天への道

ヨハネ14:1-6

オーディオファイルを再生できません
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 一、陰府への道

 使徒信条は、イエスの十字架と死について、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり…」と言っています。使徒信条のこの部分は、コリント第一15:3-5より取られていて、そこには、「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと…」とあります。しかし、コリント第一15章には「陰府にくだり」という言葉はありません。使徒信条は「死にて葬られ」の後に「陰府にくだり」という言葉を付け加えたのです。

 使徒信条のもとになった「古ローマ信条」にも「陰府にくだり」という言葉は無く、それが使徒信条に加えられたのは、350年から360年ごろだろうと言われています。それで、「陰府にくだり」という言葉は使徒信条に無くてもよいのではという考えが起こりました。また、「キリストが陰府にくだった」という言葉の解釈はさまざまなので、紛争を避けるためにも、この部分を削ってしまったほうが良いのではという人もあります。さらに、聖書には「キリストが陰府にくだった」という直接の言葉が無いので、この部分は聖書的ではない。だから、使徒信条を教会の信仰告白として受け入れることができないと主張する人もあるほどです。

 「キリストが陰府にくだったという聖書の直接の言葉がないから、この部分は聖書的ではない」という意見に、私たちは賛成しません。なぜなら、信仰告白の言葉は、かならずしも、聖書の言葉からの引用をつなぎ合わせて作るものではないからです。たとえば、「三位一体」という言葉そのものは聖書になくても、聖書のいたるところに三位一体の神が描かれており、「三位一体は非聖書的である」などというなら、それは「異端」の教えとなってしまいます。「異端」の教えは、聖書のあの部分、この部分を引用して作ったもので、聖書全体が語っていることから大きく外れています。私たちは、使徒信条にあるがままに「陰府にくだり」という言葉を受け入れた上で、それが意味するところを、聖書全体から考えてみる必要があります。

 「陰府」は、ヘブライ語で「シェオール」、ギリシャ語で「ハデス」と呼ばれ、死者の世界を表わすのに使われます。旧約時代、そこは希望のない場所と考えられていました。人は死ねば、二度とそこから帰って来れないからです。ダビデとバテシバとの間に生まれた最初の子どもは生まれて七日して亡くなりました。ダビデは子どもの命が助かるようにと七日の間断食して祈りましたが、子どもが亡くなったことを聞いたとき、断食をやめてしまいました。それを不思議に思った家来たちに、ダビデはこう言いました。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」(サムエル第二12:22-23)ダビデが「私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない」と言ったように、陰府への道は一方通行で、生きている者が陰府に行くことがあっても、陰府にいるものが生きている者の世界にもどってくることはないというのは、誰もが知っていることでした。

 信仰者には復活の希望が明らかにされるのですが、だからといって、死によって愛する者と切り離される悲しみが無くなるわけではありません。病気や年齢によるもので、ある程度の覚悟ができていても、実際にその時がやってきたときには、どんなに辛く、悲しい思いをすることでしょう。人の死はどんな場合でも辛いものですが、事故などで突然、愛する人を失くしたときの辛さ、悲しさ、嘆きは、胸が張り裂けるようなもので、言葉で言い表すことのできないほどのものだと思います。イエスの葬りの時も、わが子を失った母マリアを始めとして弟子たちの心に深い悲しみや嘆きがあったに違いありません。神の御子であり、救い主であるイエスもまた、私たちと変わらず、悲しみと嘆きの中で葬られ、死者の世界へと向かわれたのです。

 使徒信条が「主は…死にて葬られ、陰府にくだり…」という時、それは、イエスが完全に人となり、陰府に向かうということも含めて、人が体験するすべての苦しみを体験してくださったことを言い表しています。聖書に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とありますが、イエスもまた、人となって同じ道をたどってくださったのです。

 二、天への道

 陰府への道は一方通行です。では、イエスもまた陰府に行き、そこから帰ることがなかったのでしょうか。いいえ、イエスは三日目によみがえりました。陰府より帰ってきたのです。イエスが「陰府にくだった」ことによって、陰府への一方通行の道が双方向のものになったのです。そればかりでなく、それは天につながる道となったのです。復活の後、イエスは天に昇りました。それによってイエスは陰府から天への道を切り開いてくださったのです。イエスが死なれたのは、その死によって死に勝利するため、イエスが陰府にくだったのは、陰府から天への道すじをつけるためだったのです。

 死者の世界は、暗く、希望のない所と考えられてきましたが、神は、旧約時代にも、信仰者に希望の光を示してくださっていました。詩篇139:8には「わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」とあって、神の目は陰府の世界にまで届いているとあります。

 ヨブは死ぬよりも苦しい試練に遭ったとき、「ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてくださればよいのに」(ヨブ14:13)と神に願い、「人は死ぬと、また生きるでしょうか」(ヨブ14:14)と問うています。じつは、ヨブはこの問いの答をすでに持っていました。ヨブはこう言っています。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。」(ヨブ19:25-26)ヨブの言葉にあるように、旧約の時代にも復活の希望が信仰者に明らかにされていたのです。

 そして、新約の時代には、この希望がいっそう確かなものとなりました。イエスは、十字架を前にして弟子たちに言いました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。…わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:1-3)イエスは、この時、まさに「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだ」ろうとしていました。しかし、イエスは弟子たちに「陰府に行く」とは言わず、「父のもとに行く」と言いました。陰府にくだった後の復活と昇天を先取りして語ったのです。

 イエスの「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」という言葉は、私たちに大きな慰めを与えます。「死んだらどうなるのか。」私たちにはすべてが知らされていません。ですから、キリスト者であっても、不安があります。不安があって当然だと思います。しかし、はっきり分かることがあります。それは、イエスが信じる者と共にいてくださるということです。私たちが息を引き取るときもイエスは共にいてくださり、死のかなたにも共にいてくださるのです。そして、イエスが私たちのいるところに共にいてくださるばかりでなく、私たちもまた、イエスのおられるところにいるようになるのです。

 十字架にかけられた犯罪人のひとりが十字架の上で悔い改め、イエスを信じたとき、イエスはこう言いました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)これは、この犯罪人のたましいがイエスと共に、イエスのおられるところにいるようになるという約束です。「今日」と言われているのは、イエスの死後、この強盗もすぐに亡くなったからです。十字架刑というのは、生かさず殺さず、何日間も犯罪人をさらしものにし、徐々に死に至らせる残酷なものですから、「今日」その苦しみから解放されるというのは、この人にとって大きなあわれみだったのです。

 イエスが復活したのは三日後、イエスが昇天したのは復活から四十日後です。なのに、イエスは「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言いました。なぜでしょうか。それは、この人が悔い改めた「今日」、そこにパラダイスがやってきたからだと思います。イエスはルカ15:7で「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」と言いました。百人のうちひとりでも地上で悔い改める人がいれば、天では大きな喜びが湧き上がるということですが、それと同時に、この救いの喜びは悔い改めた人のところにもやって来て、悔い改めたその日より、その人のいるところがパラダイスになるということでもあると思います。この犯罪人が悔い改めたその日、その時、ゴルゴタの丘、十字架の上にさえ、パラダイスが現れたと言ってよいと思います。

 イエスは人となり、十字架の苦しみを耐え、死に、陰府にくだりました。天の栄光から、これ以上は低くはなれない、どん底までも降りてきてくださったのです。そうであるなら、「私は神から遠く離れすぎている。どん底にいるような私は救われない」などと、誰も言うことはできません。どん底でもがいているような人であっても、そこにも救い主がおられることを信じるなら、陰府にまでくだったイエスによって救われるのです。このイエスによって、イエスのおられる天の家に上って行くことができるのです。イエスはそのために「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだ」ったのです。死に勝利し、天に上り、天への道を確かなものにしてくださったのです。「わたしが道である」と言って、天への道そのものとなってくださったのです。あなたのいるところがどこであっても、そこから天への道が始まるのです。さあ、このイエスを通って、天への道を上っていこうではありませんか。

 (祈り)

 罪人の悔い改めを喜んでくださる神さま、イエスによって、あなたに立ち返る道、また天にいたる道を開いてくださり感謝します。イエスが十字架の上の犯罪人にパラダイスを約束されたように、私たちにも、「今日、わたしとともにパラダイスにいる」との約束を与えてください。今日をイエスと共に生きることによって、永遠をもイエスと共にあることができますよう、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

3/24/2019