キリストとわたし

ヨハネ15:1-3

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15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。

 一、キリストの呼び名

 イエス・キリストはさまざまな呼び名で呼ばれています。ここに、聖書でキリストがどう呼ばれているかを書き出したポスターがあります。Jesus(イエス)、Prince of Peace(平和の君)、Mighty God(力ある神)、Wonderful Counselor(不思議な助言者)、Holy One(聖なるお方)、Lamb of God(神の子羊)、Prince of Life(命の君)、Lord God Almighty(主なる全能の神)、Lion of Tribe of Judah(ユダ族のライオン)、Root of David(ダビデの根)、Word of Life(いのちのことば)など、35のキリストの呼び名が書かれています。同じような他のポスターには60の名前が書かれてありました。それで「他にもあるかもしれない」と思って、キリストの呼び名を調べてみたら、なんと184もの名前を見つけました。

 キリストは、「明けの明星」、「谷のゆり」、「ライオン」など、天体や植物、また動物の名前で呼ばれ、「王」、「祭司」、「裁判官」、「参議官」など、さまざまな役職でも呼ばれています。「名は体を表わす」と言うように、これらの名前は、キリストがどんなお方かを教えてくれます。キリストが数多くのお名前を持っておられるのは、キリストがどんなに豊かなお方か、わたしたちの救いのためにどんなに数多くの働きをしておられるかを教えています。

 キリストの呼び名の中には、一見して矛盾するようなものも多くあります。キリストは「主」と呼ばれ、また「しもべ」と呼ばれています。「裁判官」と呼ばれ、また「弁護人」と呼ばれています。「神の子」と呼ばれ、「大工の子」と呼ばれています。「神」と呼ばれ「人」と呼ばれています。「父」と呼ばれ、また「子」と呼ばれています。「ライオン」と呼ばれ、「子羊」と呼ばれています。しかし、聖書をよく学んでいくと、一見矛盾するものが、キリストのご人格とお働きの中にみごとに溶けあっていることが分かります。こうした名前は、キリストが、他の誰とも違った独自なお方、ただひとりの救い主であることを教えているのです。

 皆さんはキリストの名前をいくつ挙げることができますか。キリストの名前をもっと多く、また、良く知りたいものです。キリストの名前について学ぶことによってイエス・キリストをさらに深く知り、その素晴らしい名をあがめ、その名を呼ぶ者になりたいと思います。

 二、キリストの自己紹介

 聖書がキリストをさまざまな名前で呼んでいるだけではなく、じつは、イエス・キリストご自身も、「わたしは〜である」と、ご自分をさまざまな名前で呼んでおられます。ヨハネによる福音書には七つの「わたしは〜である」という言葉があります。

「わたしがいのちのパンである」(6:35)
「わたしは世の光である」(8:12)
「わたしは門である」(10:9)
「わたしはよい羊飼いである」(10:14)
「わたしはよみがえりであり、命である」(11:25)
「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)
「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)

 新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、ギリシャ語では、めったに「わたし」という代名詞を使いません。「わたしは〜である」という言い方は、特別な言い方で、そこには「わたしこそ〜である」「わたしだけが〜である」という意味がこめられています。「わたしは道であり、真理であり、命である」は英語で "I am the way, and the truth, and the life." と言います。イエスは "I am a way." や "I am one of ways." ではなく、"I am the way." とおっしゃいました。キリストは、わたしたちを神に導く「いくつかある道のうちのひとつ)ではなく、「唯ひとつの道」であると主張しておられるのです。

 「わたしは<まことの>ぶどうの木」と言われたのも同じです。これは「わたしは〜である」という言い方の上に、さらに「まことの」という言葉が加えられ、キリストこそ本来のぶどうの木であることが強く主張されています。

 イエスがそう言われたのには理由がありました。本来、「ぶどうの木」は、旧約時代に「神の民」として選ばれたイスラエルのことを指していました。神は、ぶどうの木であるイスラエルに実を結ぶことを求められましたが、イスラエルは神のために実を結ぶことがないばかりか、逆に悪や偽り、不正や暴虐の実を結ぶものとなってしまいました。そこで神はご自分の御子を世に送り、失敗したイスラエルに代わる「まことのイスラエル」とされました。そして、全世界の誰であっても、信じる者を、「まことのぶどうの木」であるキリストにつながり、神のために実を結ぶ、新しい「イスラエル」、新約時代の「神の民」としてくださったのです。

 人はみな「つながり」を求めています。3年前の東日本大震災のとき、「絆」という言葉がよく使われました。同じ被災者同士の結びつきや被災者と支援者とのつながりのことです。人は、どんなに大きな困難に直面しても、その苦しみが自分ひとりだけの苦しみではないことが分かれば、なんとかそれに耐えられるものです。逆に、他の人から見れば、十分に解決できると思える問題でも、それを分かちあい、理解してもらえる人がいないとき、人は孤独を感じ、問題に押しつぶされてしまいます。日本では敬老の日に高齢者の自殺が増えるそうです。敬老の日というのに、こどもも孫も誰も見舞いに来てくれない、電話もしてくれない。それで、もっと深く孤独を感じ、死を選んでしまうと聞きました。

 人と人とのつながりは大切ですが、それだけでは、何かのはずみで途切れてしまうことがあります。しかし、神とのつながりや、キリストを通しての人のつながりは、簡単には切れることはありません。「つながり」は大事なものですが、何にどのようにつながっているかに注意しなければなりません。正しいものに、正しくつながるなら、豊かな実を結びます。しかし、間違ったものに、間違った方法でつながってしまったなら、悪い実を結んでしまうのです。そんな事にならないように「わたしはまことのぶどうの木」と言われたキリストを心に覚えていたいものです。このキリストに結ばれ、信仰の絆で結ばれているとき、わたしたちは、この世を力強く生きていくことができるようになります。かならず、良い実を結び、それを残していくことができるのです。

 三、キリストとのつながり

 聖書の主人公はイエス・キリストです。聖書はキリストをさまざな呼び名で呼んで、キリストがどのようなお方であるかを示しています。キリストご自身も「わたしは〜である」と言って、ご自分を明らかにしてくださいました。教会は他のどんなことよりもキリストのことを教え、信仰者たちは、いつも「キリスト」のお名前を口にしました。それで、まわりの人々は、「あいつらは、口を開けば "キリスト"、"キリスト" と言う。あいつらは "キリストのやつら" だ」と言って、信仰者たちを「キリスト者」、「クリスチャン」と呼びました。それは信仰者たちを軽蔑した呼び名でしたが、信仰者たちは、自分たちが「キリスト」の名で呼ばれることを誇りに思い、自分たちをその名で呼ぶことになりました。

 このように、クリスチャンは、キリストを知ることによって、自分たちがキリストにつながっていることを自覚しました。キリストを知ることは、自分を知ることであり、自分を知ることによって、クリスチャンは人生の意味と目的を知り、それが確かな人生を歩ませる力となりました。

 キリストが「ぶどうの木」なら、キリストを信じる者は「枝」です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)とある通りです。「ぶどうの木」と「枝」のつながりは、造花のように接着剤でくっつけたようなつながりではありません。枝は木から伸びてきたもので、それは木の一部です。枝は幹から水分と養分を受け、葉を茂らせ、時が来ると実を生らせます。枝は木によって生かされています。木と枝は命のつながりを持っているのです。

 キリストとクリスチャンのつながりも同じです。クリスチャンにとって、キリストは、「尊敬される人物のひとり」ではありません。ましてや、キリストは、アクセサリーや教養の一部、また将来のための「保険」のようなものではありません。キリストは自分を生かしてくれる命そのものです。枝が木から切り取られたら、やがて枯れていくように、クリスチャンとは、キリストなしに生きていけない存在です。「クリスチャン」の正確な日本語訳は「キリスト教徒」ではなく、「キリスト者」、つまり、「キリストに結ばれた者」です。クリスチャンとは、キリスト教という宗教に賛同している人のことではなく、木につながれた枝のように、まことのぶどうの木であるキリストと命のつながりを持っている人のことを言うのです。

 キリストとの命のつながりは、信仰によって与えられ、バプテスマによって確かなものとなります。「イエス・キリストをわたしの救い主、主として受け入れます」という信仰の告白をし、バプテスマを受けたなら、すぐさまキリストとの命のつながりを実感できるかというと、そうでない場合もあります。造られたものに過ぎない人間のうちに、すべてのものの造り主である神の命、復活されたキリストの命が入ってくるというのは、それまで経験したことのないことで、生まれつきのままの人には、それを理解し、感じることは、難しいことなのです。しかし、わたしたちがキリストの命に生かされ、わたしたちのうちに神への愛が育ってくるにしたがって、わたしたちはこの命を手にとるように体験できるようになります。今まで空回りをしていた自分の人生が、意味と目的を持ち、実を結んでいくのを見るようになるのです。

 バプテスマを受けてキリストに結ばれた者は、主の晩餐でさらにキリストの命に与ります。この晩餐で、キリストは、「わたしがいのちのパンである」と仰って、わたしたちにご自分を差し出しておられます。「わたしを食べなさい。わたしを食べて命を受けなさい」と、わたしたちに迫ってくださるのです。わたしたちは、この晩餐で、「わたしはキリストの命でいかされている」ということを確認し、確信しましょう。

 「わたしはまことのぶどうの木」と言われたイエスのお言葉に、「わたしはあなたの枝です」とお答えし、キリストに結ばれ、キリストの命に生かされて歩んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたから遠く離れ、生きる意味も目的もわからず、罪の中に死んでいたわたしたちのために主イエス・キリストを与えてくださったことを感謝します。あなたは、キリストをまことのぶどうの木とし、キリストを信じる者をその枝としてくださいました。キリストとキリストを信じる者の間にある、この命のつながりをいつも自覚し、それに生きる、わたしたちとしてください。あなたを求めて教会に集っているおひとりびとりをバプテスマに招き、キリストとの命のつながりへと導いてください。バプテスマを受けた者たちが、主の晩餐に与るたびに、キリストとの命のつながりを確かなものとすることができますように。キリストのお名前で祈ります。

7/6/2014