなわなければなりません。使徒ぺテロは、まだクリスチャンになっていない夫を持つ婦人たちに「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」(ペテロ第一3:1-2)と教えています。聖書は行いによるあかしを教えていますが、言葉によるあかしがいらないとは言っていません。私たちの行いは完全ではありませんし、言葉がなくても信仰を言い表わすことができるほどの立派な行いは誰もができるものではありません。あかしには、ことばによるものと行いによるもの両方が必要です。そして、何よりも、ことばであかしする時も、行いであかしする時も、その両方を助けてくださる聖霊があかしには必要です。

 聖霊は、私たちが言葉でキリストをあかししなければならない時、助けてくださるお方です。イエスは「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19-20)と約束しています。聖霊は、私たちに「イエスは主です。」という信仰の告白のことば、「アバ、父よ。」という祈りのことばを与えてくださるだけでなく、「あかし」の言葉も授けてくださるのです。聖霊に頼る時、私たちはどんな時にも行き詰まることはなく、助け主、弁護者である聖霊によって導かれ、守られるのです。

 また、私たちは、私たちの人格や生活によっても「あかし」をしますが、それもまた聖霊が生み出してくださるものです。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」などといった人生にとって大切なものはすべて聖霊が生み出してくださる、「御霊の実」です。

 ですから、私たちは、けっして私たちひとりだけであかしをしているのではなく、聖霊とともにあかしをしている、聖霊によってあかしをしているのです。私たちのあかしは、私たちの心に与えられている「聖霊のあかし」があふれ出たものなのです。ファニー・クロスビーは、新聖歌266番で次のように歌っています。

彼女は目が見えませんでした。そのためにどんなにか不自由な思いをし、つらい目にあったことでしょう。しかし、彼女は「私はキリストを信じてから、いちども目が見えなくて不幸だと思ったことはありません。それより、霊の目が開かれていないで、神の恵が見えない人を不幸に思っています。」と言い切っています。それは、彼女の心の中に、聖霊のあかしが満ちあふれていたからです。私たちも、聖霊のあかしに満たされ、キリストをあかしすることができるよう、祈り求めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、聖霊のあかしによって、キリストを知り、あなたを「父よ」と呼ぶことができることを感謝いたします。私たちが人々にキリストの救いを喜びと感謝にあふれ、力強くあかしすることができるため、なお、私たちのうちに聖霊のあかしをしっかりと保たせてください。聖霊のあかしに満たされてこそ、私たちはキリストをあかしすることができます。常に、聖霊の力と臨在を求め、聖霊とともに、聖霊によってキリストをあかしする私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/1/2003