友なるイエス

ヨハネ15:12-17

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15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

 一、慰めへの招き

 カナダのオンタリオ湖の湖畔に次のような標示が立っています。

4マイル北、ペンゲリーの墓地に
博愛主義者であり また
1857年 ポートポープで書かれた
偉大な傑作の作者である人が眠る
この標示を見たほとんどの人は、その墓地を訪れると言われています。そこには誰が葬られているのでしょうか。

 この人は、1820年アイルランドで生まれ、1845年、カナダ、オンタリオ州のポートホープにやってきました。その地で家庭を築こうとし、いよいよ明日は結婚式という時、なんと婚約者が事故で亡くなったのです。彼は大きな悲しみに投げ込まれましたが、絶望に落ちこむことなく、かえってそれによって主イエスに近づき、その後、彼は、主イエスのように大工仕事をしながら貧しい人を助け、病んでいる人を慰め、徹底して他の人のために生きる人生を送りました。

 1857年、彼は、アイルランドの母親が病気であることを聞き、母を慰めるためにひとつの詩を書きました。それが、アメリカのリバイバルのリーダ、サンキーの目にとまり、彼がまさに出版しようとしていた『ゴスペル・ヒムズ』の最後の曲として加えられました。この詩こそ、あの標示に書かれていた「偉大な傑作」で、「いつくしみ深き」という誰もが知る賛美歌となったのです。ペンゲリーの墓地に眠っているその「作者」の名は、ジョセフ・スクライブンです。

 この賛美歌、「いつくしみ深き」はヨハネ15:15の「わたしはあなたがたを友と呼んだ」というイエスの言葉に基づいています。

 人は誰もが、自分のことを分かってくれ、慰め、励ましてくれる「友」を必要としています。特に辛いことがあったり、心が深く傷ついたり、孤独を感じるときはなおのことです。そんなとき、心を開いて話すことができる「友」を持っている人は幸いです。いや、たとえそうした人がいたとしても、この世の「友」はいつかは世を去っていきます。年齢を重ねて寂しく思うのは、家族、友人、知人がひとり、ふたりと世を去っていくことです。若い人も学校を卒業したり、転勤になったりして、同じような寂しさを味わうことがあります。スクライブンの母親も病気になって、そんな心細さを味わっていたと思います。そんなとき、息子から届いた「いつくしみ深き」の詩は、どんなに彼女を励ましたことでしょう。世の友は去っても、イエスは去ることはありません。どんなときでも、イエスはわたしたちの「友」となって、いっしょにいてくださるのです。

 「いつくしみ深き」の賛美の二番目の歌詞はこうです。

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩み 悲しみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん
「友」であるイエスがわたしたちの痛み、苦しみを知っていてくださる。試みの日にいっしょにいてくださる。これにまさる慰めはありません。「いつくしみ深き」の賛美のとおり、イエスはわたしたちを「友」と呼び、この慰めへと招いていてくださるのです。

 二、使命への招き

 イエスはまた、わたしたちを「友」と呼ぶことによって、「人類の救い」という大事業のパートナーに、わたしたちを招いておられます。15節に「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」とあるように、イエスは、ご自分がこれからなさろうとしていることについて、事細かに弟子たちに告げ、ご自分の心のうちを弟子たちに打ち明けました。イエスの時代には「しもべ」は主人から言いつけられた仕事を果たしさえすればよいので、なぜ、その仕事をしなければならないのか、それがどんな意味を持っているのか知らなくても良かったのです。現代でも、経営者が会社の経営についていちいち社員に知らせたりはしません。仕事の命令を与えるだけです。けれども、仕事のパートナーには、経営方針や将来の見通し、またリスクについて詳しく打ち明けます。イエスもまた、弟子たちを、そしてわたしたちを「友」と呼んで、ご自分のパートナーとされたのです。

 イエス・キリストの救いは、「ゴルゴダ」、または「カルバリ」と呼ばれる処刑場に立てられた十字架の上で成し遂げられました。326年に、イエスがそこに架けられたとされる十字架がカルバリの跡地で見つかりました。それは「聖十字架」と呼ばれて保存されたのですが、今では、それがどこにあるかは誰も知りません。しかし、わたしたちにとって大切なのは、材木としての十字架ではありません。十字架が語るメッセージ、「十字架の言葉」です。イエスはご自分がかけられた十字架が記念碑として保存されることを望まれませんでした。十字架は、過去のもとのとして、特定の場所にとどめられるものではなく、全世界に、時代から時代へと変わりなく伝えられるべきものなのです。イエスが望んでおられるのは、すべての人の心の目にキリストの十字架が描き出され、人々が十字架の救いを受けることなのです。

 そのためには、「十字架の言葉」、つまり、救いのメッセージを語り伝える人々が必要です。十字架が「救いを得させる神の力」てあることを証しする人々が必要です。十字架の救いのメッセージを次の世代に伝えていく働きが必要です。イエスはこの働きを、ご自分の弟子たちに委ねられました。続く16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」とある通りです。「行って実を結ぶ」とは、弟子たちの伝道や証しによって、人々がキリストを信じ、キリストに従うようになることを意味しています。教会が建てられ成長し、神の国が拡大していくということです。

 わたしたちは、この使命を自分たちの力だけで果たしていくのではありません。イエス・キリストという最高のパートナーといっしょに果たしていくのです。「友」であるイエス・キリストは、いつもわたしたちと共にいて、わたしたちを導き、助け、力を与えてくださるのです。イエスは16節で「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」と言っておられます。ひとりでも多くの人がキリストを信じ、成長することは、父なる神のみこころです。ですから、そのことを大胆に求めて良いのです。「イエス・キリストの名によって」求めるなら、それは与えられると、イエスは約束されたのです。だから、わたしたちは、この使命がどんなに困難でも、あきらめずに、それに励むのです。「友」であるイエスに信頼し、「イエスの名」によって助けを呼び求めて励むのです。

 三、愛への招き

 イエスはわたしたちを「友」と呼んで、わたしたちをご自分の「慰め」に、またイエスとともに果たす「使命」へと招いてくださいました。さらに、イエスは、わたしたちを「友」と呼ぶことによってわたしたちをご自分の「愛」へと招いておられます。

 今朝の箇所は、12節の「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」という言葉ではじまり、17節の「これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」という言葉で終わっています。イエスがわたしたちを「友」と呼ばれたのは、わたしたちに「互いに愛し合う」ことを教えるためだったのです。

 わたしたちが互いに愛しあう愛は、イエスがわたしたちを愛してくださった愛です。イエスは「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(13節)と言われました。他の命を守るために自分の命を捨てるというのは簡単にできることではありません。だからこそ、それは「これよりも大きな愛はない」と言われるのです。イエスは、「あなたがたはわたしの友だ」と言われたとき、「わたしは、あなたがたのために命を捨てたほど、あなたがたを愛している。これ以上大きな愛はないという愛で愛している」と言っておられるのです。

 今から60年近く前、1957(昭和32)年2月10日のこと、和歌山と四国徳島の間にある紀伊水道での出来事です。この日、普段は静かなこの海が風速30メートルの風で荒れており、一隻の日本の船、高砂丸が船火事を起こして今にも沈みそうになっていました。そこを通りかかったデンマークの船、エレン・マークス号の船員がそれを見つけました。船はすぐさま進路を変更して、高砂丸に近づき、救命ボートでひとりの日本の船員を助け出しました。ところが、その船員が救命ボートから本船に移される時、あまりに疲れきっていたので、縄ばしごの途中からどっと海の中に落ちてしまったのです。その時、それを見守っていた大勢の船員の中から、ひとりの船員が海に飛び込みました。それがヨハネス・クヌッセン機関長でした。彼は日本の船員を救おうとしたのですが、大きな波に呑まれて、消えていきました。わずか39歳の若さで命を落としたクヌッセン機関長の胸像は、和歌山県日の岬の丘の上に建てられています。冬の大しけの海に、見ず知らずの日本人を助けようとして、自分の命をささげた愛、国境を越えた大きな愛は、今も覚えられています。

 イエス・キリストは、見ず知らずの異邦人であったわたしたちを愛して、ご自分の「友」としてくださいました。そればかりか、「友」であるわたしたちのために命を捨ててくださったのです。これよりも大きな愛はありません。わたしたちはこの愛に招かれています。キリストの愛で、愛され、生かされることに、また、この愛によって互いに愛し合うためにです。イエスはわたしたちを「友」として信頼してくださっているのです。その信頼にわたしたちも精一杯お応えしたいと思います。「いつくしみ深き友なるイエス」がくださる「慰め」に、「使命」に、そして「愛」に生きる者となりたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちを「友」と呼んでくださるイエス・キリストの大きな愛を心から感謝します。この愛のうちにある慰めを受け、そこにある使命に生き、その愛によって歩む者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/8/2015