いつまでも残る実

ヨハネ15:16

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15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。

 ヨハネ15章では、キリストはぶどうの木、わたしたちはその枝にたとえられていますが、それとともに、キリストはわたしたちの友であるとも言われています。イエス・キリストは14節と15節で「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:14-15)とあるように、キリストはわたしたちの友です。友と友は対等です。イエス・キリストは神の御子であり、わたしたちよりもはるかに高いお方なのに、へりくだってわたしたちと対等の者になってくださいました。このことは、どんなに感謝しても感謝し尽くすことはできません。

 キリストを友とし、親しいまじわりを持つことができるのは、信じる者に与えられた特権ですが、だからといって、キリストをたんなる「お友だち」のレベルに引き下げ、キリストへの畏敬の思いや服従を忘れてはなりません。どんな場合でもイエス・キリストが主であることを覚えていたいと思います。

 一、キリストによる選び

 今朝の箇所、ヨハネ15:16の「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしたあなたがたを選んだのである」という言葉は、わたしたちに、イエスが主であることを再確認させてくれます。ふつう、わたしたちが友だちを作るときは、人と出会って、「この人なら気が合いそうだ」と思ったら、自分のほうからその人を友だちに選びます。ソーシャルネットワークでは、「お友だち候補」がたくさん表示されますので、その中から選んでいくわけです。ふつうは、「わたしが誰かを選ぶ」のですが、ここで主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしたあなたがたを選んだのである」と言って、主イエスとわたしたちとの友情の主導権は主イエスにあると言っておられます。

 友情だけでなく、すべての愛の関係は相互のものですから、わたしたちもまたキリストを選んだのです。わたしたちは皆、毎日毎日、一瞬一瞬、物事を選択しながら生きています。今朝、わたしたちがここにいるのも、この時間に他のことをすることを選ばないで礼拝することを選んだからです。しかし、わたしたちはいつでも良いものを選ぶとはかぎりません。つまらないものを選んでしまうこともあります。それで聖書には、「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」(申命記30:19)とあって、わたしたちに良いものを選ぶよう促しています。信仰とは、神が示してくださる「命」の道、「祝福」の道を選びとっていくことです。詩篇には「わたしは真実の道を選び、あなたのおきてをわたしの前に置きました」(詩篇119:30)という言葉があります。また、ベタニヤのマリヤがイエスの膝元に座り、そのお話に聞き入っているのを、姉のマルタが咎めたとき、イエスは、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」(ルカ10:42)と言われました。主イエスはわたしたちに常に「無くてならぬもの」を、「良いもの」を選ぶように教えてくださいました。

 ですから、わたしたちも、イエスを友として選んだのです。そして、イエスを友として選んだ選択は、間違いのない、最良の選択でした。しかし、それでも、イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしたあなたがたを選んだのである」と言われます。これは、わたしたちの選択を否定するものではなく、わたしたちがイエスを選ぶ以前に、イエスのほうからわたしたちを選んでいてくださったという意味です。イエスがまず、わたしたちを選んでくださったので、わたしたちもイエスを選ぶことができたのです。聖書はこのことを、次のような言葉で表現しています。

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選びわたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(エペソ1:3-5)
「神は…天地の造られる前から…わたしたちを選び」という言葉は、驚くべき言葉です。人間は天地創造の最後の六日目に造られましたが、神のお心の中では、天地創造の前から覚えられていたのです。神は人間のためにこの世界を設計して造ってくださったのです。このことは限られた人間の力では理解し尽くすことはできませんが、神がこの世界のどんなものよりも先んじて、わたしたちの人生に最善を計画しておられたという、その愛は感じ取ることができます。このような神の愛と選びを考えるとき、わたしたちは自分の人生をけっして無駄にしてはいけないと思います。

 「キリストがわたしを選んでくださった。」この事実は、わたしたちを思い煩いや不安、恐れから救ってくれます。信仰を持ちたいと思いながら、なかなかバプテスマに踏み切れないでいる理由のひとつに、「最後まで信仰を持ち続けられるだろうか」という心配があると思います。真面目な人ほど、「信仰を持つからには、それを生涯貫き通したい。中途半端なことはしたくない。けれども、自分にはそれができるだろうか」と心配になるものです。主は、そうした気持ちをよくご存知です。心配するなと仰るだけでなく、心配しなくてよいように支えてくださるのです。「わたしがあなたを選んだ。だから、わたしが責任を持つ」と言ってくださるのです。

 イエスは言われました。「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。」(10:28-29)信仰とは、神に向って手を差し伸ばすこと、キリストの手を握りしめることです。しかし、わたしたちが自分の力だけでそうしているなら、いつか、疲れてその手を離してしまうかもしれません。しかし、キリストが、わたしたちの手を握りしめてくださるなら、わたしたちはキリストからけっして離れることはありません。キリストは「彼らをわたしの手から奪い去る者はない」と言われたばかりか、「だれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない」とも仰って、わたしたちがキリストの手と父なる神の手で二重に守られていることを教えてくださいました。

 神は「世のはじめ」からわたしたちを愛し、選んでくださいました。救いは神から始まっています。神はすべてのものの始まりであるとともにすべてのものの終り、完成でもあるお方です。神は、わたしたちのうちに始めてくださった救いを途中でやめてしまわれるようなお方ではありません。始めてくださったものをかならず完成してくださるのです。ですから、ヘブル12:2に「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と勧められているのです。「初めであり、終りである」(黙示録2:8)お方、イエス・キリストに信頼して、一歩を踏み出しましょう。

 二、キリストからの使命

 キリストに選ばれていること、それは私たちに安心と安全を与えてくれます。そして、それと共に使命を与えてくれます。人は、安心と安全さえあれば、満足できるものではありません。それとともに「使命」が必要です。選びと使命は、いつでも結びついています。スポーツで競技に出る人を「選手」と呼びます。「選手」とは「選ばれた人たち」です。何のためにでしょう。競技に出て自分に与えられた分を果たすためです。キリストが、わたしたちを選んでくださったのも同じです。わたしたちはキリストに選ばれたとき、キリストから使命を与えられたのです。使命を果たすため、その人に与えられた役割を果たすために選ばれたのです。

 わたしたちは皆、自分の人生に意味と目的を必要としています。その生涯の間に、何か意義のあることを成し遂げたいと願っています。誰かの役に立つことを求めています。どんなにすべてのものに満たされていても、自分のためだけに生きる人生には、消えていく「楽しみ」はあっても、消えることのない「喜び」はありません。逆に、たとえ、苦労は多くても、意味あることのために働くことができたら、人は満ち足りた心で生きることができるのです。人々は、職業や趣味、子育てやボランティアの活動などの中に自分の生きがいを見つけようとします。しかし、キリストに選ばれた者には、それ以前に、キリストから与えられた使命があります。その使命を知り、それを実行していくとき、この世が与える「生きがい」以上のもの、神に仕える喜びと満足を得ることができるようになります。

 その使命とは何でしょうか。主イエスは言われました。「それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである。」ここで、キリストとわたしたちとの関係が友と友との関係から、ぶどうの木とその枝という関係に戻っています。ぶどうの枝が実を結ぶためにあるように、キリストに選ばれた者たちに与えられている使命もまた、実を結ぶことにあります。

 では、わたしたちが結ぶべき実とはどんなものでしょうか。聖書にはすくなくとも三つの実があります。第一は「聖霊の実」です。ガラテヤ5:22-23に「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制」という九つの実がしるされています。これは、聖霊がわたしたちの人格の中に生み出してくださるものです。第二は「行いの実」です。主イエスが「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)と言われたように、わたしたちの内面が良いものへと変えられていくとき、わたしたちの行いも良いものに変えられていくのです。第三は「福音の実」です。コロサイ1:6に「そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである」とあります。「福音」、つまり、キリストの救いについての良い知らせがわたしたちを通して、人々に伝えられていくとき、そこに救われる人々が起こされ、キリストのぶどう畑である教会が生まれ、そのぶどう畑にさらに聖霊の実、行いの実、そして福音の実が結ばれていくのです。他にも、献金や賛美が「実」と呼ばれています(ローマ15:28、ヘブル13:15)。

 枝は実を生らせますが、その実をいつまでもつけてはいません。実が熟すと、それを地面に落とします。地面に落ちた実は動物がそれを持ち運んで食べます。実の中には種があり、種の中には命があって、そこから芽が出、やがて木となり、もとの木から次々に新しい木が生まれ、多くの実がみのるようになるのです。そのように、私たちが実を結ぶのも自分のためではありません。他に与えるためです。それによって人々がキリストの恵みにあずかるためです。人々がわたしたちの差し出す実によって命を得、養われるためです。

 主イエスは「その実はいつまでも残る」と言われました。わたしたちが地上で築いたものは、それが財産であれ、地位であれ、名誉であれ、事業であれ、世とともに過ぎ去っていきます。しかし、キリストにつながるぶどうの枝として結んだ実は、みな天につながっていきます。それらはいつまでも残る実です。主イエスは「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(6:27)と言われました。わたしたちも、地上のことがらや自分のためだけにあくせくするのでなく、天のことのために働き、神のために奉仕する者となりたいと思います。

 実を結ぶ秘訣はキリストに「とどまる」ことにありました。ヨハネ15章で「つながる」、「とどまる」などと訳されてきたのと同じ言葉が、「その実がいつまでも残る」というところで使われています。ここは原語どおり訳せば、「その実はいつまでもとどまる」となります。キリストに「とどまる」なら、いつまでも「とどまる」実を結ぶことができるというわけです。

 わたしたちの人生が地上だけのもので終わらないで、永遠までも意味あるものとなる。それは、一にも、二にも、キリストに結ばていること、キリストの言葉に、その愛にとどまることによってなのです。わたしたちを愛し、選んでくだっさったキリストは、決してわたしたちを離すことはありません。今度はわたしたちがキリストへの愛に応え、日々の生活の中でキリストを選び、そしてキリストにとどまる番です。そのようにして、神にも人々にも喜ばれる実を豊かに結び、それを人々に分け与えていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはわたしたちに実を結ぶことを期待しておられます。しかもその実は、いつまでも残る実、神と人々のたの実、天につながる実でなければなりません。わたしたちには、そのような実を結ぶ力はありません。それは、まことのぶどうの木であるイエス・キリストにつながっていることによってはじめてできることです。どうぞ、わたしたちにキリストにとどまることを教えてください。あなたは、実を結びたいと願うわたしたちの願いに応じて、わたしたちのうちに働いてくださいます。わたしたちをいつまでも残る実を結ぶ者としてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

8/10/2014