実を結ぶために

ヨハネ15:1-8

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

 先週に引き続いて、ヨハネの福音書15章から「実を結ぶために」と題してお話をします。先週はイエス・キリストがぶどうの木で、キリストを信じる者たちが枝であるということ、神がぶどうの枝である私たちに望んでおられるのは、実を結ぶことであるということを学びました。そして、私たちが実を結ぶために必要なことは、キリストにつながっていることだということでした。先週は、ぶどうの木であるイエス・キリストとぶどうの枝である私たちとのつながりを中心に学びましたが、今週は、ぶどう園の農夫である父なる神がぶどうの枝である私たちをどのように取り扱われるのかを学ぶことにしましょう。

 一、収穫のかご

 ぶどう園の農夫である神は、ぶどうの枝である私たちに実を結ぶことを願っておられますが、すべてのぶどうの枝が同じように実を結ぶわけではありません。ある枝は多くの実を結びますが、ある枝はすこししか実を結びません。ひとつも実を結ばない枝もあるでしょう。収穫の時、私たちはどんなふうに実を結んでいるでしょうか。ゼロでしょうか、すこしでしょうか、多くでしょうか、もっと多くでしょうか。神のぶどう畑の収穫のかごには、「空っぽのかご」「少しだけぶどうの入ったかご」「たくさんのぶどうの入ったかご」「もっと多くのぶどうの入ったかご」の四種類があるようですが、わたしたちはそのどれでしょうか。聖書で「収穫の時」というのは、私たちの人生の終わりの時や世の終わりの時をさしますが、この世での働きを終えて神の前に出る時、私たちは、収穫でいっぱいのかごを持って、神の前に行くでしょうか、それとも、空っぽのかごや、ごくわずかの収穫しかないかごを差し出すことになるのでしょうか。神に差し出す実とは、決して地上の財産や名誉や地位などではありません。それらも神からの祝福のひとつとして与えられるものでしょうけれど、神は、私たちに、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった人格の実を、また、人々を助けるための良い行いという実、私たちを通して人々が救われていく伝道の実を求めておられます。私たちが、自分のためにではなく、神のために結んだ実は、いったいどれほどでしょうか。

 二、実を結ばない枝

 もし、あなたが、実をむすばない枝であったなら、神は、どうなさるのでしょうか。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き…」とあります。実を結ばない枝は取り除かれるというのですが、これは、大変厳しいことばです。確かに神は実を結ばない枝であったイスラエルを取り除き、代わりに、私たちをキリストにつなげてくださいました。もし、私たちも実を結ばなければ、イスラエルと同じように取り除かれると、聖書は教えています。

 しかし、私たちの父なる神は、あわれみ深いお方で、私たちが実を結ぶことができなかったからといって、すぐに私たちをお見捨てにはなりません。ルカ13:6〜9にこんなたとえがあります。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」ここで実を結ばないいちじくの木はイスラエルのことで、これは、神がイスラエルに対してどんなに忍耐深くあられたかを教えているたとえ話です。このたとえ話の中で、神は実を結ばない木をほっておかれたのではなく、それがなんとか実を結ぶようにと、木のまわりを掘り、肥料を与えました。神は、実を結ばないぶどうの枝にも同じようにしてくださるのです。

 『ヴァインの秘密』という本を書いたウィルキンソンは、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き…」とある箇所の「取り除き」と訳してあるギリシャ語を「持ち上げる」という意味に解釈しています。それは、彼が、実際にぶどう園の農夫、ヴァインドレッサーから聞いた話にもとづいています。あるヴァインドレッサーが言うには、ぶどうの枝は、ほうって置くと、地面にさがって行き、そのためにほこりをかぶったり、水に濡れたままになって、実を結ばなくなるのだそうです。ウィルキンソンが、そのヴァインドレッサーに「では、そういう枝は切り取ってしまうのですか。」と聞くと、「とんでもない。そういう枝も実を結ぶようにと、その葉についた泥を洗い、枝を持ち上げて、ささえてやるのですよ。」という答えが返ってきました。そこで、ウィルキンソンは、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き…」というところを、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを持ち上げ…」と解釈したわけです。神は、実を結ばないでいる者たちをあわれみ、この世という地面で、罪の泥にまみれている者を洗い、きよめ、そうした人々を、恵みによって持ち上げてくださり、信仰という支えを与えて、実を結ぶ者となれと、語りかけてくださるのです。「取り除く」と「持ち上げる」では大きな違いがあるように見えますが、神が、実を結ばない者に心をかけそれを世話されるということは、イエスが教えておられるところですし、それでも実を結ばなければ取り除かれるというのも、また厳粛な事実です。

 ウィルキンソンは実を結ばない者に対する神の取り扱いは「こらしめ」あるいは「訓練」であると言っています。こらしめには痛みが伴いますが、これは、私たちがもっと大きな痛み、苦しみに入ることがないためのものです。私たちが本来してはいけないことをしている時、神はそれに対する警告するためこらしめを与えるのです。私たちの人生に何の実りもないとき、神は、そのような状態から私たちを救い出し、実を結ぶ人生へと導こうとしてくださいます。私たちは、神からの警告がある時、罪から離れなければなりません。自分の罪を自覚し、それを悲しむのです。そして、悔い改めて、罪を止めるのです。たとえば、物事にたいしてすぐに怒ったり、思い煩って失望したりということを続けていると、私たちは御霊の実のひとつである「忍耐」という実を結ぶことができません。そんな時、神は、私たちを、いやでも忍耐しなければならない状況に追いやられることがあります。神はそれによって、私たちの怒りや思い煩いなどの罪を取り扱ってくださるのです。

 ウィルキンソンがいう「ヴァインの秘訣」の第一は、「あなたが実りのないものであり続けるなら、神は、こらしめを与えてあなたの人生に干渉される。」です。神のこらしめや訓練は、神が私たちを取り除くことがないように、私たちが実を結ぶものになるようにと願って、与えられるものです。神は私たちを落とすためではなく、持ち上げるためにそうしてくださるのです。神のこらしめや訓練に、素直に身をまかせようではありませんか。

 三、実を結ぶ枝

 次は実を結ぶ枝に対する神の取り扱いを見ましょう。「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」と言われています。ぶどう園の農夫である父なる神は、実を結ばない枝に手をかけるだけでなく、実を結ぶ枝にも、もっと実を結ぶために手を入れるのです。イエスはそれを「刈り込みをする」という言葉で表わしています。ぶどうはあまりに茂りすぎますと、光が入ってこなくなり、大きくて甘く、おいしい実をならせることができません。ヴァインドレッサーは、刈り込みによって余分なものを取り除いていくのです。

 神はそのように、私たちの人生にも、手を入れ、刈り込みをなさいます。「私は、これだけの実を結んでいるから、もう大丈夫。」と言うことのできる人はいないのです。神は、もっと多くの実を結ばせるため、あるいはもっと大きくて、おいしい実を結ばせるため、実を結んでいる人々の人生にもいろいろな形で手を入れてくださるのです。神がなさる「刈り込み」にはいくつかの方法があるでしょうが、そのひとつは、神が、私たちが惜しいと思うようなものを思い切って捨てるように命じられることです。神の祝福によって私たちは経済的に恵まれたり、教会での奉仕によって霊的な賜物をいただいたり、多くの人々との親しい交わりを与えられたりします。それらは、どれも素晴らしいものです。罪や悪であるなら、捨てなければいけませんが、こうしたものは手放す必要はないし、手放したくないと誰もが思います。しかし、私たちは、いつしか、こうした神の恵みに甘んじてしまって、コンフォタブル・ゾーンに安住してしまうことがあります。そのために、本当はもっと多くの実を結ぶことができるのに、ある一定の実りだけで満足してしまうことがあります。教会で奉仕を続けたいからと、転勤を断った人がいました。その人は、そのために、給料の良い仕事を棒にふりましたが、そのかわり、教会で豊かに用いられ、神のために大きな実を結ぶことができました。もっと、神のために時間を使いたいからと、昇進を断った人もいます。その人は、自分の霊的な成長のため、家族のため、また、教会のために充実した日を過ごしました。ある牧師は、家族のように愛し、愛されていた教会を置いて、宣教師となって出かけていきました。誰もが彼を惜しみました。彼も、身を切られる思いをしました。彼は、神の召しにこたえるために実りある働きを捨てましたが、神は、彼に宣教地でもっと大きな実りを与えてくださいました。神は、私たちに「より良い」ものを与えるために「良い」ものを捨てるようにチャレンジされることがあります。「ベスト」なものを与えるために「ベター」なものを捨てるよう言われることがあります。あなたの人生で「刈り込み」を受けなければならないものは何でしょうか。財産でしょうか、時間でしょうか、能力や賜物でしょうか、地位や名誉でしょうか、家族や友人たちでしょうか。

 「刈り込み」には、こらしめと同じように「痛み」が伴います。こらしめは、私たちが神のみこころにかなわないことをしている時に来ますが、刈り込みは、私たちが正しいことをしている時にやって来ます。『ヴァインの秘訣』の著者ウィルキンソンは、彼の日ごとの祈りに、神が刈り込みをしてくださって、ただ祈りの時間を守るだけでなく、その時が本当の意味で神の前に出る時となることができたとあかししています。神は、私たちが日ごと励んでいることにもっと深い意味を与えるため、そのことに手を入れてくださるのです。こらしめは、実を結ばない人が実を結ぶためになされるものですが、刈り込みは、実を結んでいる人がもっと豊かな実を結ぶためのものです。

 こらしめにおいて取り扱われるのは、私たちの「罪」です。しかし、刈り込みにおいて取り扱われるのは私たちの「自我」です。神は、私たちがより神のみこころに近く生きることを望んでおられるのであって、ただたんに罪を捨てればそれで良いというものではありません。罪はマイナスのもので、マイナスを捨てても、まだゼロにすぎません。神のみこころに従って生きる、神のかたちに似せて造り変えられていくというプラスの面が必要なのです。私たちは神のこらしめによって罪を認め、それを悲しみますが、刈り込みによって、神の助けを求め、またより深く神に信頼するようになります。こらしめによって私たちは悔い改めて罪から離れますが、刈り込みによって、私たちは、私たちの人生を神に任せて、人生の重荷から解放されるのです。ウィルキンソンは、この明渡しの例としていくつかのことをあげています。航空会社に勤めていたある人は、毎月、高校時代の友達と遊んでいましたが、やがてそれがむなしくなり、やめました。すると、その仲間のひとりがこの人のゆえに、神を求めクリスチャンになったのです。この人は、昔の友達といっしょに遊んでいた時は、その仲間に伝道することができなかったのですが、そこから離れることによって、かえって、その中のひとりを主に導くことができたというのです。また、ある退職したエンジニアは、退職したらゴルフや旅行を楽しむつもりでいたのですが、短期宣教師として奉仕する道を選びました。それによって、この人は、今まで知らなかった実りを体験したのです。神の刈り込みがある時、私たちは、古くからの交友関係や安楽な生活を捨てなければならないかもしれません。しかし、私たちがそれらをあけ渡す時、神はそれにまさる豊かなものを備えてくださるのです。

 では、この刈り込みは、いつまで続くのでしょうか。こらしめは私たちが罪をやめた時に終わりますが、刈り込みは、神が私たちの人生を完成させてくださるまで続きます。芸術家は、その作品が、自分の思いを完全に表わすまで、手を加え続けます。文学であるなら、原稿が出版社に行くまで、何度も何度も推敲され、書き変えられ、油絵であれば、絵の具を削ってはまた塗るという作業が続き、そして、彫刻であれば、最後の最後まで、やすりやかんながかけられるでしょう。そのように、神も、「神の作品」である私たちを、神のみこころを表わすもの、その栄光を表わすものとして、人生の最後の最後まで手を入れ、手を加え続けられます。神が私たちの人生に干渉にしてくださることを、私たちが斥けないかぎり、神は引き続いてその手をさし伸ばしてくださるのです。私たちは、最高の芸術家である神のフニッシング・タッチを受けて、人生を完成させていただこうではありませんか。

 「ヴァインの秘訣」の第二は、「あなたが人生でいくらかの実を結んでいるなら、神は刈り込みによって、あなたの人生を干渉される。」ということになります。

 「ヴァインの秘訣」の第三は、今日は、説明しませんが、「あなたの人生が多くの実を結ぶなら、神はあなたをさらに深く、キリストにとどまる者としてくださる。」です。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」もし、あなたがまだキリストにつながっていないなら、まず、キリストにつながってください。キリストにつながっているのに、実を結んでいないなら、神があなたをそこから引き上げようとしておられることを受け入れてください。すでに実を結んでいるなら、もっと多くの実を結ぶために、神の刈り込みを受け入れましょう。

 (祈り)

 神さま、あなたは、実を結ばないものであった私たちを見捨てず、私たちが実を結ぶものとなるために、ぶどう畑の農夫のように、私たちに手をかけてくださいました。また、もっと多くの実を結ぶために、私たちの人生に手を入れてくださいました。罪を捨てること、自分自身が描いた自分の計画を捨てることのどちらも痛みを伴うものですが、あなたの私たちへの愛を思って、大胆に、罪を悔い改め、私たちの人生を明渡すことができるよう、導いてください。まことのぶどうの木であるイエス・キリストのお名前で祈ります。

4/6/2003