世とクリスチャン

ヨハネ15:18-21

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15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
15:20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
15:21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。

 一、世にある苦しみ

 ヨハネ15章は、イエスが十字架を前にして弟子たちに語られた「告別説教」の一部です。イエスには世を去る前に、どうしても弟子たちに言い残しておかなければならない大切なことがたくさんありました。しかし、もう時はありません。このことも、あのことも話しておきたいと思いながら、それができないもどかしさを感じておられたと思います。何よりも、弟子たちを世に残していかれることが心配でならなかったと思います。

 その心配のひとつは、弟子たちがこの世の憎しみの対象になるということでした。実際、使徒たちはユダヤの指導者から脅され、投獄され、鞭打たれました。そして、ついに、エルサレム教会の執事のひとりステパノが最初の殉教者となりました。ステパノの殉教を機に、クリスチャンの多くはエルサレムから追放され、ユダヤとサマリヤの各地に散らされていきました。

 しかし、弟子たちは迫害に屈しませんでした。家も土地も財産も奪われ、難民となってユダヤ、サマリヤの地に逃れました。しかし、行った先々で、イエス・キリストを宣べ伝え、そこにもクリスチャンが生まれ、教会が建てられていきました。「迫害にもかかわらず」と言うよりは、「迫害すらも用いられて」、「あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」(使徒1:8)との言葉が成就していったのです。苦しみは落胆で終りませんでした。痛みは敗北で終わらなかったのです。それは、主が苦しむ者を見捨てず、痛みを受けている人たちをいたわり、支えてくださったからです。

 主イエスは「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」(ヨハネ15:18)と言われました。この言葉は、「わたしが苦しんだからには、おまえたちも苦しむのは当然だ」という意味では決してありません。弟子たちが反対者たちにやり込められたとき、きまって、弟子たちをかばい、逆に反対者たちをやりこめてくださったのは主です。ですから、主がそんなことを仰るはずがありません。これは、弟子たちに、やがて迫害の時が来るという予告や、そうなっても、ひるんではならないという激励の言葉だけでなく、クリスチャンが誤解されたり、非難されたりするようなことがあったとしても、それは主イエスが受けた以上のものではない。そうしたことをすでに経験してくださった主が、かならず弟子たちを守り支えてくださるという約束の言葉でもあるのです。

 わたしたちは人から「頑張れ」という言葉を良く聞きます。自分でも他の人にそう言います。ある人から聞いた話ですが、母親がこどもを幼稚園に送り届け、こどもと別れるとき、韓国のお母さんたちは「愛してるよ!」と言うのですが、日本のお母さんは「がんばって!」と言うのだそうです。そういえば、東日本大震災後、「がんばろう!!日本」というスローガンが打ち上げられました。でも、あんなに大きな災害に見舞われ、一瞬にして家族を、親族を、友人を失い、家を、田畑を、そして原発のためにふるさとを失った人たちに「頑張れ」という言葉は適切なんだろうかと思いました。みんなもうすでに十分に頑張っているのです。頑張って、頑張って、疲れきっているのです。ほんとうに頑張ってほしいのは政治家かもしれません。たいへんな苦しみの中にある人に必要な言葉は、「大丈夫、わたしはいっしょにいる」という慰めの言葉、「物事は必ず良くなる」という約束の言葉だろうと思います。

 実際、弟子たちは、主イエスの慰めの言葉、約束の言葉に支えられてきました。使徒パウロがコリントで伝道していたとき、主イエスはパウロに語られました。「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。」(使徒18:9-10) 使徒パウロはもとはパリサイ派の指導者で、クリスチャン迫害の先頭に立っていた人でしたから、すこしのことではへこたれない強い精神力を持っていたと思います。ですから、主イエスから「頑張れ」と言われたら、歯をくいしばってでも、最後まで頑張り通せたかもしれません。しかし、主はパウロに「あなたには、わたしがついている」とおっしゃって、伝道はパウロひとりがするのではない。主がパウロを使ってしてくださるのだと励ましてくださいました。そして、「だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない」とパウロの安全を保証してくださったのです。そればかりか、「この町には、わたしの民が大ぜいいる」と仰って、多くの人がコリントの町で救われ、クリスチャンになるという、結果までも約束してくださいました。

 パウロでさえ、そうした励ましや約束が必要だったとしたら、わたしたちはなおさらです。人はあまり「頑張っている」と孤独になります。実際に他の人とのフェローシップを持てないということではなく、自分はこんなに頑張っているのに、誰も認めてくれないなどといった気持ちになる、そんな孤独です。ほんとうは回りの人も認めてくれているのですが、何よりも、わたしたちの労苦を知ってくださっているのは主です。そもそも、アメリカで生まれ育った者でない者がアメリカで生活していくこと自体、大きな重圧です。多くの人はそれを背負って生きています。しかし、主は言われます。「つらいときも、苦しいときも、悲しいときも、あなたひとりではない。わたしはあなたと共にいる。」

 人間関係などで、いちど痛い目にあったことのある人は、大丈夫なことでも、いつどこから攻撃の矢が自分に飛んでこないかとびくびくしてしまうことがあります。無用な恐れにしばられて、何事にも消極的になってしまうのです。そんなとき、「だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない」との言葉に信頼しましょう。守ってくださるのは主です。そのことが分かるとき、わたしたちも詩篇27:1でダビデが歌ったように「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」と言うことができるのです。

 頑張っても結果が出ないことがあります。そんなときは、自分のやってきたことは失敗だったのだろうかという思いで心が一杯になり、虚しさを感じてしまうことがあります。わたしたちが主のためにしたことはすべて、やがて天で報われるのですが、地上でもその実を見たい、それによって励まされたいと願うのは当然です。そうした願いは、もちろん、主に申し上げて良いのです。主は祈りに答えて実りを約束してくださいます。使徒パウロに「この町には、わたしの民が大ぜいいる」と約束された主は、わたしたちにも、同じ約束をくださり、実りを、結果を見せてくださるに違いありません。

 世の中の苦しみだけに目を留めていたなら、この世ほど窮屈なところはありません。正義を求め、真実を求め、誠実を求める人にとって、それとほど遠いところにある今の時代を生きるのは、苦痛かもしれません。しかし、信仰を持つ者はそれに負けてはいけないと思います。主は言われました。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)たとえわたしたち自身が小さく、弱くても、わたしたちの信頼するイエス・キリストは偉大で力強いお方です。イエス・キリストへの信仰によって、この世を力強く歩み通したいと思います。

 二、世にある使命

 なぜ、この世には苦しみがあるのか。クリスチャンがこの世の罪と、その結果である苦しみや痛みから救われたはずなのに、なぜ、なおこの世で苦しみ、悩み、痛みを受けるのか。神はクリスチャンがむやみに苦しむことを望んでおられないのに、なぜクリスチャンを悩み多い世の中においておかれるのか。それには、わしたちには知らされていない深い神のみこころがあり、簡単には答えの出ないものだと思います。しかし、ひとつだけ確かなことがあります。それは、クリスチャンがこの世にあって、イエス・キリストから与えられた使命を果たすためだということです。

 今年のVBSの母親クラスで、ひとりの姉妹がこう話してくれました。「わたしたち夫婦には子どもがあたえられず、とてもつらく、悲しい思いをしました。自分のこどもを持つことができなくなったので、育児放棄によって見捨てられたこどもを里子として育てました。産みの親が親権を放棄し、親族が名乗りでなかったら、養子にして育てるつもりでした。あと数日でそのことが実現するというときに、親族がこどもを引き取ることになりました。そのときは、どんなに泣いたかわかりません。その後も里子を育てました。親の愛に恵まれなかったこどもや虐待を受けたこどもが徐々にこどもらしさを取り戻していくのを見るのはうれしいことでした。しかし、このこどもも手放さなければならない時が来ることを考えると複雑な気持ちでした。「神さま、どうして、わたしたちには、他の人のように自分のこどもを育てるという幸いがないのでしょうか。」神さまにそんな不平を言ったこともあります。しかし、そうしたことを通ったあと、同じようにこどもを望みながら与えられないでいる人に出会ったとき、ほんとうにその気持ちが分かり、その悩みを共有することができました。「なぜ」という疑問は完全に解決したわけではありません。しかし、自分の苦しみには意味があり、目的があった。それは、他の人に仕えるという使命のためだったということがわかりました。」

 このあかしにあるように、わたしたちはこの世で痛みを受けます。しかし、それは無意味なものではなく、神はそうしたことを通しても、痛み、苦しんでいるこの世に、神の愛を分かち合うという奉仕をさせてくださるのです。

 もちろん、すぐに「この苦しみには意味がある」と理解できるわけではありません。この姉妹がそのような信仰に至るまでは、長年の苦しみや痛みがあったことでしょう。しかし、どんな苦しみや痛みも、洞穴のように行き止まりのものではありません。それはトンネルのようなもので、必ず出口があるのです。長く、曲がったトンネルではすぐに出口は見えません。しかし、忍耐して歩き続けるなら、かならず、出口の光が見えてきます。聖書はさまざまな言葉で、わたしたちに忍耐して神に信頼するよう教えています。「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」(詩篇37:3新改訳)「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」(イザヤ50:10新改訳)「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第一10:13新改訳)

 最後の聖句の「脱出の道」というのは、そこから逃げ出すという意味ではありません。この「脱出」という言葉は「出エジプト」を表わす言葉です。イスラエルの人々がエジプトの奴隷から解放され、自由の民、神の民となったように、わたしたちが試練ののちに見いだす道は、勝利の道です。それは栄光への脱出です。わたしたちはあまりに苦しい環境にいると、そこから逃げ出したくなります。しかし、キリストにある勝利をいただいていないと、ひとつのところを逃げ出しても、また別のところで同じ問題に陥ってしまいます。忍耐して踏みとどまる。たんなる我慢ではなく、神の約束を信じ、解決を信じ、勝利を信じて踏みとどまることも大切なことです。

 イエスは地上を去る前、こう祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。」(ヨハネ17:15-18)

 イエスは世を去る間際まで、弟子たちのために、その守りを祈られました。それほどに弟子たちを愛されたのです。主イエスの弟子たちを思いみる愛はなんと深いことでしょう。この愛と同じ愛は、今も、わたしたちに注がれています。そして、主イエスは、この愛を受けたわたしたちが、それを受けるだけで終わらず、それを人々に分かちあうことを求めておられます。主は、「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と祈られました。キリストからの使命を受け、キリストから遣わされていくとき、わたしたちは、そこで、「主が共にいて、わたしを守り、わたしに実りを与えてくださる」という恵みを体験できるようになるのです。「愛をつたえよう」(新生讃美歌665)で、「ここに私がいます ここに私がいます 私をおつかわしください あなたの愛を伝えるため」と歌うたびに、自分が世から選ばれ、再び世に遣わされているという真理を深く心にきざみ、みずからを主にささげていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちが礼拝のたびごとに、キリストによって世から選び出され、再び世に遣わされているということを体験することができますよう、助け、導いてください。アメリカに住むわたしたちは、初代教会が受けた迫害や苦しみが、遠い過去のこと、小説の世界のように感じてしまうほどの恵まれ環境にいます。それで信仰が少し生ぬるくなっているかもしれませんが、平和と自由の中で信仰を保ち、それを証しできるのは大きな特権です。この特権を最大限用いて、世にあってわたしたちに与えられた使命を果たしていくものとしてください。世にあってかなず守られるという約束を信じて、堅く信仰を守り、正しく歩むものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/17/2014