もうひとりの助け主

ヨハネ14:16-17

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14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

 最近、ブッシュセンターに行く機会がありました。さまざまな展示がありましたが、ツインタワーの、歪んだ鉄の柱がいちばん心に残り、あの日のことが心によみがえってきました。歴史の資料や遺されたものを見るとき、わたしたちは、その時代に生きた人々と同じ気持ちになり、同じことを「追体験」することができます。教会の礼拝は、そうした「追体験」の場だと思います。礼拝には、特別な展示物はありませんが、聖書と聖礼典によってわたしたちは、最初の弟子たちと同じ体験へと導かれるのです。

 弟子たちは、わずか一ヶ月とすこしの間にイエスの十字架を目撃し、復活に出会い、そして聖霊を受けるという、劇的な体験をしました。わたしたちは、今、弟子たちと同じように、十字架と復活をへて聖霊を待ち望むシーズンを過ごしています。弟子たちと同じ思いで聖霊を待ち望みたいと思います。そして弟子たちと同じように「聖霊に満たされる」体験をしたいと思います。そのために、ペンテコステまでのしばらくの間、聖霊についてご一緒に学ぶことにしましょう。

 一、聖霊は人格

 聖霊について、まずは、聖霊が、概念とか、象徴とか、物ではなく、「人格」(パーソン)であるということを確認しておきましょう。

 「聖霊」は、旧約、新約を通して、「神の霊」、あるいは「主の霊」と呼ばれています。それで、多くの人は聖霊は、おひとりの独立したご人格というよりは、神の一部分、つまり、「神の思い」とか、「神の心」、あるいは「神の知恵」や「神の力」のことなのだと考えています。しかし、聖書は、聖霊をたんに神のスピリット(精神)や、影響力であるとは言っていません。聖霊をおひとりの「人格」として教えています。

 そもそも、「霊」という言葉自体が「人格」を表わす言葉なのです。ヨハネ4:24に「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」とありますが、ここで「神は霊である」と言われているのは、神が人格であるから、神への礼拝は規則や習慣、伝統や形式によるのでなく、わたしたちの人格をかけたものでなければならないことを教えるためなのです。神が知性と意志と感情を持ったお方であり、人を愛し、人に愛を求めておられるからこそ、わたしたちも知性と意志と感情のすべてをもって、愛を捧げるということです。

 人間が人格を持っているのは、神がそれを持っておられるからです。神は人間を「神のかたち」に造り、人格を持つ者とされました。神と違うのは人間はからだを持っていることです。テサロニケ第一5:23にこうあります。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」ここで、「心」とあるのは「たましい」と訳したほうが良いでしょう。人間は、「霊」と「たましい」と「からだ」から成り立ちます。「たましい」は「からだ」に支えられており、「からだ」を失えば、その機能を失いますが、「霊」は「からだ」から独立したものです。怪我や病気で手や腕、足を失くしたからといって、その人がその人でなくなるわけではないように、「霊」は死後も残ります。「からだ」がその人なのではなく、「霊」がその人なのです。ですから、人間は「からだを持った霊である」と言うことができるでしょう。ですから、わたしたちは「からだ」のことだけでなく、「霊」のことを大切にし、霊の糧である神の言葉を受け、霊的な訓練に励む必要があるのです。

 「聖霊」という表現は旧約にはない、新約独自のもので、聖霊が人格であることを強調するものです。新約の「聖霊」という言葉をたどって読んでいくと、聖霊がご人格であることがよく分かります。聖霊は人々に働きかけて、人々を教え、導き、語りかけられます。聖霊は「真理の御霊」と呼ばれて人を教え、真理に導かれるお方です。イエスが「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させる」(ヨハネ14:26)とおっしゃった通りです。イエスはまた、迫害を受け、弁明しなければならないことがあっても、恐れてはいけない、「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」(ルカ12:12)とも言っておられます。使徒行伝を読むと、「聖霊は…」「聖霊が…」と、聖霊が主語になって、御業をなさっておられる様子がいたるところに描かれています。「使徒行伝」(Acts of the Apostles)は、ほんとうは「聖霊行伝」(Acts of the Holy Spirit)だと言われるほどです。

 エペソ4:30にこうあります。「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。」「聖霊が悲しまれる」のは、聖霊が知性や意志、感情を持った「人格」だからこそです。聖書には「聖霊による喜び」という言葉もありますが、それもまた、聖霊が喜んでおられる喜びをわたしたちも共にするという意味なのです(ローマ14:17、テサロニケ第一1:6)。聖書は、はっきりと、聖霊が「人格」であると教えています。ですから聖霊を表わすとき、英語では、小文字の“spirit”ではなく、大文字で“the Spirit”と書くのです。

 二、聖霊は神

 次に聖霊が「神」であることを確認しましょう。

 「父」、「子」、「聖霊」の三人の神がおられ、それぞれが等しく神でありながら、「父」と「子」と「聖霊」は別々の神ではなく、おひとりの神です。“Thee in One, and One in Three”というわけで、これを「三位一体」と言います。

 「三位一体」を示す聖書の箇所は数多くありますが、今は、ひとつの箇所だけを取り上げます。それはマタイ28:19です。こうあります。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し(なさい。)」バプテスマは「父」と「子」と「聖霊」との名によって授けられます。「父」と「子」と「聖霊」ですから、三人なのに、この「名」は“names” と複数形ではなく、“name” と、単数形なのです。これは、「父」と「子」と「聖霊」が三人でありながらひとりの神であることを教えています。バプテスマが「三位一体」の神の名で授けられるのは、バプテスマを受けた者が、「父」と「子」と「聖霊」が、自分を救ってくださったことを常に覚え感謝し、「三位一体」の神を礼拝するためなのです。

 「父」と「子」と「聖霊」は互いに等しく神ですが、聖書は「父」を「御子」を生んだお方として、第一に置き、「御子」を第二に、聖霊を、「父」と「御子」から遣わされたお方として第三に置いています。しかし、だからと言って、聖霊が「父」や「子」に劣るというのではありません。御子であるイエス・キリストが世に来られたとき、聖霊は、御子の上に立っておられます。つまり、聖霊がイエスを母の体内に宿らせ、バプテスマのときにはイエスが神の御子であることを証しています。その後、イエスを荒野に導き、その公生涯で数々の力あるわざをさせたのも聖霊でした。聖霊は「父」、「御子」と等しい神なのです。

 イエスは、きょうの箇所で聖霊をご自分に等しいお方とされ、「別の助け主」と呼びました。ここでの「別の」という言葉は、「他の」とか「異なった」という意味ではありません。聖書は「他の神」を拝むことを厳しく禁じています。信仰を持つとは、「異なった神」を捨てて、まことの神に立ち返ることです。ですから、ヨハネ14:16で「別の」と訳されている言葉には、「別種類の」「違った」という意味の言葉「ヘテロス」ではなく、「同じ種類の」「もうひとつの」という意味の「アロス」という言葉が使われています。新改訳は、「もうひとりの助け主」と訳しています。

 「父」も「子」も「聖霊」も「同じ」神です。わたしたちは、聖霊を「概念」や「象徴」、「力」としてではなく、人格として信じますが、さらに、聖霊を神としてあがめます。聖霊は「父」のみこころによって計画され、御子イエスによって成し遂げられた救いをわたしたちのものとしてくださり、その救いをわたしたちのうちで引き続いて働かせ、わたしたちを救いの中にとどめてくださるお方です。父も、御子も、聖霊も救い主、助け主です。聖霊は救いの神です。

 三、聖霊を求める

 では、聖霊がご人格であり、神であることは、わたしたちにとって、どういう意味があるのでしょうか。いくつかは、すでにお話ししましたが、最後に三つのことを覚えておきましょう。

 第一に、わたしたちは聖霊を求めなければならないということです。17節に「それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない」とあります。続いて「あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」とあって、イエスの弟子と弟子でない人との違いは、聖霊を知っているか、聖霊を知らないかというところにあると言われています。イエスを信じない人は、聖霊を知らないばかりか、知りたいとも思わないでしょう。イエスに従うのでなければ、聖霊はいらないからです。しかし、イエスに従おうとするとき、人は、自分の力でそれができないことが分かります。イエスはわたしたちを神のもとに導いてくださるお方なのですが、本気でこのイエスに従おうとしたら、かならず「もうひとりの助け主」が必要なことが分かり、聖霊を求めるようになるからです。

 第二に、わたしたちは「人格的な信仰」で聖霊を求めなければなりません。わたしたちは、人生の岐路に立たされたとき、聖霊の「導き」を求め、聖霊の「知恵」を願います。また、困難な出来事に出会ったとき、それを乗り越えるために、聖霊の「力」を求めます。それはとても大切なことです。しかし、そのときに、聖霊が人格であることを忘れて、たんに「導き」だけ、「知恵」だけ、「力」だけを求めることのないようにしたいと思います。聖霊は単なるエネルギーではありません。聖霊の力を得るということは、ガスステーションで車にガソリンを入れて満タンにするということとは違います。聖霊はご人格です。なにかの決まった手順を踏めば、自動的に聖霊が働かれるというものではありません。聖霊とわたしたちとの関係が正されていなければ、聖霊に満たされることはありません。

 聖霊は人の罪を悲しまれるお方ですから、自分の中に聖霊を悲しませる罪がないかどうか点検し、それを悔い改める必要があります。また、わたしたちは時として、聖霊を自分の意志に従わせようとすることがありますが、それは間違っています。聖霊は意志を持ったお方なのですから、わたしたちも自らの意志を働かせ、聖霊のご意志に服従しなければならないのです。

 「人は、イエス・キリストへのパーソナルな信仰によって救われる」と言われます。そのとおりです。「パーソナル」という言葉には「個人的」という以上の意味があります。「パーソナルな信仰」とは、「イエス・キリストは救い主である」という一般的なステートメントを承認することではありません。イエス・キリストが人格のすべてをかけて、わたしたちを愛してくださったように、わたしたちも、人格のすべてをもってその愛にお答えしようとすること、それが「パーソナルな信仰」です。聖書に「神の顔」という言葉があります。これは神が人格であることを意味しており、「神の顔を求める」とは、人格である神を、わたしたちも全人格をもって求めるということを意味しています。たんに、聖霊の知恵や力を求めるというのでなく、聖霊ご自身を助け主として呼び求めたいと思います。

 第三に、聖霊を求めるということは、聖霊を神としてあがめるということです。聖霊は「わたしたちのうちに」住まわれ、わたしたちの内面に働かれます。それで、しばしば聖霊の働きと人間の感情とが混同されることがありますが、感情的に高揚することと聖霊の働きとは同じではありません。イエスがわたしたちと同じ人となられたからといって、イエスが神であり、主であることを忘れてはならないように、聖霊がわたしたちの内側で働いてくださる、最も身近なお方だからといって、聖霊が聖なるお方であることを忘れ、自分のしもべにしてしまおうとする間違いを犯すことがないようにしたいと思います。

 わたしたちは礼拝の最後に「父、御子、聖霊の主なる神に栄光豊かに永遠にあれ永遠にあれ」と歌います。聖霊は「父」と「子」とともに栄光を受けるべきお方です。また、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」との祝福を受けます。神との交わりとすべての祝福は聖霊から来るのです。礼拝のたびごとに、また日々の祈りのたびに、聖霊との人格と人格のまじわりが深められるよう祈り、求めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちに聖霊をお与えくださったことを感謝します。わたしたちは、あなたからの最高の賜物である聖霊をもっと知りたいのです。どうぞ、聖書の知識とともに、実際の体験を通しても、聖霊を知らせてください。そして、この聖なるお方によって、わたしたちの内も外もきよめられ、あなたに近づくことができますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/22/2018