愛と憎しみ

ヨハネ15:22-25

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15:22 もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
15:24 もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
15:25 それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。

 もう一箇所、お読みします。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

 一、憎しみ

 聖書に愛のことを書いた箇所と憎しみについて書かれている箇所とがあるように、世の中には「愛」と「憎しみ」があります。「愛」という言葉には温かい響きがあり、「憎しみ」という言葉には冷たい響きがあります。英語で "love" と言うときには、柔らかく発音できますが、"hate" や "hatred" と言うときには、力を込めないと発音できません。「愛」はドイツ語で "liebe"(リーベ)、フランス語で "amour"(アムール)、スペイン語で "amor"(アモール)、中国語で「アイ」、韓国語で「サラン」と言うのだそうです。韓国のスターたちが、ファンに「サランヘヨ」(愛しています)と言うのを聞いたことがあるかもしれません。とてもきれいな響きです。日本語でも「愛」は優しく聞こえますが、「憎しみ」はきつく聞こえます。言葉の響きはその内容をあらわしている場合が多いのかもしれません。

 聖書は「人は神のかたちに造られた」と教えていますが、それは愛の神によって、愛を持つものとして造られたと言い換えても良いほどです。家族が、隣人が、そして、世界中の人々が互いに愛しあうこと、それは、愛の神によって造られた人間にとって自然なこと、キリストの愛によって贖われたクリスチャンにとって当然なことと言ってよいのですが、この人間にとって自然なこと、クリスチャンにとって当然のことができないでいるという現実があります。聖書はそれを「罪」と呼んでいます。

 アダムはエバを与えられたとき、「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2:23)と言ってエバを愛しました。ところが、神の言葉に背いて罪を犯したあと、アダムは、エバのことを「わたしと一緒にしてくださったあの女」(創世記3:12)と言いました。自分の責任をエバになすりつけたばかりか、神のせいにまでしました。人が神に背を向けるとき、人は愛を失うのです。そして、愛が失われるところに、愛と正反対の憎しみが生まれるのです。

 アダムの子どものカインはねたみのため弟のアベルを殺しました。聖書に「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ1:15)という言葉がありますが、そのとおりのことが起こったのです。罪の結果が死であるというはその通りです。罪は、憎しみを生み、そして憎しみは死を生むのです。憎しみは人を狂わせ、他の人のものを、その命さえも奪いとるのです。そんな現実が世界中いたるところにあります。人は互いに愛しあうことによって共に生かされ、幸いなものとなるのですが、残念ながら人間の歴史は、カインとアベル以来、憎しみの歴史となってしまったようです。

 主イエスが十字架で死なれたのは、わたしたちの罪の身代わりのためであり、深い神のみこころによるものですが、人間の側から見れば、主イエスもまた、憎しみによって死に追いやられました。イエスを最も憎んだのは、こともあろうに、ユダヤの宗教家たちでした。彼らはイエスが語ったことにことごとく反対しました。イエスの教えが間違っていたからではありません。正しかったからです。間違った者は正しい者を憎みます。偽物は本物を嫌います。自分が間違っていること、自分が偽物であることが明らかになるからです。ヨハネ3:20に「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」とある通りです。

 ユダヤの宗教家たちは、イエスが「父」と呼んだ、まことの神を知っていました。彼らも神を「父」と呼びました。しかし、イエスがその父の御子であることを認めませんでした。自分たちは神を敬っていると言いながら、御子イエスを憎みました。イエスが「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む」(23節)と言われた通り、彼らにはほんとうの意味で父なる神を敬う思いがなかったのです。

 今も、信仰に反対する人たちが「神がいるなら見せてみろ」と言うように、当時イエスに反対する人々も「おまえが神の子だというなら、父を見せてみろ」と言いました。イエスは、数々の奇蹟によって、父なる神を示し、ご自分が神の御子であり、聖書が預言している救い主であることを証明なさいました。なのに、人々はなおも、イエスを拒み続けました。「もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである」(24節)とイエスが言われたのはそのことを指しています。「神を知っている」と言う人たちが、じつは「神を憎んで」おり、そのことに気付いていない、気付いてもそれを悔い改めないというのは恐ろしいことです。

 イエスは、「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」(25節)という言葉を引用されましたが、イエスに反対した人たちは正当な根拠なしにイエスを憎んだのです。「憎しみ」というものはたいていそうです。おとなは、文化、風習、宗教、人種、肌の色の違いなどで憎しみあっていますが、ちいさなこどもたちは、肌の色や服装、言葉が違っていても、からだが不自由であっても、わけへだてなく、仲良く遊びます。偏見から作り出した憎しみをこどもの心に植え付けるのはおとなです。そこからいじめが生まれ、ヘイト・クライムが起こるのです。今日、おとなたちは、人を愛すること、他の人を大切にすることをこどもたちに本気で教えているだろうかと心配です。学校でのいじめがいっこうになくならない、高校生がクラスメートを殺すなどといった異常な事件が起こるのは、愛を失った社会にも原因があるように思います。わたしたちが、このような社会の中でも正しく生きるために、また、このような社会が愛を取り戻すことができるために、イエス・キリストは何をしてくださり、わたしたちには何ができるのでしょうか。

 二、愛

 ユネスコ憲章に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と書かれています。この「平和のとりで」は「愛のとりで」だろうと思います。戦争は「憎しみ」から生まれ、それは戦争をエスカレートさせますが、平和は「愛」から生まれ、愛は平和を促進します。

 イエス・キリストは、ご自分が人々の憎しみの対象になり、十字架で死んでいかれることによって、人類の罪をその身にすべて引き受けられました。十字架は憎しみを終わらせました。イエスは十字架で死なれ、信じる者を罪から救うだけでなく、三日目に死人のうちから復活され、信じる者の心のうちに「平和のとりで」、また「愛のとりで」を築いてくださいます。わたしたちはイエス・キリストの救いによって、神がわたしたちのうちに造ってくださった「愛のかたち」を取り戻し、それを成長させていくのです。

 信仰によってイエス・キリストにつながったとき、わたしたちはキリストの愛につながりました。キリストに愛され、キリストを愛する者となりました。ぶどうの枝がぶどうの木につながっているなら、かならず実を結ぶように、キリストの愛にとどまっているなら、わたしたちはかならず、愛の実を結ぶことができます。他の人をほんとうに愛せるようになります。

 初代教会の時代から、クリスチャンはお互いを「兄弟・姉妹」と呼び合ってきました。クリスチャンはみな、おひとりの父から「神の子ども」として生まれたのですから、お互いは「兄弟・姉妹」です。初代のクリスチャンは「兄弟愛」を実践し、互いに愛しあうことによって、神の愛をあかししました。迫害の時代にどんなに苦しめられても、クリスチャンは互いに愛しあいました。迫害する人たちでさえ、その兄弟愛に感嘆したほどでした。イエスが「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたはわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:35)と言われたとおりでした。

 ここで、8歳と6歳の兄弟のことをお話ししましょう。このふたりはアイダホ州のアルドリッチ夫妻のこどもです。兄はノア、弟はルーカスといいます。ルーカス君には生まれつきの脳の病気があって、自分の力では歩くことも、話すことも、食べることもできません。けれどもノア君は弟のルーカス君が大好きでした。ノア君はこどものトライアスロン大会に出ることになりましたが、弟と一緒に出たいと思いました。ノア君は三ヶ月前からルーカス君を乗せたカートを押したりして練習をはじめました。トライアスロンというのは水泳と自転車と競走を組みあせたものです。7月12日の大会で、ノア君は最初にルーカス君をゴムボートに乗せ、それを引っ張って200メートル泳ぎました。次にルーカス君を自転車の後ろのカートに乗せて3マイル走りました。最後はルーカス君を乗せたカートを1マイル押してフィニッシュしました。

 ノア君は、弟にもレースに参加させたい。そうしたらルーカス君もうれしいだろう、そう思い、ルーカス君のためにレースをやり遂げたのです。弟のルーカス君はお兄ちゃんの愛を感じており、お兄ちゃんを見ると興奮して手足を動かすのだそうです。兄弟が愛の絆で結ばれているうるわしいストーリーです。これはニュースになったストーリーのひとつに過ぎません。ニュースにならない愛のストーリーは数多くあります。多くの人が、たとえ小さくても愛のストーリーを綴りながら生きています。そのことによって人々の光となっています。わたしたちも、キリストにある兄弟愛をもって、愛のストーリーを綴り続けたいと思います。

 クリスチャンはまず、教会で神の愛を知り、愛しあうことを学びます。教会は神の国の出先機関のようなところです。教会はこの世にありますが、この世の原理によって動いてはいません。世の中では力ある人がかしらになっていますが、教会ではイエス・キリストが主です。愛の主が第一のところです。わたしたちはここで、主の愛を学び、それに従うのです。教会は、キリストの学校です。ここで神を愛し、人々を愛することを学んで、はじめて家庭で、学校で、職場で、神に従い、人々に仕えることができるようになるのです。

 ヨハネ第一3:16に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」とあります。「兄弟のためにいのちを捨てる」とは、とても強いことばです。自分のいのちを差し出すような状況に出会うのは、ごく稀で特別なことでしょう。しかし、イエス・キリストがどれほどわたしたちを愛してくださったかがほんとうの意味で分かるなら、それほどの愛を持ちたいと願うようになるでしょう。神は私たちに愛を教えるためにイエス・キリストをくださいました。すべてはキリストの愛から始まります。このお方の大きくて広く、高くて深い愛を学び続けましょう。

 神は、また、わたしたちが愛することを訓練されるために教会の兄弟・姉妹をくださいました。まず、教会で、キリストにある「兄弟愛」を学びましょう。共に学び、祈り、共に奉仕する中で、身近な兄弟・姉妹のために心を配ることを教えられたいと思います。わたしたちはそうしてはじめて、家庭に帰り、職場に戻り、学校に行っても、そこで真に他の人を尊ぶことができるようになるのです。たとえこの世からどんなに憎まれたとしても、憎しみをもって返さない。この世の憎しみの原理に影響されない。むしろ、キリストの愛の光を届けていく。そんな自分の力以上のことが、キリストによってできるようになるのです。主イエスが「わたしの愛にとどまりなさい」と言われたことに耳を傾けましょう。「互いに愛しあいなさい」と言われたことを実行しましょう。この週も、互いに愛しあうことによって、キリストの愛をあかししていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、憎しみには何の理由も根拠もありません。それは罪が生み出した偏見にすぎません。しかし、わたしたちが愛するのには理由があります。それはあなたがわたしたちを愛してくださったからです。わたしたちがお互いに愛しあうのは根拠があります。キリストがひとりひとりをこよく愛してくださっているからです。主がわたしのために命をささげてくださったように、わたしたちも自己中心から離れ、キリストにある兄弟愛で結びつくものとしてください。それによってキリストをあかしする者としてください。愛の主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/24/2014