キリストにとどまる

ヨハネ15:1-8

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

 昨年、ブルース・ウィルキンソンの『ヤベツの祈り』が日本語に訳され、日本でもベストセラーになりました。ヤベツの祈りについて良く知らない人が「『キャベツの祈り』って何ですか。」と言ったそうですが、「キャベツの祈り」ではなく、「ヤベツの祈り」です。これは、歴代誌第一4章10節でヤベツという人が「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」と祈った祈りのことです。ウィルキンソンは他にも『ヴァインの秘訣』という本を書いており、これも日本語に翻訳されています。この本はイエスが "I am the true vine." と言われたことから三つの「秘訣」を紹介しています。私は、以前ある人に『ヤベツの祈り』と『ヴァインの秘訣』の両方を貸したことがありますが、その人は「『ヴァインの秘訣』のほうが良かった」と言っていました。皆さんも『ヴァインの秘訣』を読むと良いと思いますが、ヨハネ15章はとてもわかりやすい箇所ですので、聖書そのものから「ヴァインの秘訣」を発見することができると思います。「ヴァインの秘訣」については、来週お話しすることにしていますので、今朝は、それを理解するのに知っていなければならないことをいくつか学んでおきましょう。

 一、実を結ぶ

 第一に、神が私たちに求めておられるのは実を結ぶことだということです。

 イエスは弟子たちにぶどうの木とその枝について話しましたが、弟子たちは「ぶどうの木」がイスラエルのことをさしているとすぐに思いついたことでしょう。十字架がキリスト教を表わし、星条旗がアメリカを表わすのと同じように、ぶどうの木はイスラエルを表わすシンボルだったからです。旧約聖書には、イスラエルが「ぶどうの木」として描かれています。詩篇80:8-11にこうあります。「あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。あなたがそのために、地を切り開かれたので、ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。山々もその影におおわれ、神の杉の木もその大枝におおわれました。ぶどうの木はその枝を海にまで、若枝をあの川にまで伸ばしました。」ここまでは、イスラエルがエジプトから救い出され、カナンの地で繁栄した様子が描かれています。しかし、その後は、このぶどうの木が食い荒らされ、火で焼かれ、切り倒される様子が描かれています。「なぜ、あなたは、石垣を破り、道を行くすべての者に、その実を摘み取らせなさるのですか。林のいのししはこれを食い荒らし、野に群がるものも、これを食べます。万軍の神よ。どうか、帰って来てください。天から目を注ぎ、よく見てください。そして、このぶどうの木を育ててください。また、あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝とを。それは火で焼かれ、切り倒されました。彼らは、御顔のとがめによって、滅びるのです。」(詩篇80:12-18)イスラエルは罪を犯したため、切り倒されたのです。

 イザヤ書5:1-2にはこう書かれています。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」このように、イスラエルは、神を疑い、神に逆らい、神に対してにがにがしい思いを心にいだいたのです。イスラエルは「ぶどうの木」と呼ばれてはいますが、実を結ぶことなく終わってしまいました。「ぶどう」は本来は豊かさのシンボルでしたが、イスラエルに関しては、失敗のシンボルとなってしまいました。イスラエルは、シンボルだけは立派でしたが、全く中身のないものになってしまっていたのです。

 そこで、神は、イスラエルに代わって、イエス・キリストを信じる者たちを選び、イエス・キリストにつながる者たちが実を結ぶことを期待されたのです。ヨハネ15:5に「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とあるように、イエス・キリストがぶどうの木で、イエス・キリストを信じる者は、ぶどうの幹につながっている枝です。しかし、イスラエルにかわってぶどうの枝とされた私たちは、はたして、神のために実を結んでいるでしょうか。聖書には、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22〜23)という「御霊の実」があります。最初の三つ「愛、喜び、平安」は神との関係において結ぶ実、次の三つ「寛容、親切、善意」は人との関係において結ぶ実、最後の三つ「誠実、柔和、自制」は自分との関係において結ぶ実であると言われていますが、私たちは、神との関係、人との関係、そして自分との関係というあらゆる面で実を結んでいるだろうか、旧約時代のイスラエルのように実を結ばないものになっていないだろうかと、反省してみたいと思います。

 ぶどうは、他の木とは違って、実を結ぶためにあります。他の木なら、太く、強く育ち、材木や燃料として使うことができますが、ぶどうの木は、細くて弱く、材木にもなりませんし、燃料としても、すぐ燃え尽きてしまいますから、たきつけ程度にしかなりません。材木や燃料にならなくても、鑑賞用に植えられる木もあり、その枝振りが誉められたり、花が好まれたりしますが、ぶどうの場合は、その枝ぶりがほめらることはまずありません。ぶどうは実を結ぶために植えられ、植えた人は、実を期待し、その実を誉め、喜ぶのです。同じように、ぶどうの木につながっている人々、つまり、イエス・キリストを信じ、クリスチャンと呼ばれる人々に期待されるのは、実を結ぶことです。ヨハネ15:1-16には「実を結ぶ」「実が残る」ということばが9回も出てきます。実を結ぶのは、キリストにつながっている私たちの仕事で、キリストの仕事ではありません。ぶどうの幹に直接ぶどうの実が結ばれるわけがないように、神は、キリストを信じ、キリストにつながっている、クリスチャンひとりひとりに実を結ぶことを期待しておられるのです。

 二、まことのぶどうの木

 第二のことは、イエス・キリストが「まことのぶどうの木」だということです。

 イエスはたんに「わたしはぶどうの木」とは言わず、「わたしは<まことの>ぶどうの木」と言われました。それは、旧約時代に神が「ぶどうの木」として選んだイスラエルが神のために実を結ぶことがなかったことと関係があります。イエスは、失敗したイスラエルに代わって、その失敗をやり直すためにこの世界に来てくださいました。イエスは、「まことのイスラエル」となって、旧約時代の神の民の失敗を償い、やり直してくださったのです。イエスは、実を結ぶことのなかったイスラエルに代わって、<まことの>ぶどうの木となり、このぶどうの木につながなら、その「枝」が実を結ぶようにしてくださったのです。

 イエスはヨハネの福音書で7回、「わたしは〜である」と言っておられます。最初に「わたしはいのちのパンである。」(6:35)、次が「わたしは世の光である。」(8:12)、それから「わたしはいる」(8:58)とも言われ、「わたしは門である。わたしは良い羊飼いである。」(10:9,14)、「わたしはよみがえりであり、いのちである。」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である。」(14:16)と言われ、そして、ここでは「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)と言っておられます。「わたしは〜である」という言い方には「わたしこそ〜である」「わたしだけが〜である」という強い意味がこめられています。イエスのほかに<まことの>ぶどうの木はありません。いのちのないものにつながっても実を結ぶことはできませんし、悪いものににつながったら、悪い実しか結ぶことができません。良い実を結ぶために、私たちは<まことの>ぶどうの木であるイエス・キリストにしっかりつながっていたいものです。

 三、キリストにとどまる

 第三に、実を結ぶためには<まことの>ぶどうの木であるキリストにとどまっていなければならないということです。

 ぶどうの枝はその木から樹液を受けてはじめて実を結びます。ぶどう畑の中になにかの枝を置いておけばそこにぶどうが成るわけではありませんし、それをぶどうの木にくくりつけてもだめです。枝はぶどうの木から生え出たものでなければならないのです。ぶどうの枝はぶどうの木の一部でなくてはならず、ぶどうの木のいのちがぶどうの枝にも流れていなければならないのです。イエス・キリストと私たちの関係がぶどうの木とその枝のように、切っても切り離せない関係でなければなりません。このことは4節でこう言われています。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」私たちがキリストにとどまり、キリストが私たちのうちにとどまってくださる関係、それはどのようにして始まり、どのようにして保つことができるのでしょうか。

 キリストにつながること、キリストとのいのちの関係を持つことは、キリストを偉大な人物として認めるだけ、教会に出入りするだけでできることではありません。名前だけクリスチャンであることや表面だけクリスチャンらしく振舞うことと、本当にキリストのものとされていることとは別物です。キリストにつながることは「新生」から始まります。イエス・キリストをあなたの救い主として心に受け入れる時、あなたのうちにキリストのいのちが働いて、あなたは新しく生まれるのです。あなたがキリストを心に受け入れるなら、あなたもキリストのうちに受け入れられます。その時、キリストを信じる者はキリストにつながれ、キリストのいのちによって生かされ、ぶどうの木の枝となるのです。

 では、新生だけで十分なのでしょうか。新生はスタートにすぎません。盛大な結婚式を挙げても、その後夫婦がいがみ合い、離婚してしまったのでは、その結婚式は意味を失ってしまいます。マラソンで好調なスタートを切っても、途中で棄権してしまったら、決して賞を得ることができません。そのように、何事でも、継続すること、そこに留まり続けることが、それを始めること以上に大切なことは、誰もが認めることです。信仰の場合はなおのことです。時々、バプテスマを受けたらとたんに教会に来なくなってしまうことがあります。バプテスマを受けることを、まるでお茶やお花の免許を受けることのように思い、「これで私も一人前のクリスチャンになったから、もう教会に行かなくても大丈夫」と考えてしまっているのでしょうね。バプテスマは卒業式ではなく、入学式です。バプテスマを受けた人は、キリストの弟子となるために、キリストの学校である教会で、キリストから学び続けるのです。

 「とどまる」という言葉は、「点」で表わす言葉ではなく、「線」で表わす言葉です。それは「継続すること」を意味しています。ですから5節は「人がわたしにとどまり続け、わたしもその人の中にとどまり続けるなら、そういう人は多くの実を結びます。」あるいは、「人が持続的にわたしにとどまり、わたしもその人の中に持続的にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と訳すことができるでしょう。実を結ぶには持続性が必要なのです。「桃栗三年柿八年」というように、自然界でも、実を結ぶには、時間がかかります。木が実を結ぶまでに育つためには、ひとところに留まりつづけなければなりません。あちらに、こちらにと植え替えられていたのでは根を張り、枝を張ることができないのです。同じように、キリストにつながって実を結ぶためには、キリストにとどまり続けていなければなりません。それは、具体的には、礼拝を守り、聖書を学び、祈り、まじわりをし、奉仕をするということに現れるのでしょうが、一年や二年熱心にそれをするというのでなく、毎日、毎週、たゆみなく続けていくことが大切なのです。そして私たちがそうすることができるのは、キリストが私たちのうちにとどまっていてくださり、日々私たちを助けてくださるからです。

 今朝は、これから聖餐式を行いますが、実は、この聖餐式は、キリストが私たちのうちにとどまっていてくださるということを信仰によって確認するものなのです。聖餐式でいただくパンとぶどう酒は、キリストのからだと血を表わします。私たちがそれを食べ、飲む時、パンやぶどう酒が私たちのからだの中に入ってとどまるように、キリストも私たちのうちにとどまっていてくださるということをいてくださるということを、確認するのです。パンを食べる時には、イエスが「わたしはいのちのパンである」と言われたことを、ぶどう酒を飲む時は「わたしはまことのぶどうの木」とのみことばを思い起こしましょう。キリストが私たちのうちにとどまっていてくださるからこそ、私たちはキリストのうちにとどまっていることができるのだということを覚えましょう。また、聖餐式は、それによって私たちがキリストにとどまる決心を言い表すものでもあります。私たちはバプテスマによってキリストと結び合わされたことを言い表わしましたが、今度は、聖餐式によってキリストにとどまり続ける決心を言い表わすのです。イエスは「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」と言われました。キリストと私たちのつながりは、決して一方向のものではありません。キリストが私たちのうちにおられるように、私たちもキリストのうちにいなければならないのです。聖書と聖餐の両方によって、キリストが私のうちにとどまっていてくださることを確信しましょう。そして、私がキリストのうちにとどまり続けることができ、豊かな実を結ぶものになることができるよう、祈り求めようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、「わたしにとどまりなさい。」との主イエスのことばによって、私たちを信仰へと招いていてくださる、あなたの愛を心から感謝いたします。まだ、イエスを主として心に受け入れていない人々に、信仰の決断を与えてください。すでに主イエスを受け入れている者たちには、これからあずかる聖餐式において、主イエスが私たちのうちにとどまっていてくださることを鮮やかに示し、主イエスにとどまり続ける信仰を与えてください。まことのぶどうの木であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。

3/30/2003